本州最東端の市の古レール。
2009/09/04 公開。
JR 東日本山田線宮古駅は岩手県の県庁所在地である盛岡から三陸地方に向かって伸びる同線の三陸側最大のターミナルである。路線自体は盛岡から宮古を経て三陸海岸を南下し釜石まで伸びるものであるが、運転系統としては盛岡宮古間と宮古釜石間で完全に分離されている。そのため、個人的には何故宮古でもなく釜石でもない途中の山田の街の名が路線名称に採用されたのか、理由が全く想像できない。
前者は区界峠を越える山岳区間であり、後者は海沿い近くを走るというように趣も全く異なる。さらに近年まではそれぞれの区間で使用される車両も全く異なるものであった。すなわち盛岡宮古間で例えば『宮古線』と呼んでも全く違和感のない運行形態なのである。しかし、実際には現在第三セクター化された三陸鉄道北リアス線こそ、旧国鉄宮古線として開業したので私の思惑は全く的外れではあるが。
盛岡宮古間にはキハ 52 やキハ 58 といった往年の名気動車が充当されていた。そして当区間通しの列車は一日 4 往復に過ぎないという実に長閑なものであるが、比較的旅客の多い宮古釜石間にはキハ 110 系が用いられている。現代の感覚では特に盛岡宮古間の運行状況からすると、存続そのものが危ぶまれてもおかしくない屈指の閑散路線の一つである。
ところが、2007 年 11 月に両区間ともにキハ 110 系に統一され、多くのファンを魅了したキハ 52、58 系は山田線から姿を消した。私の出身地の路線の筑豊本線も今でこそ電化されたがそれまでは気動車王国であり、同じキハ 58 やキハ 40 系、さらにはキハ 66、67 系等さまざまの形式に乗ったし、我々地元民も『きしゃ』と呼んで親しんだものである。窓は開くのが当たり前、発車時はディーゼルエンジンがやかましく、会話に苦労するのが常であったのが懐かしい。
山田線は私にとってその当たり前の『きしゃ』が今なお体験できる貴重な路線であった。ただ、筑豊本線と異なる乗車時の情景としては、冬になると窓の内側にすきま風防止のテープが貼られていたことである。そのためもあってか車内は暑いくらいでった。冬などは盛岡から宮古へ向かって乗車すると、ディーゼルエンジンの音を子守唄に区界に着くころには既に熟睡することもあった。そしてそれは他の多くの乗客に共通していた。キハ 110 系への乗車の機会もあったが、確かにエンジン音も静かになり走行性や室内の快適さも向上し、すきま風防止のテープも不要になったようであるが、私にとってはいささか興味の失せるものであった。
三陸周辺については主に盛岡宮古間を中心に以下の総合調査を実施した関係で、『きしゃ』も何度も乗り、今回取り上げる宮古駅も何度も訪れてはいたが、『調査』という観点では基本的に僅かな時間のみの訪問となった。
なお、本報告書は第二次計画の調査対象である。
宮古駅はターミナルらしい風格のある落ち着いた駅であり、かつては賑わったであろうその構内は現在では街の喧騒もあまりなく静かである。また駅舎等の塗装も比較的きれいであり、構内にはゴミ一つなく、花も飾られ大変美しい。
そして、同駅の古レールはホーム上屋と跨線橋に用いられている。ホーム脇にある留置線にはかつて貨車やその他の車両が多くたむろしていたと思われ、その当時の構内の色彩は知る由もないが、恐らくは今よりは煤けた雰囲気だったかも知れない。しかし、現在はこれらの駅舎関連構造物は塗装もきれいであることから当分の間古レールが失われることはないだろう。
調査日:2007/09/23
同駅の古レールによるホーム上屋のデザインは山形駅と酷似したもので、直線のみで構成されておりすっきりとしている。頬杖部分が小さい分山形駅よりもさらに広々とした印象がある。また、ホーム上に広告その他のものがほとんどなく非常にさっぱりとしている点も両駅に共通している。
古レールは短辺方向のみならず長辺方向の梁にも用いられ、古レールのみで自立可能な架構となっている。なお、接合部等の詳細はこのすっきりさに見とれてしまったため撮り漏れてしまった。
ホームは 2 面 3 線であるが、画面左側に写る 1 番線は駅本屋に面している 1 線であるが古レールは使用されていない。そのかわりという訳ではないが、駅本屋の部分のホーム上屋は木造である。ちなみに、奥に見える切欠きホームは三陸鉄道用のホームである。
また、跨線橋はよくあるコの字ではなく、Z 型というか階段の向きが両端で逆向きになっているものである。また、画面右側の階段のない部分にはささやかな長さの木造の上屋がある。このように 2 面のホームが互いに千鳥状に配置されているのはかつてのタブレット交換時のしやすさの名残りだろうか。つまり行き違いの列車の先頭車同士が近くなるようになっていたとか。ただしこれは全くの推測である。
