かつてそこは人の住む街まで抱えるほどの日本を支えた一大鉱山であった。
2004/03/18 コメント欄追加
2008/06/18 全写真のサイズを拡大しました。
2007/01/08 公開。
岩手県三陸地方の街田老。この街の内陸の山間部にかつての鉱山跡がある。その名も『田老鉱山』。
その歴史は安政年間までさかのぼり、何故か易断の高島嘉右衛門によって採掘が始まったと伝えられている。その後ラサ工業の手によって昭和 46 年まで操業を続け、100 年以上にわたる歴史に終止符を打ったのである。
この間に戦争や火災により休山、再開の紆余曲折を経て膨大な量の金、銀、銅、鉛、亜鉛、硫化鉄鉱等を産出したという。ラサ工業は 1907(明治 40)年に沖大東島(通称ラサ島)でリン鉱石の採掘を始めたことに端を発する会社で国内に田老鉱山を含む数ヶ所の鉱山を所有していた複合企業であり現存する企業である。
現在はリン鉱石による肥料製造や鉱山の経営からは撤退し業態をすっかり衣替えしているため、鉱山は手放している。だが、どういうわけかラサ島は今もって全島がラサ工業所有のままである。
三陸地方はリアス式と呼ばれる海岸まで山がせまる地形と交通の不便さもあり釜石や久慈の鉱山等若干の例を除いては工業の発達が難しく、田老鉱山の発展がもたらした、地域や日本の発展も計り知れないものだったのではないだろうか。
ラサ工業の手によって本格的に操業が始まった田老鉱山は精錬を宮古市中心部に宮古精錬所にて行い、さらにそこへ鉱石を運搬するために延長 10km 以上に及ぶ索道(鉄索)及び精錬所の近くの港町宮古市鍬ケ崎に鉱石貯蔵施設が建設された。
これらの施設による雇用の創出も地域に与えた影響は小さくなかったはずである。また、最盛期には 1800 人以上が鉱山敷地内に作られた住居に住み、田老鉱山は単なる鉱山ではなく小学校や郵便局や神社まであるひとつの『街』であった。この人口増は田老の町制への移行の遠因のひとつになったほどである。
閉山後は東京の明星大学が敷地を譲り受け、宇宙線観測の拠点として利用されているが一部の鉱山施設は廃墟のまま残されており山中に人知れずひっそりと過去の栄光を伝えている。
なお、本調査は遠征調査としての GNR - 第一次岩手計画 の一調査対象(No.119)である。
調査日:2006/10/27
年月日 | 事象 |
---|---|
1857 頃 | 高島嘉右衛門によって上部褐鉄鉱床が発見されたと伝えられる。 |
1911 | ラサ島燐鉱合資会社発足。 |
1913 | ラサ島燐鉱株式会社設立。 |
1918 | 八戸市井口氏、東京の坂本組が鉄鉱石を採掘。釜石に売鉱。 |
1918 | ラサ島燐鉱株式会社田老鉱山を買収、操業開始。 |
1923 | 不況により操業中止。 |
1926 | 操業再開。 |
1933 | 本鉱床着床。 |
1934 | 社名をラサ工業株式会社と改称。 |
1936 | 本格的に操業が開始。田老~宮古の鉄索を運転開始。鍬ヶ崎に鉱石貯蔵施設が建造される。 |
1939 | 宮古製錬所が完成。 |
1945 | 軍需省令により休山。 |
1946 | 操業開始。 |
1961 | フェーン現象により三陸大火により全施設焼失。 |
1962 | 面目を一新。全施設完成。操業再開。 |
1971 | 鉱石品位低下。埋蔵鉱量減少。自由化のため閉山。 |
1974 | 明星大学が田老キャンパスとして跡地を譲渡。 |
田老鉱山跡周辺の道路地図である。
田老鉱山跡は三陸海岸に面する宮古市田老より長内川に沿って内陸へ約 5km ほど進んだ山間部にある。
ところで、道路地図に『鉱山跡』との記載があるのは珍しいのではないだろうか。
この地域の最も古い昭和 46 年発行の 1/25,000 の旧版地形図では現地調査が昭和 44 年であるため、閉山前の田老鉱山が記載されている。『あえん』とあり、亜鉛を産出していたことが分かる。
また、鉱山中央から右斜め下に伸びる直線は宮古市鍬ケ崎にあった鉱石集積所までの鉱石運搬用の索道(鉄索)である。その鍬ケ崎側の索道終点については以下の調査報告書を参照願いたい。
出展:国土地理院 1/25,000 地形図「田老鉱山」(S46/08/30 発行)※管理人一部加工加工
また、昭和 50 年撮影の航空写真では閉山数年後ということもあり鉱山施設の様子を見ることができる。
出展:国土交通省 国土画像情報(カラー写真) 整理番号「CTO-77-4」(S52 撮影)※管理人一部加工
田老鉱山へのアプローチは国道 45 号道の駅たろうの南約 1km ほど地点より分岐する長内川に沿った道路よりアクセスする。この道路は途中から砂利道となり田老鉱山跡まで続く。というより他に近づけるルートは無い。
