やはり新里村だと思う駅の古レール。
2009/12/04 公開。
現在宮古市の一部となっている茂市(もいち)であるが、かつては新里村と呼ばれていた。さらにその前は茂市村であった。茂市駅はまさにこの地域の玄関口の駅である。ちなみに、私が最初にこの地を訪れた際は新里村であった。宮古市街を拠点に訪れたため、本報告書の調査に訪れた際は既に宮古市となっており、よそ者の私でさえ不思議な感覚であった。
同駅の開業は現 JR 東日本山田線が盛岡から順次延伸され、宮古に達した 1934 (昭和 9) 年 11 月 6 日である。その宮古駅には古レールはホーム上屋及び跨線橋に用いられている。以下の調査報告書もあわせてご覧頂きたい。
茂市駅と言えば屈指の閑散路線として天下御免の岩泉線の分岐駅として名を馳せているが、Wikipedia によると 2008 年度の乗車人員は一日平均 32 人ということである。しかしこれは致し方ないであろう。我が故郷筑豊でもそうだが、すっかり自動車社会だからである。ましてや三陸地方のような山がちな地域において最も有用な乗り物は自動車に他ならない。
また山田線は地形的にも険しく災害線区としても有名で、過去に台風等により何度かの不通を余儀なくされている。このこともこのような閑散路線となる要素の一つかも知れない。
ちなみに、山田線では盛岡~宮古間を通して走る列車は一日わずか 5 往復であり、岩泉線に至っては 3 往復である。また、どちらもそれぞれの区間が一閉塞区間となっているため実に長閑な鉄道路線であるが、裏を返せば生活の足としてはかなり苦しい存在とも言える。その代わりという訳ではないが今回取り上げる茂市駅はすぐ近くを国道 106 号が走っているとはいえ、周囲を山に囲まれた実に落ち着いた佇まいである。数年前までは旧国鉄色のキハ 52 系及び 58 系がけたたましいエンジン音を響かせて発着し、古き良き国鉄時代を彷彿とさせていたが、現在はキハ 110 系に置き換わりその雰囲気も一変している。
何度か宮古を訪れたが基本的に盛岡で新幹線から山田線の快速リアスに乗り換え、冬ともなれば車内の強烈な暖房のおかげで区界に達する頃には既に爆睡となり、そのうち茂市に到着すると『あぁ、もうすぐ宮古だ』などという気になる。私にとっては茂市駅とはそんな印象の駅である。
同駅ではホーム上屋、跨線橋及び観光案内標に古レールが使用されている。なお、本報告書は以下の総合調査の調査対象である。
調査日:2007/09/25
古レールについて述べる前にこの長閑な心落ち着く雰囲気がお分かり頂けるだろうか。非電化区間ならでは線路の汚れ具合や都会の駅のようなごちゃごちゃした雰囲気とは無縁なこの雰囲気が。
本題の古レールはご覧の通り、跨線橋及び画面左の岩泉線ホーム上屋の一部に使用されている。画面右側の山田線ホーム上屋は古レールではなく木造であり、これまた趣深いが別の機会に紹介したい。
なお、中央に写る 0 キロポストは他でもない岩泉線の起点を示すものである。
上の写真とは逆に盛岡方面を望む。跨線橋は宮古駅同様 Z 型とも言うべき階段の配置である。さり気なく階段の幅が結構大きいようで、かつての賑わいを示すものかも知れない。
跨線橋を横から見ると、階段の最下部付近で緩やかに階高が増す独特の構造であることが分かる。また窓枠が緑色に塗装され、これまた独特の雰囲気である。
ホーム上屋の古レールはこの跨線橋から 1 スパンだけ続く部分にのみ使用されている。さらに、前述の通りこのホームにしかない。
跨線橋の階段取り付き部でホーム上屋の古レール架構を観察することができる。ここでの古レールは短辺方向のみに使用され、長辺方向には使用されていないことが分かる。長辺方向に存在する細い鉄骨はアングルであり、後年設置されたものと思われる。また屋根は木造である。
そして何といっても手すりが渋い。あまりお目にかからないタイプではないだろうか。
跨線橋の足元には『1958 11』と書かれたコンクリートが存在するが、これがこの跨線橋の竣工年を示すものとも考えられるが、位置と用途の想像できない形状であるため、断定はできない。ただ、個人的にはやはり跨線橋の竣工年と推測している。
ホーム上屋部分の古レール架構を見る。何と言うかシンプルそのものである。何が普通でないかというと、やはり長辺方向の部材がアングルのみであることであろう。先ほどは後年設置ではないかと書いたが、こうやってみるとオリジナルのままかも知れない。いくらなんでも長辺方向が屋根の木材で構成されていたとは少々考えにくい。
跨線橋の階段裏部分も極めてシンプルである。もしもこの跨線橋が 1958 年に竣工したのであれば、すでに 50 年以上に渡って我々利用者を支え続けてきたことになる。
