流域住民の切実な堤防整備の請願運動の生き証人。
2014/02/10 オンライン地図の表示サイズの拡大及びリンク切れ修正。
2011/03/28 現地再訪に伴い追記。
2010/11/18 公開。
多摩川は下流域で東京都と神奈川県を隔てる境界ともなっている一級河川である。その源流は山梨県と埼玉県の県境にある笠取山で、ここから奥多摩の山岳部を抜け関東平野を経て延長 138km を以て東京湾に注いでいる。
関東平野南部を南西に流れる下流域では武蔵野台地の縁を流れ、六郷川とも呼ばれている。現在の河床は比較的直線化されているが、これはもちろん昔からそうだったわけではない。
我々素人が川を見るとき、その両岸の堤防をしてその川のラインの印象を感じるが、その堤防は現代においては概ね自然堤防ではなく人工物である。つまり、主に治水を目的として人間が川の範囲を規定しているに過ぎないのである。
多摩川も堤防未整備の頃には出水の度に現在の堤防の位置などお構いなしに流れていた。一般的にそのような場所を氾濫原と言うが、現在では開発が進みかつての氾濫原や蛇行の痕跡は分かりにくくなっているものの、古い地図でその様子を知ることが可能である。
例えば、歴史的農業環境閲覧システムにて公開されている明治時代の地形図で現在の神奈川県川崎市の上平間付近を見てみると以下のように多摩川の蛇行ぶりが確認できる。
出展:歴史的農業環境閲覧システム ※管理人一部加工
このような画像は以下のリンクから確認できるのでぜひこの素晴らしいサイトをご覧頂きたい。
同じ場所付近を現在の地図で見ると川の蛇行の跡の定番と言える三日月湖すら無く、道路などの地割りにその痕跡を留めるのみであり、そこが多摩川の蛇行の跡とは一見分かりにくい。ただ、くもじぃのような目線でその気で見れば一目瞭然とも言える。
そして、このような蛇行が存在するのはその付近が平坦であることに由来し、その結果出水の度にかつての氾濫原や蛇行の跡などを含め水害に見舞われきたことを意味する。
特に堤防整備前の明治 40、43 年の水害は多摩川全域において記録的な被害を出した。もちろん、それ以前にも水害は度々繰り返されてきたもののこれらの年の大水害及びこの後の大正 2 年の水害をきっかけに、遅々として進まない多摩川の堤防整備に業を煮やした右岸(神奈川県側)下流域住民が蜂起し神奈川県庁へ直訴する事態となったのが俗にアミガサ事件と呼ばれる請願運動である。
この請願運動より以前からも堤防整備の陳情は流域住民や自治体から度々当局へなされてきたものの、進展をみることがなく度重なる水害を発生させてしまっていたのである。いつの時代も中央のお役人さんは(ry
しかし、このアミガサ事件をきっかけにようやく多摩川堤防整備の運動は具体化されていき、東京、神奈川双方が連帯し国の直轄改修を強力に請願する運びとなり、ついに大正 7 年度~大正 14 年度にかけての直轄事業としての決定に至ったのである。
それまでには右岸(神奈川県)側の堤防整備の運動に対して左岸(東京都)側の反対運動が勃発し、時の神奈川県知事有吉忠一の執念の活動があったり、神奈川県内において費用負担で揉めたりと紆余曲折もあったのである。
このあたりの先人たちの並々ならぬ努力の経緯はこんななんちゃってサイトで語り尽くせるようなものではない。巻末の参考文献のリンク先等をぜひご覧頂きたい。
直轄改修前のその有吉知事の奔走に感謝の念を込めて、当時完成した堤防には『有吉堤』と名付けられ、今も若干の痕跡を確認可能だとのことである(現地未調査)。
そして、肝心の直轄改修は途中で範囲の延長などの様々な経緯を経て、当初の予定を上回る工期となったものの昭和 8 年度に完成の運びとなった。この完成を祝った記念碑が多摩川に架かる丸子橋東詰から多摩堤通りを少し北に上がった浅間神社のふもとに『多摩川治水記念碑』として今も残る。昭和 11 年 6 月建立である(現地調査済みにつき別途報告予定)。
そして、今回取り上げる羽田赤煉瓦堤防はまさにこの直轄改修によって構築されたものであり、当時の貴重な生き証人と言えよう。国土交通省の土木遺産リストにもその名を連ねている。現在はその後の改修工事により実質的に堤防としては機能していないものの、その困難な歴史を静かに語り続けている。
調査日:2006/05/14、2009/04/11、2010/04/11
年月日 | 事象 |
---|---|
1907/08/22~28 | 台風による大水害発生。 |
1910/08/08~15 | 台風による大水害発生。 |
1913/08 | 水害発生。 |
