京急と敗戦と廃線。
2014/03/03 コメント欄を追加。
2009/06/28 動画コンテンツを追加しました。
2008/06/13 全写真のサイズを拡大しました。
2007/12/09 総評に同線現役区間【京急蒲田~羽田空港】の動画を追記しました。
2007/01/07 公開。
現在羽田空港へ乗り入れている鉄道は東京モノレールと京浜急行電鉄(京急)である。
このうち京急に関しては羽田空港建設以前より付近まで路線があったにもかかわらず羽田空港乗り入れは大変遅く 1993(平成 5)年のことである。現空港島に1902(明治 35)年に線路を最初に敷いてから実に 80 年後を経ている。空港島は近くて遠い島だった。
それに引き換え東京モノレールは東京オリンピックにあわせて1964 年(昭和 39)開業以来京急の空港島乗り入れまで羽田空港への唯一の鉄道として独占の名を欲しいままにしていた。
京急より蒲田羽田を目指す空港線はかつて穴守線と呼ばれ、空港島にあった穴守稲荷やその周辺に京急が建設した運動場や海水浴場等への行楽輸送線だった。
羽田周辺は鈴木新田と呼ばれる埋立地であり田畑の広がるのどかな地域であったがやがて競馬場もでき、穴守稲荷へのお参りとあわせ行楽地として賑わったいたのだろう。また、『羽田海苔』と呼ばれる東京湾の海苔の産地でもあった。
やがて羽田飛行場(現在の羽田空港の前身)ができ人口も増えてきたが戦後 GHQ により羽田飛行場とあわせて輸送路としてこの穴守線も接収され、蒲田~稲荷橋間は単線営業となり京急としては稲荷橋~穴守間は休止となった。
GHQ は蒲田から穴守までというより空港までの線路を狭軌に改軌し、国鉄蒲田駅と羽田空港との連絡線とした上で物資の輸送を始めたのである。通称蒲蒲連絡線と呼ばれていたものである。このあたりも別途報告したい。
なお、穴守線の終点穴守駅そばにあった穴守稲荷も空港島から現在地への移転を余儀なくされた。また穴守稲荷だけでなく空港島の住民も強制退去させされ、その制限時間はなんと 48 時間以内であった。
やがて GHQ による接収は解除となり穴守線も返還され複線の営業を再開したが、稲荷橋より先は空港敷地内となり乗り入れが禁じられたため空港島の目前に羽田空港駅(初代)を開設した。この時稲荷橋は若干蒲田寄りに移設され空港島より近くに移転された穴守稲荷の名を冠した穴守稲荷駅へと改称した。
その後羽田空港の拡張に伴いようやく京急は空港島への乗り入れを認められ、現在のように羽田空港へのアクセス路線としての地位を築いていくのである。
だが、その傍らには戦前より歴史を刻んだ線路がひっそりと廃止されたのである。それがこの報告書で取り上げる区間である。
即ち空港乗り入れに際し、穴守稲荷駅から先が従前の地上路線ではなく地下に路線を新設したため空港島の目前にあった羽田空港駅(初代)までの地上区間がその歴史に発展的解消とも言える形で終止符を打ったのである。
現在羽田空港内に羽田空港駅(二代目)が開設され多くの乗降客で賑わっている。
調査日:2006/08/06
年月日 | 事象 |
---|---|
1902/06/28 | 羽田支線(穴守線)として蒲田駅(現在の京急蒲田駅)~穴守駅間が開通。 |
1913/12/31 | 0.8km 延伸し、穴守駅を移設、旧・穴守駅より 0.2km 京浜蒲田駅寄りに羽田駅を新設。 |
1915/01/?? | 羽田駅を稲荷橋駅に改称。 |
1940/10/?? | 稲荷橋駅を京浜蒲田駅方へ 0.2km 移設。 |
1945/09/27 | 連合軍の接収により京浜蒲田駅~稲荷橋駅間単線化、稲荷橋駅~穴守駅間は営業休止となる。 |
1952/11/01 | 京浜蒲田駅~稲荷橋駅間上り線が連合軍より返還され複線運転再開。稲荷橋駅を京浜蒲田駅方へ約 0.3km 移設。 |
1956/04/20 | 稲荷橋駅を穴守稲荷駅に改称、穴守稲荷駅~羽田空港駅(初代)間(0.5km)を延長(復活)。 |
1963/11/01 | 空港線と改称。 |
1971/01/22 | 羽田空港駅(初代)~穴守駅間(0.8km)、正式に廃止。 |
調査対象区間周辺の道路地図である。今回の調査は図中の『調査区間』を対象とした。
実は現空港線の蒲田から調査区間までの撮影も同日実施したが、これは現在工事が実施されている空港線高架化に備えての現状記録としてである。またの機会に別途報告書として取り上げたい。
この地域の最も古い 1/25,000 の旧版地形図によると『鈴木新田』の地名が見られここが埋立地であることがうかがえる。
また、下の地図には含めていないが『蒲田區』のすぐ北には羽田飛行場がある。さらに、驚くことに多摩川河口付近に『羽田競馬場』とある。
旧穴守線は上の道路地図で羽田空港(初代)とある場所に旧稲荷橋駅があり、さらに現空港島に線路は続き旧穴守稲荷の手前の旧穴守駅まで一直線であった。
出展:国土地理院 1/25,000 地形図「穴守」(S7/10/30 発行)※管理人一部加工
その後昭和 22 年発行の旧版地形図では旧穴守線に関しては変化がないものの、周辺地域には変化が認められる。
