まさに天を駆ける汽車である。
2010/11/27 餘部橋梁の表記を余部橋梁に修正しました。
2010/11/27 写真を追加しました。
2008/06/14 全写真のサイズを拡大(一部縮小)しました。
2007/04/15 公開。
第二巻より続く。
ここでようやく余部橋梁の真髄をご紹介することとなる。ここでは浅学な私のコメント等全くの無駄であろう。
明治時代の人たちの鉄道にかけた情熱を感じて頂きたい。
そして第一巻で触れた明治期のレンガ隧道と橋梁との間にかつてあった鉄橋守の常駐した小屋は今はない。
第一巻での土木デジタルアーカイブスの写真と比較して頂きたい。
最後に定番撮影ポイントからの絶景で締めくくりとしたい。
やはり明治時代の土木技術の高さには本当に驚かされる。非常に残念ではあるが 100 年にあと少しというところでこの橋は使命を終え解体される。一部を記念に残す案も検討されているとのこと。ただし仮にそうなったとしても最早それは橋ではなくモニュメントである。冒頭でも述べたとおり強風による転落事故の危険性や老朽化による維持コストの上昇は如何ともし難く、いつまでもこのままという訳にはいかないだろう。
ただ、ここにこの鉄橋が確かに存在し地域の足として重責を担ったことや住民の請願により餘部駅が設置されたことは記録に残していきたい。
現在山陰本線はどちらかというと本線の名に違和感すらを感じかねないローカル線のような路線となっている。これは言うまでもなく戦後のモータリゼーションが最大の原因とは思われるが、そもそも地域的にもかつて裏日本と呼ばれたとおりどちらかというと非都市部の地域が多く、これが幸か不幸かこのような古い構造物等が現代にまで生き延びる原因ともなっている。
私のような近代土木構造物も追いかけるような人種には非常に好ましい状況ではあるが、利用している沿線の人達にとっては現代の便利さから取り残されているとも言える。何事も新しくするにはお金がかかる。ましてや鉄道は莫大な費用が必要となる。多くの利益を生み出す路線ではどんどん改良が進んでいくのであるがそうでない路線では線形の改良、複線化や電化等の改善は遅々として進まない。
しかし、昨今今まで全く価値を見出されることのなかった近代土木構造物はようやくその価値を認められ土木遺産として貴重な歴史の生き証人として保存や研究が徐々に進んでいる。
この餘部鉄橋も国内随一のトレッスル橋も何か後世にその歴史を伝える証人としての第二の人生が多くの人に受け入れられることを期待している。
最後に鉄道を愛する者としてこのような場所に行くとつくづく感じるのが(広い意味での)一部の鉄道ファンのマナーの悪さである。愚行の数々はここではいちいち取り上げないが、そこには鉄道だけでなくその地域の市民の暮らしや財産が存在することを忘れないで欲しい。このような心ない人間がいることは非常に恥ずかしいことだと思う。自分がされて嫌なことを平気でするような人間は人々の暮らしのためにある鉄道を愛する資格はないと思う。
もちろん自分への戒めでもある。
最後に、この報告書を書いている頃には既に新橋梁建設のために工事現場が姿を現していると思うがこれも心ない人達に荒されたりしないことを願っている。
私としては新橋梁に切り替えられる前にもう一度この地を訪れたいと密かに目論んでいる。