1915 | 多摩川の流量観測開始。 |
1915/09 | アミガサ事件発生。有吉忠一が神奈川県知事に就任。 |
1915/09/30 | 有吉堤竣工。 |
1915/12 | 神奈川県議会において多摩川治水期成同盟会決議案可決。 |
1919/08 | 多摩川直轄改修工事着手。 |
1934/03/31 | 多摩川直轄改修工事竣工。 |
1936/06 | 多摩川治水記念碑建立。 |
以下のオンライン地図に今回取り上げる羽田赤煉瓦堤防の位置を示した。同堤防は図示した範囲に全て連続して残っている訳ではなく、部分的に撤去されているため大まかな残置区間の目安としてご覧頂きたい。また、ぜひズームしたり航空写真に切り替えてたりしてみて欲しい。
次に旧版地形図である。まずは手持ちのもので最古となる 1908 (明治 41) 年発行の地形図である。この時期は上述のとおりまさに記録的な大水害に見舞われていた時期である。
当然堤防整備前であるため、かつての多摩川の流路が伺えて非常に興味深い。上のオンライン地図との比較のために基準点を確認したい。中央の市街地は現在の大師橋の西側の地域である。つまり市街地のすぐ西に南北に伸びる道路が現在の産業道路の前身である。
その現在の大師橋付近では現在よりもかなり川幅も狭く盛大に蛇行しており、さらにこの状態で堤防もないため一度出水があればたちまち水害に見舞われるのは明らかである。そして、今回取り上げる煉瓦堤防のラインがそのまま左岸のラインを形成していのも確認できる。
また、中央に見える『羽田ノ渡』の東側の川べりには船渠のような凸凹が散見されるが、これは漁師たちの舟が係留されていたものと思われる。そしてその付近には『羽田猟師町』とあるが、『漁師』ではない。これは江戸時代においてこの地域から江戸城に新鮮な魚介類を献上していた代わりに付近の漁場の『漁猟特権』を有していたことに由来し、尊敬の念を込めて『猟師』と呼ばれたのが由来とのことである。
さらに、多摩川の南北に広がる PC の電源マークのような記号は『果樹園』であり、かつてこのあたりでは梨などの栽培が盛んであったことを示している。
出展:国土地理院 1/25,000 地形図「大森」(M41/12/28 発行) ※管理人一部加工
旧版地形図は見ていて楽しい要素がてんこ盛りである。他にも当報告書の主旨と関係ないネタに触れるならば、以前公開した以下の記事に関連して公開当時未入手だったこの地形図では後の終点の羽田空港駅(初代)付近に設けられた折り返し用のループ線が確認できる。この報告書も加筆せねば。
次に 1923 (大正 12) 年発行の地形図である。まさに直轄改修工事が行われている時期である。しかし、掲載している範囲が狭いこともあって工事の明瞭な進捗は一見したところ確認できない。なお、ちょうど右端が地図の境界で切れているものの、ほぼ現存する煉瓦堤防の東端付近である。
しかし、今も残る羽田猟師町付近の川べりの道路、つまり冒頭のオンライン地図で示した羽田煉瓦堤防のラインに位置する道路は両側に盛土のような記号が描かれている。しかし、実はこの煉瓦堤防の竣工年は『多摩川改修工事概要』によると昭和 3 年度中の竣工と思われるため、この記号は煉瓦堤防ではなく、それ以前からの小規模な堤防らしきものであると考えられる。
ただ、先ほど同様煉瓦堤防ラインの道路の川側の記号は『防波堤等』のようにも見え、既に煉瓦堤防が築かれていたのだろうか。我ながら読図力の無さと情報収集能力の無さに感服する次第である。
あと細かい点では前述の地形図が 1/25,000 であるのに対し 1/10,000 であるせいかも知れないが、羽田ノ渡へ通じる右岸(神奈川県側)の道筋が若干変わっているように見える。これは澪筋の変化に対応したのだろうか。
出展:国土地理院 1/10,000 地形図「蒲田」(T12/10/10 発行) ※管理人一部加工
同じく 1923 (大正 12) 年発行のさらに多摩川河口寄りのを見る。この辺りは現存する煉瓦堤防区間ではないものの参考としてご覧頂きたい。上部中央左寄りに南北に流れる川は現在も同じく流れる海老取川である。
ちなみに、その合流点にある東西に伸びる水制も現存している(後年の改修の有無は把握できていない)。そこに架かる『辨天橋』も後年に架け替えられているものの今も『弁天橋』と名乗り、事実上歩行者用として現存している。
また、右岸(神奈川県側)については先ほど同様果樹園が広がりここでは表記が途切れているものの『八幡澪』として澪筋も描かれている。そして堤防はトリミング前で確認しても存在しない。湿地と果樹園が広がるばかりである。
