高架化で失われる古レール。
2010/06/23 公開。
西武鉄道池袋線の石神井公園駅の開業は 1915 (大正 4) 年 4 月 15 日である。すなわち、開業から 95 年が経過している歴史ある駅である。そしてこれは、そのまま池袋線の前身である武蔵野鉄道の最初の開業日でもある。なお、開業当時の同駅は石神井駅という名称だった。その後 1933 (昭和 8) 年 3 月 1 日に現在の駅名へ改称している。
石神井とは変わった地名であるが、これはかつてこの地で井戸を掘った折、石剣が出土したために『石神の井』となったのが由来とのことである。剣を神と崇めたのである。
九州育ちでなお且つ沿線住民でもない私でも、この石神井という地名は以前より聞き覚えがあるがそれは付近にある都立石神井公園によるものが大きいと思われる。かつてそこには石神井城もあったという。
現在池袋線では同駅を含む高架化工事の進捗に伴ない 2010 (平成 22) 年 2 月 7 日(誕生日だ)より、上り線すなわち池袋方面行きのホームが高架化された。その後も工事は鋭意進行中である。それはつまり古レールの宝庫と言われた同線からまた一つ貴重な産業遺構が失われることを意味する。
ちなみに、西武鉄道では古レールを産業遺構として捉え既に駅改良工事により撤去されたものを一部保存している駅もある。以下の調査報告書にて紹介しているのでご覧頂きたい。
同駅の古レールはホーム上屋及び跨線橋に使用されていたが、二回目の現地調査の際には既に跨線橋はほぼ撤去されていた。幸いなことに本格的に高架化工事が始まる前の初回訪問時に調査できたので、数十年来に渡り駅利用者に貢献し続けた記録として合わせて紹介したい。
調査日:2008/05/04、2009/07/05
下り方面行きである 1、2 番線ホームの上屋の古レールは西武型とも言えるおなじみのやじろべえタイプである。そして最も手前に写っている柱は木造であり、さらに古いものと思われる。
これは勝手な推測であるが、正面奥に跨線橋の階段があり駅係員の右上にも駅本屋へ通じる跨線橋が確認できるが、この跨線橋建造以前はホーム上屋は木造であったが、古レールによる跨線橋の新設に伴いホーム上屋も一部が古レールによる架構になったものと思われる。
その証拠(と思いたい)にちょうど古レール柱の直上の屋根部材に不連続な部分があり、これが建設年代の差異ではないだろうか。
ちなみに、そこから所沢方面を振り返ると木造の柱によるホーム上屋が確認できる。隣の上り方面ホーム上屋も同様に木造である。思いっきり逆光であったため少々加工しているので見辛い写真であるがご容赦願いたい。
なお、画面右側のユンボが立ち並ぶ辺りはかつて西武鉄道の重要な業務であった貨物輸送のための側線が並び貨物列車の退避も見られたという。その当時の写真が以下の URL にて確認できる。その中でこの木造のホーム上屋は武蔵野鉄道時代からのものであるとの記述もある。
再び古レールに戻る。やじろべえの奥には柱が二本となり架構が異なっている。これは既に撤去された跨線橋の名残りである。つまりこの写真は二回目の訪問時のものである。ほぼ同じアングルである最初の写真と比較されたい。
こうもきれいに無くなると、まるでそこには跨線橋などはじめから無かったようである。
跨線橋部分を過ぎてさらに池袋方面へ進むと再びやじろべえとなり、さらにその奥は木造へ戻る。ということはホーム両端は木造の柱による上屋であり、かなり古い段階からかなり長さに渡る木造の上屋が存在していたことになる。いつ造られたのだろうか。
冒頭で述べた通り、既に供用が廃止されている上り方面ホームである 3、4 番線にも古レールは一部残っている。写真は二回目の訪問時であるため既に跨線橋は無く、画面右側に写る仮設の鉄骨が構築されていた。
なお、画面左奥が所沢方面となるが前述の写真にもあった通り木造部分も残されている。ちょうど古レールと木造の切り替わり部分に跨線橋の代替と言うべき仮設地下通路への階段入り口が見える。
その仮設地下通路への階段からの眺めである。一番最初の写真と同様に屋根材の不連続部分がわずかに残されているため、ちょうど古レールの柱は残され木造の柱の一部が撤去されこの階段及び仮設鉄骨による柱が構築されたと思われる。