通路内部の架構である。腰壁が観光案内ポスターで埋め尽くされてはいるものの、いわゆる旅客案内に関するものが一切ないためすっきりとした印象である。
なお、写真が水平になっていないのは実際にそうなのではなく、私の不徳のいたすところである。
茂市駅では浅内駅同様の構造で、観光案内標にも古レールが使用されているが、古レールの使用場所としてはレアな方ではないだろうか。またここでは観光案内と鳴っているが、浅内駅での例から考えてかつては駅名標だったのかも知れない。そのような用途変更があり得るかは不明であるが。
今回発見した刻印は以下の通り。ホーム上屋及び観光案内標では発見できず、すべて跨線橋でのものである。茂市駅は整備が行き届いているため、これらの古レールも当分の間はこのまま使用され続けられるものと思われる。
No | 刻印 | 場所 | 備考 |
---|---|---|---|
1 | (S) NO ?0 A ???? IV | 跨線橋 | 官営八幡製鉄、?0LbS / yd、???? 年 4 月製造 |
2 | 37 (S) 1937 IIIIIII OH | 跨線橋 | 37kg / m、日本製鉄 1937 年 7 月製造、平炉製鋼法 |
3 | (S) 60 A 1910 XII | 跨線橋 | 官営八幡製鉄、60LbS / yd、1910 年 12 月製造 |
4 | (S) 60 A 1926 | 跨線橋 | 官営八幡製鉄、60LbS / yd、1926 年製造 |
5 | (確認不可) TENNESSEE-6040-ASCE-10-1921 工 | 跨線橋 | 平炉製鋼法、アメリカ US スチール・テネシー社、コード番号 6040、1921 年 10 月製造、官営鉄道発注 |
6 | (S) NO 60 A 1919 V | 跨線橋 | 官営八幡製鉄、60LbS / yd、1919 年 5 月製造 |
7 | (S) NO 60 A 1912 (以降不明瞭) | 跨線橋 | 官営八幡製鉄、60LbS / yd、1912 年 ? 月製造 |
8 | 30 A (S) 2606 IIII OH | 跨線橋 | 30kg / m、日本製鉄 皇紀 2606 (西暦 1946) 年 4 月製造、平炉製鋼法 |
9 | OH TENNESSEE-6040-ASCE-10-1923 工 | 跨線橋 | 平炉製鋼法、アメリカ US スチール・テネシー社、コード番号 6040、1923 年 10 月製造、官営鉄道発注 |
10 | 30 (S) 1949 IIIIII OH | 跨線橋 | 30kg / m、日本製鉄 1949 年 6 月製造、平炉製鋼法 |
11 | (S) 60 A 1912 III | 跨線橋 | 官営八幡製鉄、60LbS / yd、1912 年 3 月製造 |
12 | 30 A (S) 2604 IIIIII OH | 跨線橋 | 30kg / m、日本製鉄 皇紀 2604 (西暦 1944) 年 6 月製造、平炉製鋼法 |
13 | (S) NO 75 A 1912 V | 跨線橋 | 官営八幡製鉄、75LbS / yd、1912 年 5 月製造 |
14 | 60-A S B S CO STEELTON IIIIII 1922 O H-工-<CONSTECO>-MADE IN USA | 跨線橋 | 60LbS / yd、アメリカ ベスレヘム・スチール社スチールトン製、1912 年 7 月製造、平炉製鋼法 |
15 | (S) NO 75 A 1912 VII | 跨線橋 | 官営八幡製鉄、75LbS / yd、1912 年 7 月製造 |
JR 東日本山田線の盛岡~宮古間は殆どが無人駅であり、また近年その多くで駅舎が簡素なものに建て替えられたこともあり、ホーム上屋に古レールが存在するのは宮古駅とここ茂市駅くらいのようである。ただ、ホーム上屋に拘らなければ若干ではあるが他の駅でも発見している。また、宮古~釜石間は現地調査を実施していないが、前面展望動画撮影時に確認したところではいくつかの駅でホーム上屋及び跨線橋に古レールの使用されている。
同線の前面展望動画は共同撮影者の管理する以下のページにて公開しているので、あわせてご覧頂きたい。
茂市駅と言えば山田線というよりは岩泉線の起点駅として、その筋の方々には馴染みのある駅だと思うが、冒頭にも書いた通りこの辺りはかつては新里村であり、付近を通る国道 106 号の基礎を築いた牧庵鞭牛のふるさとの村である等歴史のある地域である。今回の第二次岩手計画でも若干であるが同地域での調査を茂市駅以外にも実施しているのでご覧頂きたい。