この地域でもやはり左岸(東京都側)については何らかの護岸の既に存在しているように描かれている。これは果たして煉瓦堤防なのだろうか。
そして再び蛇足ながら海老取川以東はもちろん、羽田空港誕生前の様子である。そこには人の暮らしがあったのである。終戦直後の GHQ による 48 時間以内の強制退去が行われるまでは。
これまた、余談だがこの強制退去は鉄道にも及んだ。あまり参考にならないが、以下の報告書も参考にして頂きたい。
出展:国土地理院 1/10,000 地形図「穴守」(T12/10/10 発行) ※管理人一部加工
次は若干時代が下って 1930 (昭和 5) 年発行の同じ地域の地形図である。羽田煉瓦堤防竣工後の時期にあたる。まず、先ほどと同様に現在の大師橋付近から見る。羽田猟師町付近には大正 12 年の地形図から実質ほとんど変化が無い。羽田ノ渡も健在である。
しかし、問題は右岸(神奈川県側)である。何と言ってもあれだけあった果樹園の記号が全く失われてしまっている。これはつまり既にこの地が直轄改修により買収され、農地ではなく川そのものの土地となったことを示していると思われる。そして後の 1932 (昭和 7) 年 4 月の羽田競馬場埋立のための土砂採取とそもそもの多摩川の河床断面の確保のため浚渫され、かつての果樹園地帯は姿を消すことになる。
ところで肝心の煉瓦堤防部分の記号は直前の地形図と大差ないように見える。なお、先ほど現存する区間よりもさらに煉瓦堤防が伸びていた可能性について触れたが、それはこの地形図の左端部分についても同様である。現在は左端にある二又の交差点の東側のみに煉瓦堤防が残っているものの、この地形図ではさらに西側(左側)にも伸びているようである。ただし、トリミング前の地形図で確認するとそれもわずか 200m にも満たない距離で終わっているようである。
出展:国土地理院 1/10,000 地形図「蒲田」(S05/02/28 発行) ※管理人一部加工
次に少々時代は下って 1939 (昭和 14) 年発行の同じ地域の地形図である。なんということでしょう。かつての右岸に広がっていた果樹園はすっかり川そのものに飲み込まれており、かろうじて右岸側の堤防らしき記号が描かれている。ちなみに、この地形図ではこれでも直前の同じ地域の地図よりも南側にずらしてトリミングしている。
また、小さいため確認し辛いが川の中にかつての八幡澪の表記もうっすらと残されているが、これは消していないだけかも知れない。というのも前述の通り、現実には直轄改修に伴い恐らく浚渫されてしまっていると考えられるからである。
ところで、左岸には川の中に向かって突き出すかなりの長さの護岸らしきものが描かれている。これは恐らく現存していないと思われるがこれも直轄改修によるものだろうか。
出展:国土地理院 1/10,000 地形図「穴守」(S14/12/28 発行) ※管理人一部加工
次に思い切り時代は下って 1970 (昭和 45) 年発行の地形図である。ここでは特に大師橋付近に着目したい。
大師橋は 1939 (昭和 14) 年竣工であるため、これまでの地形図では登場していなかった。そしてその大師橋の北詰である左岸には、川自体は直線化されているもののかつての流路であった名残りである北側に抉れたラインに沿って天気図でいうところの温暖前線のような記号が描かれている。これこそ、今も残る煉瓦堤防と思われる。この記号は地図記号としての意味を調べきれなかったがご存じの方はご教示頂けると幸いである。
大師橋の東隣りに走る首都高の東側については煉瓦堤防が現存するにも関わらず描かれていない。これは既に堤防としての構造物では無くなったことと、宅地に飲み込まれ目立たなくなったため削除されたのだろう。
出展:国土地理院 1/25,000 地形図「川崎」(S45/03/30 発行) ※管理人一部加工
そして地形図の締めくくりとして冒頭に紹介した上平間付近の旧版地形図を紹介したい。発行は 1923 (大正 12) 年である。
いかがだろうか。かつての多摩川の蛇行っぷりがこの地形図からも伺えよう。そしてかつてはここを含めまともな堤防は存在しなかったのである。そのため、多摩川による水害は下流域においては時としてさらに南を流れる鶴見川流域の低地にまで流れこむこともあったそうである。
出展:国土地理院 1/10,000 地形図「矢口」(T12/10/10 発行) ※管理人一部加工
さらに、トドメとして国土変遷アーカイブより戦前及び戦後の航空写真を以下のリンクよりご覧頂きたい。地形図で眺めてきた羽田周辺の多摩川の変遷の一端を垣間見ることが可能である。
