宮古の心のふるさと。
2011/01/18 『総評』にご覧の方から紹介頂いた動画へのリンクを追加しました。
2009/12/13 DeepZoomPix サービス停止に備え該当画像を通常の写真に変更しました。
2009/04/25 PhotoZoom の DeepZoomPix へのサービス移行に対応しました。
2008/10/27 旧版地形図画像を追加しました。
2008/10/19 公開。
ラサ工業田老鉱山関連については、これまでに以下の調査報告書を公開してきた。
今回はこれらに続く第三弾として、宮古市にあった銅鉱山のための精錬所の脇に現存する大煙突について取り上げたい。実はこれについても上記の報告書と同時期に既に調査済みであったが、遅筆な私の所業により執筆及び公開が遅くなっただけである。
上述の報告書の記述と重複するが、宮古市田老にあったラサ工業田老鉱山で産出された鉱物は延長 10 km 以上にも及ぶ索道(鉄索)により、一旦宮古市街の港町である鍬ヶ先にあって既に廃止となった旧国鉄山田線の貨物支線宮古港駅で貨車に積み替えられ、宮古市小山田にある同社宮古精練所へと運ばれた。
本報告書で取り上げるのは、はるばる田老から運ばれた鉱石を精錬していた、その宮古精錬所にあった『大煙突』である。そう、敢えてそう書くがただの煙突ではない。『大煙突』である。煙突自体の高さは 160m あり、さらに標高 90m の小高い山の上に建っているため地上からすると約 250m もの高さがあるため、まさに大煙突と呼ぶにふさわしい。何故にこのような高さが必要だったかについては推測であるが、市街地から程近いことから精錬に伴って発生する亜硫酸ガスによる地表への影響を少しでも緩和するためと思われる。
宮古精錬所は 1939 (昭和 14) 年に本格操業を開始しているが、この大煙突もその当時より存在し、本報告書執筆時点 (2008 年 10 月) で実に 69 年を経た大変に歴史ある構造物なのである。
余談であるが、我が国の煙突高さ第一位は東京電力鹿島火力発電所の 231m である。しかし、同発電所は 1971 (昭和 46) 年の操業開始であり 1939 (昭和 14) 年操業開始のこの大煙突はもしかするとそれまで長らく我が国第一位の高さを誇っていたかも知れない。まさに、当時のラサ工業及び宮古の繁栄のシンボルであったことであろう。ところで、 1971 (昭和 46) 年は田老鉱山の閉山の年でもあり、さらに蛇足として私の誕生年でもある。
1986 (昭和 61) 年に同煙突はラサ工業から合同資源産業宮古製錬所に譲渡され、現在の所有者は日本シーアールアイである。ラサ工業の煙突として親しまれたこの煙突も既に同社の所有物ではないのである。
なお、本調査は遠征調査としての GNR - 第一次岩手計画 の一調査対象(No.19)である。
# 気がつくと現地調査から約二年が経過している。。。さらに一眼レフ購入前であるため、なおさら画像が粗いのもご容赦願いたい。
調査日:2006/10/22
※ ラサ工業田老鉱山跡【田老鉱山】 第一巻 と同一のものを参考として再掲。
年月日 | 事象 |
---|---|
1857 頃 | 高島嘉右衛門によって上部褐鉄鉱床が発見されたと伝えられる。 |
1911 | ラサ島燐鉱合資会社発足。 |
1913 | ラサ島燐鉱株式会社設立。 |
1918 | 八戸市井口氏、東京の坂本組が鉄鉱石を採掘。釜石に売鉱。 |
1918 | ラサ島燐鉱株式会社田老鉱山を買収、操業開始。 |
1923 | 不況により操業中止。 |
1926 | 操業再開。 |
1933 | 本鉱床着床。 |
1934 | 社名をラサ工業株式会社と改称。 |
1936 | 本格的に操業が開始。田老~宮古の鉄索を運転開始。鍬ヶ崎に鉱石貯蔵施設(本報告書調査対象)が建造される。 |
1939 | 宮古製錬所が完成。 |
1945 | 軍需省令により休山。 |
1946 | 操業開始。 |
1961 | フェーン現象により三陸大火により全施設焼失。 |
1962 | 面目を一新。全施設完成。操業再開。 |
1971 | 鉱石品位低下。埋蔵鉱量減少。自由化のため閉山。 |
1974 | 明星大学が田老キャンパスとして跡地を譲渡。 |
