田老からの鉄索の終点である。
2008/06/18 全写真のサイズを統一(一部縮小)しました。
2007/12/22 公開。
岩手県三陸地方の街田老。この街の内陸の山間部にかつての鉱山跡がある。その名も『田老鉱山』。現在も盛業中であるラサ工業が所有していたかつての鉱山跡である。これについては以前執筆した以下の報告書を参照して頂きたい。
そして、この田老鉱山で産出された鉱物を宮古市街地脇にある精練所へ運搬するために延長 10 km 以上にも及ぶ索道(鉄索)が建設され、一旦宮古市街の港町である鍬ヶ先にあって既に廃止となった旧国鉄山田線の貨物支線で貨車に積み替えられ、精練所まで運ばれたのである。そしてこの鍬ヶ先にはあわせて鉱石貯蔵施設も建造された。
本報告書ではこの鍬ヶ崎の鉱石貯蔵施設跡を取り上げる。なお、上述の旧国鉄山田線の貨物支線も既に廃線となっているがこれについては別途報告書として取り上げたい。
また、本報告書では一時情報源からの情報取得が大きく欠けているため、由来等の史実は追って追記するもの(いつか。。。)とし、現地調査時点での現状及びそこからの諸々の推察とすることを初めにお断りさせて頂きたい。
なお、本調査は遠征調査としての GNR - 第一次岩手計画 の一調査対象(No.22)である。
# 現地調査から執筆及び報告書公開までに一年以上が経過していることは公然の秘密という『仕様』である。
調査日:2006/10/22
※ ラサ工業田老鉱山跡【田老鉱山】 第一巻 と同一のものを参考として再掲。
年月日 | 事象 |
---|---|
1857 頃 | 高島嘉右衛門によって上部褐鉄鉱床が発見されたと伝えられる。 |
1911 | ラサ島燐鉱合資会社発足。 |
1913 | ラサ島燐鉱株式会社設立。 |
1918 | 八戸市井口氏、東京の坂本組が鉄鉱石を採掘。釜石に売鉱。 |
1918 | ラサ島燐鉱株式会社田老鉱山を買収、操業開始。 |
1923 | 不況により操業中止。 |
1926 | 操業再開。 |
1933 | 本鉱床着床。 |
1934 | 社名をラサ工業株式会社と改称。 |
1936 | 本格的に操業が開始。田老~宮古の鉄索を運転開始。鍬ヶ崎に鉱石貯蔵施設(本報告書調査対象)が建造される。 |
1939 | 宮古製錬所が完成。 |
1945 | 軍需省令により休山。 |
1946 | 操業開始。 |
1961 | フェーン現象により三陸大火により全施設焼失。 |
1962 | 面目を一新。全施設完成。操業再開。 |
1971 | 鉱石品位低下。埋蔵鉱量減少。自由化のため閉山。 |
1974 | 明星大学が田老キャンパスとして跡地を譲渡。 |
鉱石貯蔵施設が建設された宮古市鍬ヶ崎である。下の地図の中央より北側の建物が密集している地域がそれであり、かつては料亭や遊郭の並ぶ一大繁華街として名を馳せたそうである。やはり港町は活気があったのだ。石川啄木も立ち寄ったという。
現在はかつての繁栄が嘘のようにひっそりとした静かな佇まいを見せる街である。
以後報告書に登場する主な地点を示した。中央を南北に貫く黄色い道路はかつての国道 45 号であり、現在は新道開通により県道に降格された区間である。
なお、この地図は拡大・縮小・移動等が自由に行えるので見やすいように調整をして頂けると幸いである。
昭和 45 年 6 月発行の地形図では、田老鉱山からの鉄索がこの鉱石貯蔵施設付近まで伸びていることが分かる。また、高鉄分な諸兄(私を含む)にはたまらない、冒頭で述べた今は無き山田線貨物支線も描かれている。
なお、画面中央の上から右斜め下に延びる線が田老鉱山からの鉄索である。驚くべきことに旧国道を横断して山田線貨物支線に接続している様子が読み取れる。
出展:国土地理院 1/25,000 地形図「宮古」(S45/07/30 発行)※管理人一部加工(拡大他)
対比として現在の地形図をあげてみたい。地形図で新旧比較してもやはりふ頭周辺の激変ぶりが伺える。今ではなんと道の駅みやこまでできているのである。