実際の現地調査においては現存する煉瓦堤防全区間を一気通貫ではなく、大師橋の両側についてそれぞれ別のタイミングで訪れたため、少々不本意ではあるものの、それに沿って紹介していきたい。
まずは大師橋以東である。それも最も観察しやすく当時の雰囲気を残している部分である、大師橋と首都高に挟まれた船溜まり付近から見ていく。このあたりは複数回訪れているので、一部重複するが時系列を追って紹介したい。まずは 2006/05/14 訪問時の様子からである。
後ろに映る巨大な橋が大師橋である。船溜まりの北側に沿う道路から南側すなわち多摩川の方に向かって見たものである。道路から見るとこの赤煉瓦堤防は非常に背の低いものとなっており、これが堤防なのかと心配させられる。
煉瓦堤防の端部には階段が残されており、かつては川べりに出るために供されたのであろう。この高さであれば階段なんぞ不要ではないかとも思えるが、最下段の低さから見てこれは道路の嵩上げによる結果で間違いないと考えられる。
そしてこの階段付近より目を転じると、煉瓦堤防の堂々たる光景を目にすることが出来る。波に対抗する柔らかな曲線を描く胸壁こそ昭和初期竣工の多摩川の堤防そのものである。かつてはここが多摩川河畔であった。
現在はご覧のように歩道というか車道というか何とも言えない状態となっており、このさらに右側が船溜まりとなる。ちなみに、奥に見えるマークⅡとおぼしき車はナンバープレートもない放置車両である。西成かよ ! と突っ込みたくなる光景である。
煉瓦構造物と言えば個人的には鉄道橋梁の橋台やアーチ橋などで見慣れているせいか、このような独特の曲線を持つ煉瓦構造物は新鮮である。
そして、撮影地点の傍らには付近住民の安全を守るため、この辺りを管轄するパトロール隊が待機している。
船溜まりを挟んで反対側、つまりは東側より煉瓦堤防を望む。撮影地点が現在の堤防にあたり、既に堤防の役目を果たしていない様子が分かる。しかし、よくぞ道路の拡幅などで撤去されなかったものだと思う。船溜まり側の歩道の確保のためとも考えられるが貴重な遺構としてこれからもこのまま残して欲しいものである。
再び道路側より望む。奥に見える高架道路は大師橋へ向かう産業道路である。
煉瓦堤防の一部は通路として撤去されてはいるものの、かつての多摩川の河岸に沿ったカーブがそのまま残り、直轄改修工事により直線化される前の雰囲気を伺うことが出来る。現在の流路は高架道路とほぼ直角である。
この撮影地点よりさらに東側、首都高の方を振り返ると奥側の現在の堤防と斜めに合流する三角地を形成している。前述の航空写真でもその様子は確認できる。
そして、中央に多摩川の案内板がありその右側には石積みの構造物、左側には比較的新しい石碑がある。これらは後ほど触れたい。
ここまでのピンぼけ写真が 2006/05/14 撮影である。ここからは再訪時のピンぼけ無しの写真でこの付近の煉瓦堤防についてもう少し紹介したい。
再び訪れたのは自宅からチャリンコで行ける距離にも関わらず何と 3 年後の 2009/04/11 である。今度は気合いを入れて朝イチに訪れた。しかし、大師橋の上からこの船溜まり付近を撮ろうとすると思い切り東にカメラを向けることとなり、大失敗であった。
しかし、写真では伝わりにくいが朝日に輝く赤煉瓦堤防も素晴らしい雰囲気であった。ちなみに、かつての放置自動車などがすっかり無くなっていることにお気づきだろうか。また、船溜まり側の歩道自体も奥側の半分ほどは整備が進んでおり、前後の入り口はバリケードで閉鎖され今まさに工事中であった。
上の写真の手前側の歩道への入り口である。バリケードにより封鎖されており、残念ながらこの日は肝心の曲線を描く胸壁をそちら側に降りて観察することは叶わなかった。
ただし、バリケードのない部分から見下ろすことは可能であった。工事に伴い下草も刈り取られたようで、煉瓦の胸壁の下部の石積みの護岸が観察出来たのは幸いであった。積み方としては谷積みと言っていいのか乱積みと言っていいのか微妙な感じである。
再び前述とは異なる位置にある階段である。改めて見ると煉瓦堤防の笠木部分もそうだが、このコンクリートは細かな粗骨材がぎっしりであり、そこはかとなく時代を感じさせる。
改めて階段である。大きさ比較のためにチャリンコを置いてみた。当初は何段あったのだろうか。それにしても階段として見ればかなり細い。
今度は逆に西側を向いて順光だと息巻いてみたものの、今度は胸壁の美しい曲線のおかげで影が生まれてしまい、これまたうまく撮れなかった。ここがかつて多摩川の波打ち際だったのである。逆に言えばこの煉瓦堤防の完成以前は出水がストレートに水害につながっていたのも想像に難くない。