跨線橋の架構としては特段珍しいものではなく、比較的一般的な形態である。ただ、何といっても塗装が鮮やかで大変美しい。
今回発見した刻印は以下の通り。日頃よく見る東京都心の駅に比べると塗装が比較的薄いため、刻印の視認性は比較的高い方であろう。個人的には No.1 のドイツのティッセン社の古レール刻印に初めてお目にかかったのが印象的である。
No | 刻印 | 場所 | 備考 |
---|---|---|---|
1 | THYSSEN 1923 60 LbS ASCE IJGR | 跨線橋 | ドイツ ティッセン社 1923 年製造、60LbS / yd、アメリカ土木学会規格、鉄道省発注 |
2 | 37 (S) 1951 IIII OH | 跨線橋 | 37kg / m、日本製鉄 1951 年 4 月製造、平炉製鋼法 |
3 | (確認不可) A 1920 (以降確認不可) | 跨線橋 | 官営八幡製鉄 1920 年 ? 月製造 |
4 | (S) 30 A (不明瞭) IIIIIIIIII (以降確認不可) | 跨線橋 | 30kg / m、官営八幡製鉄(?) ???? 年 10 月製造 |
5 | OH TENNESS (確認不可) 40-ASCE-4-1923 工 | 跨線橋 | 平炉製鋼法、アメリカ US スチール・テネシー社、コード番号 ??40、1923 年 4 月製造、官営鉄道発注 |
6 | (S) 75 A 1928 IIIIIIIII | 跨線橋 | 75LbS / yd 第一種、官営八幡製鉄 1928 年 9 月製造 |
7 | 37 (S) 1935 IIIIIII (以降確認不可) | ホーム上屋 | 37kg / m、日本製鉄 1935 年 7 月製造 |
8 | OH TENNESSEE-6040-ASCE (以降不明瞭・確認不可) | ホーム上屋 | 平炉製鋼法、アメリカ US スチール・テネシー社、コード番号 6040 |
9 | (S) 60 A 1925 | ホーム上屋 | 官営八幡製鉄 1925 年製造 |
10 | (S) NO 60 A 1911 IX | ホーム上屋 | 官営八幡製鉄、60LbS / yd、1911 年 9 月製造 |
11 | (S) NO 60 A 1914 VII | ホーム上屋 | 官営八幡製鉄、60LbS / yd、1914 年 7 月製造 |
12 | (S) 60 A 1920 VI | ホーム上屋 | 官営八幡製鉄 1920 年 6 月製造 |
13 | (S) 60 A 1930 XI | ホーム上屋 | 官営八幡製鉄 1930 年 11 月製造 |
14 | OH TENNESSEE-6040-ASCE-5-1922 工 | ホーム上屋 | 平炉製鋼法、アメリカ US スチール・テネシー社、コード番号 6040、1922 年 5 月製造、官営鉄道発注 |
15 | 30 (S) 2607 III OH | ホーム上屋 | 30kg / m、日本製鉄 皇紀 2607 (西暦 1947) 年 3 月製造、平炉製鋼法 |
16 | UNION 07. 工. | ホーム上屋 | ドイツ ウニオン社 1907 年製造 官営鉄道発注 |
以下本項目で示す写真は冒頭の調査日以外に撮影したものも含むのでご了承願いたい。主には冒頭でも触れた第一次・第二次調査時のものであるが、それ以外もある。もし、個々の写真の撮影日等を把握したい場合は以下の画像をクリックするとフォトアルバムが表示され、個々の写真を選択すると表示されるので確認頂きたい。
本報告書では同駅で使用されている古レールについて取りあげているが、1934 (昭和 9) 年 11 月 6 日開業の歴史を持つこともあり、いくつかの見どころがある。まずは今回取り上げた 2、3 番線ホームの山田方にある水飲み場である。かつて蒸気機関車が闊歩していた頃、駅に到着した多くの人々が煤を落とすのと喉を潤すのに用いたのであろうか。
また、現在は駅本屋に隣接した 1 番線ホームの後ろの何でもない空間もかつては貨物ホームと思われるものであった。撮影した際には土砂で埋め戻される工事中であり、かつての面影は失われていた。
駅構外から見ると、今までは駅前からは見えなかった 1 番線が見渡せるようになった。画面で未舗装の部分に木造の貨物上屋と思しき建造物があった。実はこのように更地にされる前に訪れたことがあり、当時はまだもう 1 面ホームがあり、線路も残されていたような気がする。撮影しておけばよかったと後悔しきりである。
