かつてそこは人の住む街まで抱えるほどの日本を支えた一大鉱山であった。
2008/06/18 全写真のサイズを拡大しました。
2007/01/14 公開。
第二巻より続く。
これまでの直接的な鉱山施設以外の施設をここで取り上げたい。もう一度旧版地形図で施設の位置を再確認しておく。
ご覧の通り郵便局に神社、さらには小学校まで設置されていたのである。確かに山間部という立地からして幼い小学生を延々山道を歩かせるのは危険と考えられるため、賢明な措置であったと思う。
が、中学生はどうしていたのだろう。
神社は鉱山の安全を祈願したのであろう。当時の信仰心や鉱山職員の心のつながりというかそういうものの結びつきが強かったのではないだろうか。
出展:国土地理院 1/25,000 地形図「田老鉱山」(S46/08/30 発行)※管理人一部加工
始めに、前述の中央橋を渡って鉱山中心部へと入る道から少しはずれた上の地図で示した郵便局の近くにある『田老鉱山阯碑』である。
まず何と言っても立派である。田老鉱山に寄せる並々ならぬ想いが伝わってくる。
向かって左には『田老鉱山年表』が記されており、また右の石碑の裏には碑建立のことばが綴られている。
この年表は調査の参考となると思われるため、写りが悪いが大きめの画像でご紹介したい。この中で個人的に非常に気になるのが昭和五十七年の記載で前年の三陸大火で全施設を消失した翌年である。
面目を一新、全施設完成(鉛、亜鉛鉱も産出)操業
熱い想いが『面目を一新』の一言に込められていると思う。この時の喜びはひとしおだったのではないだろうか。
また、碑の裏面にも建立に寄せたことばがこれまた熱い想いを汲み取ることができよう。碑文を書き留めておきたい。
田老鉱山七十年の歴史のうち、一九七一年、閉山にいたる三十五年の足跡は、激動と浮沈の昭和時代のまっただ中を駆け抜けた、輝かしい一閃の光芒である。三十八万アール余の広大な地下から産出した莫大な金、銀、銅、鉛、亜鉛、硫化鉄鉱などは、資源小国日本をどれだけ力づけ、その繁栄に寄与したか測り知れない。それは、ここに働き、住んだすべての人びとの多彩な人間ドラマとともに永遠に記念されなければならない。とりわけ、この清澄閑寂の地、明神山の山懐を、国難に赴き還らなかった人びと、また、鉱山を愛して、終の栖とした仲間たちの永劫回帰の地と定める、ゆえん、である。
平成元年十月吉日
ラサ工業株式会社学校法人 明星学院元田老鉱山従業員一同
この石碑のそばにかつての郵便局跡がある。閉山後は明星大学の『土木工学科橋梁研究室』との看板が掛けられているが、現在は使用されていないようであり 〒 マークの看板は残されていた。入り口の扉の上である。
ガラス越しでの撮影であったため、鬼のようにピンぼけではあるが内部はまさに郵便局であり大学の研究室として利用したとはとても思えないくらい現役当時のままの雰囲気だと思われるのでご紹介したい。
石碑と郵便局はアプローチ道路から中央橋を渡った対岸にあるが、再びアプローチ道路に戻るとかつての消防車庫があり、これも残存するものの利用されていないようである。
ガラスの割れた窓から内部をのぞいてみると、出勤簿だろうか木札が残されていた。
※上の写真は誤ってオリジナル画像を失ったため、サイズが小さくなってしまった。ご容赦願いたい。
さらに足元を見ると、何かの帳簿がそのまま放置されていた。中身を拝見したかったがマジックハンドを持ち合わせていなかったため実現しなかった。またまたピンボケである。
また、シャッターの内部を裏の窓からのぞいて見ると整理棚があり整理整頓を喚起する貼紙である。あわせてご覧頂きたい。
次にそのすぐそばにあるのが『講堂』である。玄関は閉鎖されており内部への侵入は不可能であった。
私の人生経験では講堂とは学校で全体集会等のイベントの開催場所としての位置づけでしかないが、ここにある講堂は学校の敷地内ではない。田老鉱山全体としての講堂だったと思われる。
また、側面の窓ガラスは割れており内部をのぞくことが出来た。内部の様子である。誰しも懐かしく感じる光景ではないだろうか。
正面垂れ幕にはラサ工業の社紋が刻まれており、椅子も恐らく最後の集会時のままなのだろう。
さらにアプローチ道路を進むと再び長内川を渡る橋が現れる。『砥澤橋』である。竣工年は昭和 36 年 3 月である。
冒頭の地形図ではこの橋を渡って右側に見える石垣の上にどうやら建物がいくつもあったようであるが、一見したところ何もなかったように見えたため、立ち入らなかった。そのまま進むと『中砥澤橋』にて再び川を渡る。
竣工年は昭和 33 年 3 月である。
この橋の横を流れる川の護岸が石垣となっているが、これが大変に美しく壮大な眺めであった。例によって写真が下手なのでうまくお伝えできないがご紹介したい。進んできた道を振り返る方向である。
この橋を渡り終えると分岐が現れ、右に進むと山深くさらに進んでいく。左に曲がると神社と小学校にたどり着く。