そのままの向きでずっと東側に移動し、前述の現在の堤防との合流点付近を見る。少々分かりづらいが、煉瓦堤防の背後は現在の堤防の高さに斜めに盛られており、合流点はブツ切りとなっている。ちょうどこの斜めの盛土(?)の擁壁代わりとなっているのである。
そして二階建ての建物の手前に多摩川の案内板や石碑等が設置されている。
余り参考にはならないが、ブツ切り部分のアップである。見る人によってはひどいことを、と思うかも知れないが私としてはよくぞ折り合いをつけて残してくれたと考えている。担当者の努力に感謝したい。
その合流点を逆側から望む。素っ気ないコンクリートにすっかり作り直されることなく、今もさり気ない擁壁代わりとして第二の人生を送っている煉瓦堤防である。こうやって見るとまるで最初からこのような構造物のようにさえ見えてしまう。
首都高の真下あたりに強烈にアピールしている将棋の駒のような物体は先ほどの石碑である。
そしてここで、この石碑付近について初回訪問時として掲載したのと同じアングルのピンぼけ無しの写真を紹介したい。しかし、今度は強烈な朝日のため影により少々見にくいがご勘弁頂きたい。
おさらいすると、中央は多摩川の案内板。右側の一部はみ出してしまっている石積みの構造物。そして左側には石碑である。
多摩川の案内板は省略させて頂くが、まずは左側の石碑から。『羽田の渡し碑』である。『大田区』とも刻まれ、比較的新しい石碑である。背後の多摩川を渡っている二本の橋は右側が大師橋で左側が首都高である。
羽田の渡しは前述の旧版地形図に記載があるが、実際にはこの写真で首都高のさらに少し左側に位置していたと思われる。現在はその後の護岸整備などで痕跡はない。
裏面にはかつての羽田の渡しの様子を描いたレリーフと説明板が埋めこまれている。
以下にこの裏面の拡大写真を載せる。Sliverlight プラグインが必要であるがズームやドラッグが可能であるため、ぜひインストールしてご覧頂きたい。
また、以下のリンクより大きな画面でも参照可能である。
次に、多摩川の案内板の右側にある石積みの構造物である。これは『大師橋』の銘板が残る旧大師橋の親柱なのである。残念ながら周囲には説明板などは見当たらなかった。
旧大師橋は旧版地形図についての記述の中で軽く触れた通り、1939 (昭和 14) 年竣工である。完成当時は東洋一と言われたゲルバー式トラス橋であった。
2006 (平成 18) 年に斜張橋として生まれ変わった大師橋をこの親柱は静かに見守っている。
その大師橋から再び煉瓦堤防を望む。この時点(9:30 頃)では工事車両が現れ工事が行われていた。こうやって俯瞰すると船溜まりがかつての多摩川そのもののように見える。
その工事も完了した後の 2010/04/11 にさらに再訪した際の様子も紹介したい。工事用のバリケードも取り払われ、緩やかなカーブを描く煉瓦堤防がすっかり見渡せるようになった。季節柄、奥には桜も見事に咲いていた。
大師橋ふもと側の歩道への入り口は新たにバリケードが設置され、かつてのように自動車が進入できないようになっている。
そして、あのパトロール隊は残念ながら所轄の異動があったのか、かつてはこのバリケードの右横付近に常駐していたが、そこに姿は無かった。
ここで上の写真の煉瓦堤防の端部に注目したい。現地で撮り忘れたというより写真を見ていて気がつくという観察眼の無さではあるが、丸鋼の鉄筋が露出しているのが確認できる。そしてその鉄筋は上部のコンクリート部分のみならず煉瓦の胸壁部分にも挿入されている。
実は、冒頭でも紹介した『多摩川改修工事概要』(巻末リンク参照)では以下のような記載があり、この煉瓦堤防が純粋な煉瓦造ではなく鉄筋煉瓦造であることが明記されているのである(一部現代の字体に変更)。
即ち羽田地先に於ける千六百三十二米の区間は、初め旧堤を拡築する計画なりしが、其後土地の状況を考慮して工法を変更し、旧堤表法肩に鉄筋煉瓦の胸壁を築き、所々に陸閘を設け、堤上は道路に利用する事となしたるが為、沿川住民及一般の利便を増進せり。
鉄筋煉瓦については、同じ多摩川の直轄改修によって建設され、1931 (昭和 6) 年に完成した六郷水門(現地調査済みのため別途報告予定)にて初めて用いられたと京浜河川事務所にて紹介されているため、着工のタイミングによってはこの煉瓦堤防においても同様の構造が適用された可能性が考えられる。
ただ、この煉瓦堤防の竣工は冒頭でも述べたとおり昭和 3 年度と考えられるため、何とも言えない。ご存じの方は情報を頂けると幸いである。