さらに同駅の降車用の改札口の前には小さな観光案内所があったが、それも撤去され三陸鉄道の宮古駅前に移転している。画面中バリケードで囲われた部分が移転前にあった場所である。また上の写真においては未舗装部分の最も手前の位置である。はたして現在も更地のままだろうか。それとも何か建てられたのだろうか。因みに、降車用の改札口は画面左の平屋部分であり、乗車用の改札口は二階建て部分の本屋中央から入ったところにある。同駅では乗降それぞれの改札口が分離されているのである。
なお、黄色いテントのかかった自動販売機の左側にはいわゆる駅そば店がある。何度かここも調査済みだが写真を撮り損ねてしまったため、残念ながらここではご紹介できないが、うどん党の私にも嬉しいうまいうどんを味わえる。なお、宮古出身の知人に言わせればここの『めかぶそば』が至高であるとのこと。
現在数本の留置線となっている辺りは以前はさらに多くの線路が並んでいた。当時は多くの貨車や列車で賑わったことだろう。1948 年米軍撮影の航空写真ではかつてのヤードの広さが確認できる。現在その跡地にはパチンコ店が建っている。また、宮古駅の山田方に 300m ほど進んだところより分岐する貨物支線【宮古~宮古港】の線路やラサ工業宮古精練所の専用線も確認できる。これらも現地調査を実施しているので、いずれ報告書として公開するつもりである。ここでは参考として以下の航空写真を紹介しておきたい。
その広さは車窓から見るとより分かりやすい。画面右端の派手な建物がヤード跡に建つパチンコ屋である。で、この車両は ?!
または同駅の盛岡方にある陸橋からも同様に実感できる。
そして、駅前には以下の鉄道碑が存在している。
それぞれの碑は 1. が 1944 (昭和 19) 年 3 月 12 日に山田線平津戸~川内間で蒸気機関車 C58 283 号機けん引の貨物列車が雪崩に遭遇し脱線転覆した事故の記録碑である。2. は旧国鉄山田線の宮古までの延伸開業を記念するものであり、現地の案内板では鉄道開通までに尽力された人々と宮古街道の開削に情熱を傾けた牧庵鞭牛の偉業を称えているとある。3. が全国初の第三セクターとなった三陸鉄道の開業を記念するものである。このうち、1. については事故現場にも『殉職の碑』が建立されている。位置については GNR - 第二次岩手計画 を参照願いたい。
どの碑も鉄道に対する熱い想いが伝わってくる名碑である。宮古を訪れた際にはぜひご覧頂きたい。以前と異なり現在これらの三碑は整備された同じ場所に集められ、非常に見学しやすくなっている。
ところで、宮古と言えば海産物である。津軽石川の『鼻曲がり鮭』も有名である。それにちなんでか、ホーム下部にはこのようなイラストも描かれている。
ちなみに、よくよく見ると SL の形式は C58 のようである。車番まで記載されているようだが、写真では不鮮明で判読不能であった。現地では確認可能だと思われるので次回の宿題としたい。
また、冒頭にも触れた通り現在は姿を消したしまったキハ 52 及び 58 系気動車について、宮古駅で撮影したものだけ選びフォトアルバムにまとめた。これらは調査やそれ以外に同駅を訪れたものをとにかく集めた。私自身はあまり車両撮影はしないため、写りの良し悪しは温かく見守って頂き、記録としてご覧頂ければ幸いである(画像をクリックするとフォトアルバムに移動)。
主にキハ 52 系となってしまっているが、同駅以外の山田線内でも若干ではあるが撮影しているので、後日にでも別途ご紹介したい。
加えて、山田線及び『本物の』宮古線であった三陸鉄道北リアス線の一部区間の前面展望動画も撮影したものを共同撮影者が管理しているサイトにアップしているので、こちらもご覧頂けると幸いである。懐かしい『きしゃ』のエンジン音もお聞き頂きたい。
最後に、重たいページになってしまったが、古レールだけではない同駅の魅力や歴史の一片が少しでも伝われば幸いである。
2011 年 3 月 11 日に発生した東日本大震災により閉伊川河口に広がる宮古市街地も防潮堤を乗り越えた津波による甚大な被害が発生した。改めて被災した方々に心よりお見舞いを申し上げたい。
地元民ではない私も思い入れのある地だけに今回の被害状況には心を痛めるばかりであるが、津波の恐ろしさを忘れないためにも、被災者の方々にはもしかすると辛い思いをさせてしまうかも知れないが、津波が宮古の街を襲う瞬間の映像をここに紹介したい。