池袋方面を望む。ここまでこのホームの写真は二回目の訪問時のものであるため、既に跨線橋は無い。そしてホームの左側には工事が進む高架橋が写っている。古レール部分はわずかに 3 スパンだけ残されている。
1、2 番線の写真ではこのやじろべえが 5 スパンほど続いて跨線橋となっていたため、同様の位置と仮定すると奥に見える仮設鉄骨は古レール柱の一部を撤去して構築されたことになる。
次にかつて存在した跨線橋である。つまり以降しばらくは一回目の訪問時の写真である。
まずは下り方面のホームより所沢方面に向かって南口の駅本屋方向を見る。この跨線橋が既にすっかり無くなっているのである。少々不思議な感じである。ただ、ホームの階段部分は跨線橋により歩行出来る部分が狭いため、跨線橋の撤去により広くなり安全性は増したと言える。なお、画面左側に写る上部に緑色の帯の入った建物は駐輪場である。
続いて同じく所沢方面に向かって 1、2 番線方向を見る。さすが都会の駅の跨線橋とでも言おうか、ホームへの階段は二箇所となっている。こうやって見ると地平駅における跨線橋はその駅の景観に大きな影響を及ぼす存在であることを再認識させられる。
跨線橋の裏側である。思いのほか複雑な架構と言った印象を受ける。そして特徴的なのが木材を多用していることである。あまり他の駅では見かけない。木材使用の目的は不明であるが雨の降り込むのを防止するためかも知れない。
跨線部分を見る。架構として一般的なトラスである。そして床版はコンクリートであるため、上の写真のようにわざわざ裏面を木材で覆っているのはやはり珍しい部類だと思う。
以降は跨線橋撤去後の二回目の訪問時の写真である。まずは 1、2 番線の池袋方面を望む。跨線橋のあった部分は古レールの柱がやじろべえではなく二本のタイプのまま残されており、その奥では再びやじろべえになっているのが確認できる。
そして階段の入口の下がり壁と階段を支えていた山型の古レール架構及び奥に小さく見える反対側の階段の斜めに下っている屋根の一部がわずかな痕跡である。また、跨線橋撤去後の屋根の開口部には仮設の覆いが設置され蛍光灯も取り付けられている。
そして画面右側には前述の駐輪場が写っている。跨線橋の撤去により空が開けた感じである。
今度は逆に池袋方の階段跡付近より所沢方面を望む。こちらも全く同様にわずかな痕跡だけを残して跨線橋はきれいサッパリ撤去されている。ここにもわずかに駐輪場が写っているので前述の写真と比較して頂きたい。
跨線橋の階段の屋根だった部分である。普通にホームを歩いているだけでは気が付きにくいが、これが跨線橋の痕跡である。ちょうど撮影場所に階段があったことになる。数え切れないほどの人々がこの階段を利用したことだろう。
ところで、上の写真も奥に微妙に写り込んでいるが屋根の裏側に不思議なものを発見した。何のためかベニヤ板が打ち付けられており、さらにそこに得体の知れない顔のように見えるものが挟まっている。これは何なのか全く以て不明である。どなたかご存知だろうか。
これら跨線橋の痕跡をとなりの 3、4 番線ホームより望む。こうやって見るとそこに跨線橋があったことはイメージしやすいが、いざその真下ではかえって気がつかない。これは我々一般人の目が構造物の骨格ではなく意匠によりイメージされやすいことのひとつの現われとも言えよう。
目を南口の駅本屋に向けると、そこには跨線橋の架構の一部がこれまた気が付きにくいが残されている。なぜこのような状態で残されたのかは不明であるが、恐らくは地面を堀り返す手間を嫌ったのではないだろうか。
ホームよりほぼ真横から見るとなお塗色の影響もありなお目立たない。数本の柱とこれらが倒壊しないように最低限の部材のみが残されているようである。そしてこのすぐ左側に駐輪場がある。
南口ロータリーより望む。この位置ならば跨線橋撤去工事の様子を見学できたかも知れない。そんなレアな写真を撮影された方はいらっしゃらないだろうか。現在は高架化工事を知らせる看板が掲示されているため、しばらくはこのままの状態が続くのかも知れない。
再びホームから拡大して見る。かつて階段を支えた傾斜のついた古レールはどういう訳かほんのわずかに残されている。これまた何故このような残し方がされたのかは不明である。接合されている水平の古レール部材を痛めないためだろうか。