宮古市小山田にある宮古精錬所跡と本報告書で取り上げる大煙突及び後述する古い航空写真での見どころを示した。等高線により煙突が小高い山の上にあることが見て取れる。
なお、この地図は拡大・縮小・移動等が自由に行えるので見やすいように調整をして頂けると幸いである。
国土変遷アーカイブの昭和 23 年撮影の航空写真 (左側メニューより 100dpi <-> 200dpi 切り替え可能)ではそびえ立つ煙突と、そのふもとに広がる精錬所施設が写し出されている。
この航空写真は見どころ満載である。気がつく限りざっと以下に挙げる。上の地図上にて場所を確認してほしい。どれも調査対象としたいものばかりである。
肝心の大煙突の場所が分かりにくくなってしまったが、一番左下のアイコンの個所である。また、国土情報ウェブマッピングシステムの昭和 52 年頃撮影の航空写真も併せて比較して欲しい。
参考に、1975 (昭和 50) 年 発行の旧版地形図を入手したので掲載したい。上述の見どころも含めてご覧頂きたい。かつての宮古の風景を想像してみたい。以下の最初の画像は拡大縮小や移動が可能なのでじっくりご覧頂きたい。
出展:国土地理院 1/25,000 地形図「宮古」(S50/03/30 発行)※管理人一部加工
本物件は『廃』なものとして紹介されているのを見かけたりもするが、後述のとおり現在も煙突として機能しているようである。ただし、宮古精錬所は既に閉鎖撤去されているため銅精錬所の煙突としての役目も当然終えており、現在は同地域にあるラサ工業関連の施設のために第二の人生を過ごしている。
アプローチであるが、通常アクセスしやすいと思われる岩手県道 277 号宮古港線小山田トンネル北口付近からのメンテナンス用と思われる道路入り口にはゲートが設置されているのと民家も近いため、今回は全く異なるルートを選択した。それは古くから存在するのではないかと思われる山道である。
ただ、地図と現地との整合は厳密に行ったわけではないため、ルートはほとんどの部分が地形図に記載されているが不正確である可能性があり参考と捉えて頂きたい。携帯用 GPS が欲しい。
出展:国土地理院 地図閲覧サービス(試験公開) 1/25,000 地形図「宮古」 ※管理人一部加工
アプローチルート序盤の風景である。振り返るとそこには宮古湾及び重茂半島を見渡すことができる。写真では伝えきれていないがのどかで本当にいい眺めである。
ピンボケで恐縮だが、ほどなくしてアスファルトはなくなり未舗装の山道へと姿を変える。
その先畑の作業道のような雰囲気となるが、構わず進むと地形図でも示されている分岐点に到達する。ここでは、地形図を信じて右へ進む。10 月とは言えまだまだ植物の勢いは油断できない。一体何のための道なのだろうか。農道だろうか。
分岐点を過ぎると間もなく突然ワイルドな道へと変貌する。恐らく既に現役の道ではないのであろう。ただ、諦めて引き返すほどではない。ますます今となっては何のための道か分からない。
そのまま高度を稼ぎ森の中へと進むと、日光があまり差し込まなくなるため下草も減り大した難易度ではなくなるが、時折このような障害物が行く手を阻む。
しばらくすると尾根のような場所に抜け、北側の眼下に閉伊川が見える。足元にはラサ工業の敷地境界標と思しき標柱がみられる。側面に『ラサ』とだけ書かれた独特のものである。
大煙突を取り上げたサイトは多く見かけるがこの標柱を紹介されたサイトはあまりないようなので、このルートを使ってアプローチを試みるのは極めて少数派なのかも知れない。
この標柱は今いる尾根のような場所にいくつか連続して設置されている。敷地境界標のような気がするが、ひょっとすると何かの通信ケーブル等の埋設を示すものかも知れない。
尾根のような部分をしばらくすると鞍部に到達し、そこで急に森の中へと向きを変えるが相変わらず強敵な植物との闘いはない。
尾根に出たあたりから下草もなく快適な道であり、ひょっとして現役なのかと思わせるがやはりそうではないようで、またもや大自然の脅威がお目見えする。
この先若干藪が現れるが、ほどなく小山田トンネル側からのメンテナンス用と思われる道路との分岐点に到達し、そこから自動車も通れるしっかりした道をたどれば大煙突へ到達する。ここからでも、既に存分に『大煙突』っぷりを見せつけられる。