そしてこの鉄筋煉瓦造は、まさに当時多摩川改修工事を担当した『多摩川改修事務所』の所長であった金森誠之氏の考案によるもので『金森式鉄筋煉瓦』と呼ばれていたそうである。
さらにいうとこの直轄改修の同時期に反対側の右岸(川崎側)に建設された『川崎河港水門』も同じく金森氏の設計である。こちらも現地調査済みであるため別途報告したい。
すっかり歩道整備が完了したが、煉瓦堤防そのものには全く影響がないのが嬉しい。今度こそじっくりと観察が可能である。
反対側の歩道入口も同様のバリケードが設置され、基本的に歩行者及び自転車用の道路となったようである。
早速胸壁を見る。煉瓦は土木構造物としては一般的なイギリス積みである。ざっと流して見たところでは製造者刻印は発見できなかった。恐らくは存在するとしても平の面であろう。
しかし、この曲線が何とも言えず美しい。どのような計算なり根拠があるのか浅学のため不明であるが、ここに多摩川が波打つ様を見てみたかったものである。
階段部分を真上から見る。道路側はコンクリートの階段が残るものの、反対側は一部の金具が残るのみである。
その金具周辺を見る。煉瓦の胸壁にかつての階段の痕跡が浮かび上がっているのが確認できる。階段というよりスロープのような物だったのかも知れない。下部の石積みの部分にも基礎の痕跡のようなものが見える。
そして、この船溜まり付近の煉瓦堤防を無駄にパノラマ化してみた。先ほど同様 Silverlight プラグインが必要であるがご笑覧頂けると幸いである。
また、以下のリンクより大きな画面でも参照可能である。
ここまでしつこい位に紹介したこの船溜まり周辺が煉瓦堤防の観察に最も適したエリアである。これより東に、即ち多摩川河口方面にも続いてはいるものの住宅地と道路の境界壁となっており、じっくりと観察は難しい。
ここから先は時系列が前後するが 2009/04/11 の撮影である。ではまず首都高の真下付近、つまりは煉瓦堤防と現在の堤防との合流付近より東側を望む。この間煉瓦堤防が撤去されており途切れてしまっている。中央に見えるガードレールの両端から煉瓦堤防が続いているのである。
と言いたいところだが、写真奥側は実はコンクリート造である。ただ、恐らくはこの位置に煉瓦堤防が存在したのではないだろうか。
こうやって見ると如何に現在の堤防が巨大かを痛感させられる。煉瓦堤防も当時としては大変に頼もしい存在だったと思われるが、その規模の差に驚くばかりである。
上の写真のガードレールの奥側である。残念ながら煉瓦堤防ではないものの、位置や寸法はそれを倣ったものではないだろうか。煉瓦堤防は中央に建つ建物付近より再び現れる。
煉瓦堤防が復活し始める地点の建物付近である。写真を撮り損ねてしまったが、手前のコンクリート造の端部はこのブツ切りの部分のほんのわずか手前までとなっている。
そして煉瓦堤防は道路の沿ってくねくねと続いているのが確認できる。
少し進んだ地点である。上の写真でも分かる通り、現在煉瓦堤防の右側即ちかつての多摩川べりは埋め立てによる嵩上げがなされ、宅地となっている。
また、ここでも煉瓦堤防は途切れているが先ほどと異なりそれぞれの端部が L 字型となっている。これは前述の『多摩川改修工事概要』の引用部分で触れた『陸閘』である。
つまり、止むを得ず堤防が不連続となる個所にいざという時に仕切りができるように作られた個所である。
その陸閘部分を道路側より見る。拡大写真を撮り忘れたが、端部には仕切り板をはめ込む切り込みがある。写真では分かりづらいが左側にも切り込みは残っており、建設当時のままの姿と考えられ貴重である。撮り忘ればかりだ。。。
振り返って大師橋方面を望む。知らない人が見ればかつての堤防とは分からないであろう。また、中途半端ではあるが陸閘の切り込みがお分かり頂けるだろうか。
再び東へ進む。ところどころ住宅への入り口としてこのようにブツ切りになってはいるものの、道路に沿って煉瓦堤防は続いている。すっかり住宅地の塀である。
拡大してみる。残念ながら嵩上げにより胸壁の曲線部分は埋まってしまっており、鉛直部のみが地面より露出している。ただ、塀としてみればちょうどいい高さかも知れない。
少々さらに進んだ地点より振り返る。このくねくねがかつての多摩川そのものだったのである。また、例の階段も残されおり、ここではさらに住宅地側に鉄骨の階段も新たに設置され、かつての姿を若干彷彿とさせてくれる(上の写真でも一番奥に写っている)。
さらに進む。まだまだ煉瓦堤防は続いている。これまで辿ってきたかつての堤防沿いの道のさらに北側からの道路との合流点で三叉路になる地点である。注意喚起とは思われるが、なぜかここだけカラー舗装がなされている。