ちなみに、この現在の地形図での黄色く南北伸びている道路が現在の国道 45 号であり、上の旧版地形図とのルートの変更部分がお分かり頂けるだろう。
出展:国土地理院 地図閲覧サービス(試験公開) 1/25,000 地形図「宮古」 ※管理人一部加工
Google Earth で見てみると、小さな山の裾にへばりつくように四角い構造物が見える。他の住宅等と比較することによって規模がある程度想像できるだろう。
鉱石貯蔵施設の周囲の関連施設は山田線貨物支線含めすっかり撤去され再開発が進んだため、この構造物だけがかつて積み出し地区として賑わった過日の面影を残す唯一とも言える存在となっている。
さらに、昭和 52 年度撮影の国土交通省の航空写真を見てみると、かつての港湾地区としての賑わいが想像できよう。上の旧版地形図の数年後の姿であるため、ほぼ同じと考えて差し支えないと思う。
実は今回山田線貨物支線も現地調査を実施したため、別途調査報告書として取り上げる予定である。
出展:国土交通省 国土画像情報(カラー写真) 整理番号「CTO-77-4」(S52 撮影)※管理人一部加工
本遺構は宮古市光岸地にある宮古漁協ビルの少し北に位置するが、近くまで行けば周囲から丸見えであるため迷うことはない。
手前の空地が何となくその『跡』のような撮り方をした写真だが、本報告書で取り上げるのは画面中央右の何故か一部が赤くなっている無骨な構造物である。
中央の小高い山がこれまでの航空写真で緑豊かな地域として写っていた愛宕山と呼ばれる山である。この山裾を画面左上から右下にガードレールに沿って通る道が旧国道 45 号であり、現在は県道 259 号崎山宮古線である。
この鉱石貯蔵施設跡へは画面中央にほぼ水平に伸びるガードレールが見えるが、これがこの県道から分岐してこの構造物へ直接向うアプローチ道路である。
また、構造物の足元にも広場があり間近に見ることが可能である。ご覧のとおり赤色の正体は 10 月下旬という季節柄紅葉によるものであり、この手の構造物にありがちな不思議な化学反応による生成物等が溶け出したりしているわけではない。
半身を大自然に委ねた独特の雰囲気である。
まず、この構造物の特徴として山の斜面にへばりついているため、せり出している山によって最下階は実質的に利用不可ように見える。また、片方の終端部分は以下のように階段状となっており、構造物全体の大きさからすると有効容積は少々少なくなっている。
ところで、この階段状と言えばラサ工業田老鉱山本体の旧鉱山事務所の構造物を思い出す。
もう少し注意して見てみると、元々この構造物は手前の広場の部分にも何らかの延長部分があったようである。下の写真で柱と梁の交点に注目して頂きたい。か弱い鋼材の断面が垣間見える。1936(昭和 11)年竣工であるため、現在のような H 型鋼が普及する以前であるため、恐らく L 型鋼と鋼板を組み合わせたものと考えられる。
つまり、この構造物は鉱石貯蔵という用途も鑑みると SRC(鉄骨鉄筋コンクリート)構造ではないだろうか。
しかし、だとしたらなんて細い断面の鉄骨なのだろうか(特にフランジ幅と肉厚)。
ここで、もう一度上の写真を見て頂きたい。二階の天井が真っ黒に煤けている。これは一体何だろうか。現役当時の名残なのか、廃止後の例えば焚火等の火災によるものだろうか。
次に冒頭紹介した県道から分岐するアプローチ道路から観察してみる。一応バリケードはあるが事実上人や二輪であれば通行可能な状態である。
奥には先の写真で登場したガードレールが見えている。左側の崖に山腹に道を切り開いた苦労をうかがうことができる。そして、いきなり廃自動車がお出迎えである。何というか木の茂る大自然の脅威と時の流れを感じさせる。
その廃自動車である。私には『DAIHATSU』車であるということ以外は全く分からないが分かる方には懐かしい車種ではないだろうか。
そのまま奥へ進むとガードレールではなくなり、時代を感じさせる柵に変わりあっという間に鉱石貯蔵施設が見えてくる。やはりこの道路を開削した崖は岩手県ならではの岩であり、風化による崩壊が進んでいるようである。
やがて、左側に石垣が現れる。石垣の上は平場になっている。