ついに大煙突の直下に到達である。宮古の至る所から見えるシンボルを間近に見ることができる。まずは地表部でその大きさを実感してほしい。試しにチャリンコと同行者を敢えて写り込ませてみたが、その『大煙突』っぷりがお分かり頂けるだろうか。
近年ではこのようなコンクリート煙突はあまり見かけることができないことに加え、周囲に柵等もなく直接触れられる環境で見ることが可能な貴重な煙突ではないだろうか。
敢えてもう一度書かせて頂くが、約 70 年前からここに鎮座しているのである。
上の写真にも写っているが、同煙突には以下のような銘板が取り付けられている。はっきり言って手持ちのコンパクトカメラではこのざまで、何が書かれているのかさっぱり分からないが、肉眼で確認した限りでは『設計主任』や『工事主任』等の名が刻まれている。
さすがに経年劣化は免れないようで、鉄筋が露出している箇所も存在している。当然建設された時代からして丸鋼である。開口部跡と思われる箇所をふさいでいるタイルは後年設置のものであろう。
また、高度成長期頃までかと思うが、アーチ部等の曲線部において一般的であった細かいコンクリート型枠の跡が時代を感じさせる。
煙道跡である。煙突自体の大きさと比較して欲しいが、でかい。この煙道もやはりスケールが並ではない。
煙道跡はこのように撤去された名残りとして残っているようである。現役当時はこの大きさの中を亜硫酸ガスが流れていたと思うと、強烈な印象である。
煙道跡を逆側からみる。現在はこの煙道跡へ格段に細い新しい『煙道』であるパイプが接続されており、煙突としては現役である。このパイプは熱を持っており、近寄ると熱と内部に気体の流れる音も聞こえる。
煙道跡を正面より見る。新しい『煙道』と比較し以下に大きなものかがお分かりだと思う。現在は鉄の扉で封鎖されているが、現役当時は存在しなかったものであろう。
煙道跡より見下ろす。かつてこのコンクリートの煙道は山の斜面を這いつくばり、ふもとの精錬所まで達していたである。その様子は上述の昭和 23 年の航空写真では少々分かりにくいが、昭和 52 年度の航空写真では何となく煙道のルートが写っているようである。
煙道跡の側壁の一部はこのように煉瓦の塊を押しこんだような箇所があった。開口部を塞いでいたのか、後年煙道の撤去時にハツり過ぎたのを修復したのか詳細は不明である。
煙道跡より煙突頂部を見上げる。植物が写り込んでいると、何となく『廃』な雰囲気が漂う。撮影した本人からすると、肝心の煙突が見えにくくなってしまっており、相変わらずの写真の腕の低さを痛感させられる一枚である。
新しい煙道はこのように軽快な鉄骨とワイヤーにより支持され、ふもとの施設まで伸びているようである(正しくは施設から煙突に伸びているのだと思うが)。
画面中央を流れる川は閉伊川であり、右側が下流すなわち宮古湾方面である。その閉伊川右岸の眼下に広がる広大な空き地のような場所こそ、かつての宮古精錬所跡であり、現在は見事に更地化されている。
煙突本体を直下より見上げる。写真よりも実際に見るとさらに迫力のある眺めである。私はこのように背の高い構造物をこういうアングルで見るのが実は結構好きである。『よぅこんなもん、こさえたな』と、思えるベストなアングルだと思うからである。
直下から見上げた逆光バージョンである。一眼レフがあればもっとそれっぽく撮れたかも知れないのが悔やまれる。
まだまだ直下からの眺めである。どうやら途中まで登れる梯子が設置されているが、上部に写っている小さな足場に到達するもののようである。
かつて、変電所や発電所、タンカーの接岸する桟橋や原油タンクの屋上とかちょっとした高いところへの梯子は経験済みだが、これを登れる自信はない。
上の写真をショボいコンパクトカメラで目いっぱい拡大して見ると、やはりあの小さな足場までの梯子であることが分かる。実はそれ以上に気になるのが、その梯子の先にかすかに見える大きな亀裂のような筋である。数十メートル先でこれだけ見えるとなると、かなり大きな亀裂(クラック)ではないだろうか。
かつての仕事柄コンクリートクラックは非常に気になるが、ひとたびクラックが発生すると周囲のコンクリートはまず間違いなく剥離していく。また、この煙突は比較的海からも近いことを考えるとコンクリートの中性化や内部の鉄筋の塩分による腐食も進みやすいと考えられ、もしこれがクラックなのであれば早めの補修が望ましい。