基礎部分を見る。恐らく階段下は倉庫か何かだったのだろうか、コンクリートによる区画が残されている。画面左側の白いパネルは駅本屋との接続部分跡である。
こういう眺めを見ると跨線橋とは乗客の安全には欠かせない重要なアイテムの割に撤去されてしまうと一切の痕跡が無くなるのがよく分かる。
駅本屋との接続部分を拡大して見る。こちらにも階段を支えた斜めの古レールが若干残されている。また、それは駅本屋側にも確認できる。写真では少々分かりくいが、白いパネルの直下のコンクリート打部分にわずかに顔を出している。
その駅本屋側のわずかに残された古レールを拡大して見る。ここでも床版は鉄筋コンクリートであったことが確認できる。それはコアカッターにより切断されたコンクリート断面に錆びた鉄筋の断面が見えることにより明らかである。
また、古レールは階段スラブの長辺方向の桁としてコンクリートに埋め込まれてようである。跨線橋の現役当時はこの部分の古レールはわずかに下面のみが見えていたのだろう。
今回発見した刻印は以下の通り。私にとっては THYSSEN が初見であったため、嬉しい収穫であった。
No | 刻印 | 場所 | 備考 |
---|---|---|---|
1 | OH TENNESSEE-6040-ASCE-1-192? | ホーム上屋 | 平炉製鋼法、アメリカ US スチール・テネシー社、コード番号 6040、アメリカ土木学会規格、192? 年 1 月製造 |
2 | S&M-60-ASCE-1925 | 跨線橋 | ベルギー サンプルモビール社、60LbS / yd、アメリカ土木学会規格、1925 年製造 |
3 | 30 (S) 1939 IIIII OH | 跨線橋 | 30kg / m、官営八幡製鉄、1939 年 5 月製造、平炉製鋼法 |
4 | KROLHUTA 1927 M | ホーム上屋 | ポーランド クロレウスカ・フータ社、1927 年製造、ジーメンス・マルチン製鋼法 |
5 | G.H.H.1926 | ホーム上屋 | ドイツ グーテ・ホフヌングス製鉄所、1926 年製造 |
6 | THYSSEN 60LbS. A.S.C.E. V 1926 | ホーム上屋 | ドイツ ティッセン社、60LbS / yd、アメリカ土木学会規格、1926 年 5 月製造 |
7 | H-WENDEL IX 1924 75LBS ASCE TB | ホーム上屋 | フランス ウェンデル社 1924 年 9 月製造 75LbS / yd アメリカ土木学会規格 トーマス転炉・ベッセマー転炉製鋼法(詳細不明) |
8 | ← 工 IGR R △ PROVIDENCE T B 60LBS A S C E T B II 1925 工 ← | ホーム上屋 | 官営鉄道発注、レオン工場、ベルギー プロビデンス社、60LbS / yd、アメリカ土木学会規格、1925 年 月製造 |
9 | H-W-60LBS-ASCE-XI-1925 | ホーム上屋 | フランス ウェンデル社、60LbS / yd、アメリカ土木学会規格、1925 年 11 月製造 |
10 | 37. A (S) 1955. II. O.H. | 跨線橋 | 37kg / m、八幡製鉄 1955 年 2 月製造、平炉製鋼法 |
西武鉄道池袋線もいわゆる開かずの踏切解消も含め高架化が推し進められているため、このように昔ながらの地平駅は数を減らされる一方である。そしてそれに伴い多くの古レール構造物も消え失せている。
本報告書執筆時点ではまだ下り方面のホームは地平のままであるので、跨線橋こそ無いものの西武お得意の『やじろべえ』はまだまだ同駅でも鑑賞可能であるので興味のある方は是非訪れて欲しい。
なお、その地平ホームにはこれまた懐かしいアイテムが残されている。それは水飲み場である。これも近い将来姿を消すことになるが、いつの時代からあるものなのだろうか。
同駅は冒頭でも触れた通り現在池袋線となっている路線そのものの開業当時から存在する大変な歴史を持つ駅である。駅南口の駐輪場脇には『石神井火車站之碑』という駅の開設を記念したまことに立派な石碑もある。こちらも調査済みであるので別途報告書として紹介したい。