先ほどの三叉路からさらに多摩川の河口方面に煉瓦堤防は続く。と、その前にその三叉路の交差点より振り返る。奥には大師橋の主塔が見える。そして『日立電動工具』の看板の真下付近に前述の『陸閘』が再び現れている。
こういう肝心の対象を撮り忘れているために再び拡大写真となってしまうが、先ほどの陸閘と異なりこちらは仕切板を 2 枚設置可能なタイプである。どのような基準でこのような差が生まれるのだろうか。
再び河口方面を望む。ここから先もやはり道路に沿ってうねうねと煉瓦堤防が続いている。というよりは堤防に沿って道路がうねうねしているという表現のほうが正しいのかも知れない。
ここからさらに進むと現在の堤防と合流するが、それまではこれまで同様に住宅地の塀となった煉瓦堤防が続いている。画面左奥の道路が坂となっていて登り切ったところが現在の堤防である。
思いっきり逆光の写真で見辛いのは再びご容赦願いたい。
その現在の堤防との合流点より振り返る。また詳細を撮り忘れているが、手前のガードレールの切れるあたりに煉瓦堤防が見える。というのは嘘で、この写真では小さくて判別しにくいが、位置は正しいもののコンクリート製となっている。
やはりこちらから見ても新旧の堤防の圧倒的な規模の違いがよく分かる。
そのコンクリートの部分を多摩川側から見る。実は再び少々嘘をついたが道路側はコンクリートとなっているものの、こちら側は煉瓦堤防として辛うじて生き残っている。
ただ、実はこれも怪しい。というのはここまでの宅地の部分の写真は 2009/04/11 撮影であるが以下の写真は 2006/05/14 の撮影である。上の写真では現在この地点は埋められて駐車場になっている様に見える。というのは中央に写る電柱すら存在しないからである。再訪時に確認を怠ってしまったため推測ではあるが。
同じく 2006/05/14 時点の現堤防との合流点である。コンクリートで埋められている部分は煉瓦堤防が破壊されているのか、上から被せてあるのかは不明である。ただ、ここも現在は埋められている可能性が高い。もしそうならささやかなこれら 2 枚の写真は貴重な記録とも言える。
もし埋められているのならば、やむを得なかったであろうが個人的には非常に残念ではある。
2011/03/26 再訪し、この部分が埋められているかを確認した。その結果やはり埋められていることが判明。埋められる前からのコンクリート部分を残して赤煉瓦堤防が撤去されたようである。ただし、埋められた地中に残っているかは不明。
つくづく、辛うじてではあるがこの部分の赤煉瓦堤防の名残りを記録出来たのが幸いである。
ここからは大師橋に一旦戻って、これまでとは逆に多摩川の河口とは逆の方向即ち西へ向かう。ここからの写真は全て 2010/04/11 撮影である。
ちなみに、大師橋の下は既に煉瓦堤防は存在しない。これは旧大師橋(昭和 14 竣工)の頃はどうだったのかまでは把握できなかった。もしその当時既に撤去されていたとすると、わずか数年でブツ切りにされてしまったことになるため、当時の多摩川の流路から考えても現在の大師橋建設に伴って撤去されたのではないかと思われる。
手前の道路とは微妙にずれた曲線でこちら側の煉瓦堤防は姿を表す。これは上の航空写真や冒頭の旧版地形図を見れば、それがかつての多摩川の流路だった名残りであることが分かる。
煉瓦堤防そのものは先ほどの宅地付近とは異なり堂々たる高さである。一般に『羽田赤煉瓦堤防』というと前述の船溜まり付近のみ紹介されることが多いが、こちら側も忘れないで頂きたいと思う。
拡大である。これまでと同じくイギリス積みであり、現在も特に目立った損傷もなく健在である。白飛びしてしまっているが現在の道路は足元のトラフ(側溝)のラインであるが、それとはずれて曲線を描いているのが確認できる。
かつての多摩川側を見る。こちら側は土地の嵩上げがなされており、残念ながら曲線部は埋められている。奥の短い部分は嵩上げがなされていないものの、同じく曲線部は隠れてしまっている。
その先は煉瓦堤防の両側が同じ高さとなっている。そして出入口に合わせて断続的に残っている。というより残っている部分のほうがかなり少ない。
大師橋方向を振り返る。現在のこの道路は煉瓦堤防に沿ったかつての道路(右側に分岐する一段上の道路)しかなかった頃は存在しなかったのではないだろうか。向かって左側は正蔵院了仲寺というお寺であるが、恐らくは土地の一部を提供し(もしくはさせられ)現在のこの道路があると考えられる。