ここからは同煙突の遠景をいくつか取り上げたい。実はあまり遠景を撮影することに気合いを入れなかったため、遠景については何度か宮古を訪れた際の日付の異なるものが混ざっているがご容赦願いたい。
まずは大煙突及びふもとの宮古精錬所跡全体をとらえたカットであり、撮影場所は閉伊川に架かる小山田橋上であるが、逆光で写真の内容がよく分からない。
精錬所跡正面からの遠景である。煙突の大きさもさることながら、精錬所跡の敷地の大きさにも驚かされる。撮影時点ではアスファルト舗装がされているだけであったが、今後この敷地の再利用の計画等はあるのだろうか。撮影から二年が経過した現在どうなっているのかは未確認である。
ただ、やはり現役当時の風景を見てみたい。冒頭で挙げた過去の航空写真から想像するに山は緑もほとんどなく、煙突からは大量の煤煙が吐き出され素人目には荒涼としたまさに工場といった雰囲気であったはずである。
煙突の直下に残る精錬所関連と思われる構造物の遺構である。山の斜面と一体化しているため、ある意味法面保護のようになっており撤去するほうが危険だったと考えられる。
上の写真の左隣にある遺構である。ホッパーのようにも見えるが、鉱山関連施設の設備や構造物の知識がないため正体は不明である。上の写真でもそうだが、現役当時はハゲ山だった片鱗が認められる。斜面の一部には人工的な植栽も見られ、緑を取り戻す努力が行われているのであろう。
ところ変わって旧国道 45 号の閉伊川河口付近に架かる宮古橋東詰からの同煙突の遠景である。とは説明がないと分からないかも知れないくらいである。画面左端に写り込んでいるのがそれである。これは実のところ偶然写っていたのである。また、奥に写る青い鉄橋は JR 東日本山田線第三十四閉伊川橋梁(正式名称未確認)のものである。
ちなみに、この石碑は『アイオン台風災害復旧工事紀念』と書かれており、1948 (昭和 23) 年に発生した同台風により被災した閉伊川堤防の復旧を記念したものである。
最後に私のお気に入りの一枚で締めくくりたい。まさに宮古のシンボルたる眺めと自画自賛したい。重ねて悔やまれるが一眼レフがあれば。。。
これは宮古精錬所跡の県道を挟んで西隣りにあるいわて生協屋上駐車場からの眺めである。すらりと伸びたスマートなシルエットが美しい。また、このアングルからは山の緑がまだまだ回復していない様も見てとれる。
かつてこの撮影地点辺りはラサ工業関係者の社宅が立ち並んでいたそうである。それは冒頭の過去の航空写真でも確認でき、想像だがまさに我が故郷筑豊でいう『炭住』のようなもので、壮観な眺めであったことだろう。
この大煙突は宮古市(特に昨今の合併前の市内地域)住民にとっては、まさに故郷のシンボルとも言えるだろう。私も機会を得て何度か宮古へ通ったが、よそ者の私でさえ例えば山田線の車窓からこの煙突が見えると『あぁ、宮古に来たな』と思えたほどだからである。個人的には産業遺産の認定を受けるに値する貴重な構造物ではないかと思っている。単に一企業の煙突というのではなく、宮古市民の心のふるさとでもあり三陸地方の発展に大きな役割を果たした貴重な産業遺構なのだから。
ぜひ頂部付近のクラックと思しき箇所は早期に補修して末長く存続して欲しいと思う。ほったらかして危険になってからでは、それこそ危険だし撤去となれば莫大な費用もかかって泣きっ面に蜂となるだろうし、そうなって欲しくない。
煙突はやはりシンボリックだとつくづく思う。我が故郷筑豊でも『炭坑節』において、『あんまり煙突が高いので さぞやお月さん煙たかろ』と歌われている。
本調査以降にもGNR - 第二次岩手計画として宮古は訪れているが、同煙突は調査対象に含める時間がなかった。次こそはぜひとも一眼レフでもう少しまともな写真を撮り直したいと思う(せめてピンボケはなくしたいがこれは腕の問題か)。
なお、当報告書をご覧の方より以下の動画を紹介頂いた(コメント欄参照)。ここにラサ工業宮古精錬所の解体の様子が映し出されている。また、それ以外にもここで登場する解体屋(高野工業所)の逸話(米軍戦車と東京タワー)なども非常に興味深く、ぜひご覧頂きたい。ご紹介ありがとうございました。