アアプローチ道路を進むと程なく、車窓より強烈な色彩の池を見ることになる。上の地図で示した鉱毒処理用の沈殿池である。航空写真でもその色彩がうかがえる。
実際に見るとこのような感じである。ちなみに、この沈殿池は現在も稼働中であり今も処理水が延々と流れ込んでいる。
この処理水はさらに奥にある鉱山施設から道路わきのパイプで送られてくるようである。現在稼働中のパイプは写真を撮り損ねたが、以前使われていたと思われるパイプ(の架台)を道路脇の森の中に見つけたのでご覧頂きたい。
このようなパイプが延々と沈殿池までつながっていたのである(今もそうだが)。
アプローチ道路は冒頭で述べたとおり長内川に沿って作られているため、いくつかの地点では川と交差するための橋が架かっている。まず最新の地形図でその位置を押さえておきたい。
出展:国土地理院 地図閲覧サービス(試験公開) 1/25,000 地形図「田老鉱山」鉱山」山」 ※管理人一部加工
最初の橋は後に拡幅工事によって片側がコンクリートとガードレールに生まれ変わった『大舘橋』である。残念ながらオリジナルの親柱のほうは一部欠損しており橋名が少し分かりにくい。ガードレールのほうにも銘板がはりはっきり読み取れる。
欄干も低く、年代を感じさせるが竣工年が刻まれていたと思われる親柱は失われており特定できなかった。
次に現れるのは『明神橋』である。この橋は幸いオリジナルのままと思われ、低い欄干等往時の雰囲気を留めている。竣工は昭和 30 年 3 月とあった。それ以前はどうなっていたのであろうか。木橋だったのだろうか。
三番目の橋は明神橋のすぐ先上の写真で路面が白く写っている箇所に架かっている『明神新橋』である。残念ながら竣工年は記載がなく不明であった。あった。しかし、橋名と親柱の痛み具合から推定すると明神橋よりは新しいのではないだろうか。
また、明神新橋付近の長内川の中にコンクリート構造物の残骸のようなものが確認できた。何だろうか。自然のものとはちょっと思えない。さらに反対側に目をやるとかつての住居跡が現れる。ちょっと分かりづらいが下の二枚目の写真の画面中央ピンクの建物がそれである。
なお、この住居跡は接近しての調査は実施しなかったため竣工年度等の詳細は不明だがピンクやイエローといった鮮やかな壁色であり現役当時としてはかなり斬新だったのであろう。この地点では 5、6 棟程度が残存していた。
またそのすぐ先もかつての住居地域と思われるが建物は一切無く、コンクリートブロック塀が残るのみである。
旧版地形図では当然これらの住居跡は記載があるので現在地のおさらいも兼ねてご紹介したい。これで確認すると、現存する住居跡よりも大きめの建物がかつてあったようである。
住居であったという確証はないが、鉱山本体からから少し離れた場所に密集していることからそう推定した。
出展:国土地理院 1/25,000 地形図「田老鉱山」(S46/08/30 発行)※管理人一部加工
また、この旧版地形図で『住居跡(現存せず)』の引き出し線の先端部付近にアプローチ道路から川向こうへ分岐する地形図に記載の無い橋があった。その名もなんと『鉱山橋』。恐らくこの住居跡への道だったのではないだろうか。
この橋は鉱山アプローチ道路から注意して見ていなければ気がつかない。というのは分岐する道に従って進むと橋の部分は土砂というか砂利に埋もれて欄干や親柱が一見見当たらないからである。
下の左の写真画面中央に分かりづらいがチェーンが渡されており、そのすぐ先が橋である。また、 下の右の写真画面中央の少し右に苔のかかった四角い物体が欄干である。これじゃ分からん。。。
アプローチ道路からの眺めと親柱である。残念ながら竣工年等は発見できなかった。埋もれている親柱にあるのかも知れない。
『鉱山橋』ポイントを過ぎると鉱山施設の目前に幹部社宅跡と思われる建物が現れる。これも接近しての調査は実施していないため、本当に幹部社宅なのか詳細は不明である。
また、鉱山施設に程近い場所まで進むとこの建物への取り付け道路がある。ここも残念ながら時間的制約もあり立ち入らなかったため、詳細はまたの機会に譲りたい。
幹部社宅跡(推定)を過ぎると現在の所有者である明星大学の場違い(失礼)な看板が現れる。写真の道路の右側にある窪地は道中を共にした長内川である。このあたりは残念ながらコンクリートで囲まれた人工河川の様相を呈している。
この看板を過ぎるといよいよ鉱山施設中心部へと入っていく。
中心部は上の写真の通り長内川の右岸にアプローチ道路に対して左岸にあるため橋を渡る。これも何故か地形図に記載がない。その名は『中央橋』。竣工は昭和 38 年 10 月とあった。
表玄関にふさわしい雰囲気ではないだろうか。今までの橋とは異なりいささか立派に見える。明星大学の看板は少々残念だが。
ここを渡ると田老鉱山心臓部である。
第二巻へ続く。