神社の入り口の階段が残っており少し入ったところに狛犬が一体残っていた。が、境内は本殿(?)等の建物も無く植物の繁殖により自然に還りつつある。内部へ進んでいないため相方の狛犬の所在は確認できなかった。
また、入り口はもう一箇所あるがそのそばには名称は分からないが恐らく手を清める際の水を溜めていた石造りのものがあった。ここもまた石垣が青く美しい。
中砥澤橋の分岐を左折し、神社を過ぎると小学校となるがこの道の左側には川が沿っている。また、川の対岸には小学校のグラウンド跡がありこの川を渡る橋が現存している。
ご覧頂きたい。木橋である。また、左の写真での川の左側の護岸は石垣である。壮大な眺めがご理解いただけるだろうか。
木橋は頬杖ラーメンとでも言える構造であり、接合部の一部は鉄板で補強されていた。橋上は藪化しており渡橋可能かどうか不明であったため渡らなかった。従って親柱も確認が出来なかったため橋名は未確認である。
神社から小学校に至るまでに木橋はもう一箇所現存していた。構造も先程のものと同一と思われる。ここでも残念ながら親柱当の確認は時間的にもできなかった。ほんの少しの藪こぎで確認可能とは思われるが。。。
そして、小学校である。恐らくメインであった二階建ての校舎は現存しており内部への立ち入りも可能である。校舎内の様子をいくつかご紹介したい。卒業生の方にとっては懐かしい思い出の詰まった光景だろう。
いきなりだが教室内の様子から。またとある教室では机や椅子が放置されていたが最近は見かけない当時のタイプであろう。
また、なぜか年代モノのミシンもあった。正面には『BROTHER』とあった。
廊下である。写真では分かりづらいが白いセンターラインが引かれていたようである。ちなみに私はセンターラインのある廊下は経験がない。
残念な事実をひとつだけ。ここも廊下や教室いたるところに BB 弾が大量に散乱していた。この人里離れた地までモデルガンを持ち込み戦争ごっこをやる神経が理解できない。明星大学の学生ではないと願いたい。
給食室だろうか。近づかなかったため断定は出来ないが釜のように思えた。
順番が滅茶苦茶だが玄関である。かつては登下校の児童で大いに賑わったことだろう。
最後に木橋の対岸にグラウンドがあったと書いたが実は体育館跡もあった。体育館へ通ずる鉄骨造のデッキにより川を一跨ぎにし、雨に濡れずに移動可能であった。このデッキも見た目には渡れそうではあったが、定かではない。参考にならないが今回私は渡っていない。
なお、非常に残念だが時間的制約のため体育館の調査は実施できなかった。次回の宿題としたい。
体育館以外にも宿題はいろいろあるが、ひとまず構造物関連の調査は以上である。
最後に神社付近にあった分岐を右に進みさらに山中へ進んでみたが、旧版地形図にも記載のある山道を下の最新の地形図で『旧来道路』をしばらく進むと若干のコンクリート構造物が現存していたが、『新設道路』との分岐地点で断念した。
道が悪く、通常の S クラスレンタカーでは何度も腹をこすったためである。この先に進むには四輪であれば車高の高いほうがよい。二輪でも私のかつての愛車 NSR 等レーサーレプリカではなくオフロードタイプでなければ辛い。
他サイトの情報ではどうやらこの道を進んだとある場所に坑口跡やその関連施設が残っているそうである。
出展:国土地理院 地図閲覧サービス(試験公開) 1/25,000 地形図「田老鉱山」 ※管理人一部加工
全国にいくつかあった鉱山を主体とした生活圏が形成されていた場所として今回田老鉱山跡を訪ねたが、鉱山と共にある日を境に突然人がいなくなった様のすさまじさを垣間見た。山が海までせまるリアス式海岸を抱える三陸地方でこれだけの大規模な鉱山が築かれたのは本報告書の冒頭でも書いたが一大事であったろう。
現在は合併により宮古市となった田老の町は津波との闘いの歴史を持つ。津波で一度町のほとんどが更地となった経験を持ち、海沿いのわずかに開けた平地に街を築き工業系の産業も特に無かった地に山間部とはいえ人が集まる産業が発達したことは特筆に値しよう。
今回は文献による机上調査がほとんどできない状態での現地調査であったため、もったいないお化けが大量発生の調査結果となってしまったが、時間的制約のため調査が不可能であった。しかし一部の建物には明かりが点いており恐らく大学関係者が常駐している可能性もあるため全貌の調査は難しいが今後機会があれば何度でも再調査を実施したい遺構である。
ちなみに、調査実施一週間後の 11/4-5 には宮古市教育委員会主催の『田老鉱山の軌跡』と題しての展示会が行われたようである。一週間後である。泣きそうになった。
この展示会では当時使用された道具や各種資料が展示されたようである。この展示会には参加できなかったため次回調査に備えて文献調査を進めたいと考えている。どなたか情報をお持ちの方はお知らせ頂けると幸いである。
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