鉱石貯蔵施設跡そのものは何故か南側妻面が真黒である。ただ、これは煤とかではなく、塗装されたように見えるため、現役当時は全体的に黒だったのかも知れない。
柵の足元ににゴムタイヤが落ちているが、そこからの植物の生育具合からしていつの時代のタイヤなのだろうか。
上の写真でも分かるようにこの道路からこの構造物の最上階への入り口が見える。残念ながら当然と言えば当然だが厳重に封鎖されている。
この入口より内部を覗いてみると、貯蔵施設らしいかなり階高が高くそれでいて全くシンプルな空間がそこにあった。かつてここには田老鉱山から運ばれた各種の鉱石が山積みされていたのだろうか。
ここからはこれ以上内部の探索は不可能であるため、再びアプローチ道路を進むことにする。
この入口を過ぎると道路はこの構造物の屋上レベルとほとんど同じになり、屋上へと上がることが可能である。屋上より今来た方向を振り返ると遠くには宮古湾越しに重茂半島を形成する月山(がっさん)がそびえ、直近右側にはアプローチ道路が切り通しのようにこの屋上と同じレベルに上がってくる様子が見て取れる。
かつては、県道との分岐点にあった廃自動車達がここを頻繁に通っていたことであろう。
少々ピンボケで見づらい写真だが、ここで山側(画面右側)に目を転じると山際に立派な石垣と平場が現れる。つまり、このアプローチ道路は構造物の屋上と山側の平場の間を掘割のように上がってきているのである。
また、この屋上付近はこの愛宕山の峰にせまる位置であることも分かる。
ここから後ろを振り返ってみると、奥には屋上と同一レベルにやはり平場があり、今度は左側となった山側にはまたもやピンボケで見づらいが石垣が見えている。
この奥の平場は上の写真の突き当り手前で下の写真のように右斜め方向に延びている。右奥のコンクリートの石垣のような場所は既にこの愛宕山からは離れた遠くの眺めであり、無関係である。この平場が最奥である。
ここで、再び来た方向即ち通り過ぎた貯蔵施設の方向を振り返る。
これらの平場は一体何だったのであろうか。ここで再び冒頭で紹介した昭和 52 年度撮影の航空写真を見てみたい。この写真からはどうやら駐車場のように見える。
そして、その駐車場であったと思わせるもう一つの証拠がこれである。実はこれらは三つほど手前の現地写真のほぼ画面中央の場所にあるのだが、樹木に覆われて見えていない。
一体何がどうなったらこんなに変形するのだろうか。左側の白い車は見てのとおりオープンカー状態であり、右側の赤い車は異様に小さい。
ちなみに、その赤い車はこのように中央部分で V 字型に折れている。ロゴ等を確認した結果、なんと『ホンダ Z』とあった。あの美しい曲面のボディがこの有様である。
ご存じの方には懐かしいであろう。私の父親もかつて所有していた(青色)。と言っても、この写真では懐かしさを感じるのは難しいとは思うが。
実際現地で確認可能なのはここまでである。ご覧頂いた通りこのコンクリート構造物が一棟と駐車場とおぼしき平場のみである。
そして、関係者のものであったと思われる自動車が豪快な姿で放置されている、時間が止まったような空間であった。
岩手県の三陸地方(にとどまらず)にとってラサ工業は非常にインパクトの大きい存在の企業のひとつである。それだけに、このような痕跡も鉱山の閉山後三十年以上が経過するにも関わらず未だに存在しているのかも知れない。
ただ、本調査対象については事前の(実は事後も)現役当時に関する情報を持ち合わせていないため、現地調査時点での現況をお伝えするのが関の山である。
しかし、本報告書執筆中に発見した新情報として、本報告書冒頭の最新地図の当該地点にはこの鉱石貯蔵施設跡周辺に以下のように他の建造物が記載されているのである。
現地では発見できていないため、比較的近年まで残されていたのかも知れない。もし、そうであれば非常に惜しい。『ラサ工業八十年史』なる存在も最近知ったため、次回訪れる機会があれば事前の文献調査やこれら謎の建造物と思われる痕跡等も現地での探索対象として備えたい。
情報をお持ちの方はご教示頂けると幸いである。