再び西へ進む。画面右側の桜の咲いている公園は本羽田公園である。赤煉瓦堤防はその手前のこの写真に映っている範囲を最後にこれより西側には残っていない。これより先は冒頭の旧版地形図の部分で述べたとおり数百メートルほど伸びていたようだが、恐らくは公園の左側即ち多摩川寄りに伸びていたと思われる。
公園の交差点より振り返る。ブツ切りになってはいるものの、かつて多摩川の水害からこの地域を守った煉瓦堤防は今もその姿を留める。この辺りは比較的交通量の多い道路に接しているため鑑賞には少々適さないとはいえ、貴重な産業遺構として広く知られることを願ってやまない。
Web 等で事前に把握していた赤煉瓦堤防のおおよその所在地は上述の範囲内のみであったが、その後 2011/03/26 に何気なく散歩で付近を再訪したところ、さらに残存している箇所を偶然発見したので紹介したい。
航空写真で位置を示すと弁天橋の西詰めのすぐ南側海老取川に沿った道路脇である。ただし、残っているのはおおよそ以下の通りであり、左下に見える赤煉瓦堤防(上述のもの)とはかなりの距離を置いて途切れている。
弁天橋西詰めより南を向いて全体を望む。奥に見えるコンクリート擁壁は現在の護岸である。正確に言えばここはすでに多摩川ではなく海老取川である。現在の護岸の完成年は把握していないが、どこかに竣工年を記した銘板があるかも知れない。また宿題が...
手前の道路は恐らくは嵩上げされていると思われ、肝心の赤煉瓦堤防は最上部がごくわずか顔を出しているだけである。
最も弁天橋に近い所では既存の赤煉瓦にデザインをあわせて改修されている。深読みし過ぎかも知れないが、道路の嵩上げ若しくは現在の護岸工事の際に既存の赤煉瓦堤防を残そうと決断した担当者に敬意を払いたい。
奥へと進む。即ち海老取川河口付近である。赤煉瓦堤防は残念ながら突然ぷっつりと途切れてしまう。ちなみに、赤煉瓦堤防の左側はちょっとした遊歩道である。途切れた先はどのような線形で堤防が伸びていたのか想像が困難である。しかし、概ね現在の護岸の線形に沿ったものと推測される。
ちなみに、以下に 1946 (昭和 21) 年及び 1947 (昭和 22) の航空写真へのリンクを掲載するのでご覧頂きたい。いつものように国土変遷アーカイブなので低解像度であるため、これまた赤煉瓦堤防の判別は少々難しい。
現在大田区に住んでいる身としては身近な河川である多摩川であるが、現在の姿に整備されるまでの経緯は土地の人間でないこともあって把握していなかったものの、知れば知るほど大変に興味深いものがある。
かつては江戸の入り口として橋もしくは渡しで街が賑わい、関東大震災後の復興期には良質の玉石や砂利を産出し、首都圏のコンクリート構造物の多くに使われた歴史もある。また、それに伴い砂利を運搬するために周囲には鉄道網も発達(例えば現南武線)し、そして今回取り上げたように水害を引き起こして多くの被害をもたらし、恐ろしさと恵みの両方を我々に与え続けてきた。
この多摩川についての遺構の第一弾としてここでは最初に行われた本格的な直轄改修工事について取り上げた。とは言え、その中のほんの一部分として今も残る赤煉瓦堤防についてのみである。この工事によって煉瓦以外の堤防もあっただろうがちゃんと把握できていない。
ただ、羽田の対岸にあたる川崎にも煉瓦堤防は一部残されており、こちらも現地調査済みであるため別途報告したい。また、報告の中で触れた通り堤防にも水門などの構造物も貴重な遺構として残されており、こちらも順次報告する予定である。当報告書と同じようにまとまりのないものになるとは思うがご容赦頂きたい。
また当報告書では取り上げなかったが、この直轄改修と時期に多摩川の特に下流域に設置された水制について撤去、改修時に調査を行い先人の知恵と工夫をまとめた資料を発見したので合わせて紹介したい。
なかなかお目にかかることのない水制についての素晴らしい資料なのでぜひご覧頂きたい。
さらに、過去にブログにおいて多摩川の砂利採取の実態についての資料を紹介しているのでこちらも合わせてご覧頂きたい。かつて多摩川で乱掘された驚異の実態が克明に記されており、大変興味深い。
ちなみに現在はこのブログは更新しておらず、ブログのページにて現在のブログへのリンクを掲載しているのでご覧頂けると幸いである。
最後に、毎度のことではあるが報告書公開と共に宿題が増える一方である。少しずつ片付け当報告書に反映していきたいが、有用な情報などコメントで頂けると幸いである。
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