『羽田競馬場』は姿を消し、何やらよく分からないことになっている。ただ微妙に競馬場のトラック跡に沿って道路があるようである。終戦直後という時代を考えると軍事関連施設かもしれない。また、旧穴守駅付近は一気に都市化が進んでいるようである。しかしこの時代の地図は戦争との絡みで改描も考えられるため詳細は不明である。
出展:国土地理院 1/25,000 地形図「穴守」(S22/09/30 発行)※管理人一部加工
さらに、昭和 42 年の旧版地形図では羽田空港の発展に伴い以前は人の住む街があったとは想像し難くなっている。
当然この当時は現在の空港ターミナル(ビッグバード)はなく初代空港ターミナルである。無理やりであるが一つ上の旧版地形図上に追記した引き出し線を旧稲荷橋駅と羽田空港駅(初代)とがほぼ同一地点と仮定して対比を試みた。
この当時もしも旧穴守駅がそのまま存続していれば初代ターミナル時代の空港へのアクセス路線として現在と変わらぬ地位をもっと早く築けたかも知れない格好の場所である。
しかし、旧穴守稲荷にいたっては移転しなければ如何ともし難い位置である。接収という理不尽な理由で由緒ある場所から離れざるを得なくなったとは言え、存続し後世に語り継ぐことができたのは不幸中の幸いと言えるだろう。
出展:国土地理院 1/25,000 地形図「東京国際空港」(S42/10/10 発行)※管理人一部加工
Google Earth では空港の目覚しい発展の裏の悲劇は全くうかがい知ることができない。
調査対象区間の道路地図である。今回の調査は図中の「調査区間」を対象とした。
なお、旧穴森線は下図中点線をたどり現空港島内にあった旧穴守駅までだが空港敷地内への立ち入りは不可能であるためかつて空港島乗り入れを許可されなかった京急同様近くて遠い気分を身をもって味わうこととなった。
従って、我々一般ピーポーが自由に立ち入ることのできる(私有地はもちろん別)範囲となるのである。
Google Earth で見ると廃線跡が一目瞭然である。現在駐車場となっている連続した部分である。
古い航空写真でも調査対象の旧線跡のみならず羽田空港駅(初代)よりさらに空港島に伸びる GHQ の貨物線と思しき線路も確認できる。滑走路には懐かしいデザインの『はさみ』の落し物も見える(大嘘)。
出展:国土地理院航空写真(地区:東京国際空港、コース:M371、番号:75、撮影機関:米軍、撮影日:1947/07/09、形式:白黒)※管理人一部加工
現地調査は穴守稲荷駅から開始した。左の写真は蒲田方面を望み右の写真は空港方面を望む。この駅から現在線は地下にもぐり空港を目指している。かつてはこのまま地上に線路があった。
上の右の写真でトンネルが始まる部分よりかつて線路があった地上は駐車場となっている。この踏み切り跡より穴守稲荷駅方面を望むとトンネルへ続く掘割の深さがよくわかる。
このトンネルが始まる踏切跡付近はトンネル工事の関係で道路が嵩上げされているがかつてここを電車が通り過ぎていたことを想像してみる。写真左側が空港方面である。
この駐車場を空港方面に望むとかつての線形がうかがえるようだ。と言っても現在もこの地下を走っているので当然と言えば当然であるが。下の最初の写真が空港方面方向で次の写真が穴守稲荷駅方面に振り返ったものである。
上の写真駐車場の突き当たりの樹木が茂っている場所は現在公園となっており、現在線はこの公園の地下を走っている。この公園のコンクリートブロック塀の足元に京急の境界標を発見した。
おなじみ『KHK』である。
なお、この辺りの駐車場は『京急パーキング』が運営しているようである。
公園で一旦途切れるものの廃線跡に沿って再び駐車場が現れる。この駐車場は羽田空港駅(初代)跡まで続いている。左の写真は空港方面を望んでおり画面奥が羽田空港(初代)駅跡である。右の写真はその駅跡付近で広い駐車場となっている。
開業当時ここから空港島との間を流れる海老取川を渡っておらず穴守駅はなく、この駅が終点であった。今広い駐車場となっている部分はなんと折り返し用のループ線を持った駅があったとのこと。このループ線については未調査であるため詳細は不明であるが今後の継続課題としたい。
なお、上の右の写真にある自動販売機のちょうど上に看板があるがこれは写真を撮っているすぐ後ろを流れる海老取川の対岸にある京急天空橋駅の案内である。なぜ川の対岸の駅の案内がここにあるかというとここに人道橋がかかっており徒歩にて天空橋駅に行けるからである。ひょっとしたらかつての羽田空港(初代)駅がまだあると思って間違ってくる人への案内も兼ねているかも知れないが(もうそんな人いないか)。
この人道橋はかつての穴森線が旧穴守駅まで伸びていた頃にあった鉄道橋より南に位置し対岸の天空橋駅に直結している。。そして橋の名前は『天空橋』である。豪快なワンスパンのガーダー橋で海老取川を跨いでいる。
なお、この人道橋のデザインはかつての鉄道橋を意識しているらしい(どこかで知った、程度の情報で失礼)。
ちなみに、かつての鉄道橋については護岸が整備されてしまっているせいか痕跡を見つけることは不可能であった。
ちなみに上の写真に写っているオレンジの欄干の橋は廃橋である。これも歴史のある橋なので別途報告したい。
穴森線の歴史はそのまま戦争の歴史と言っても過言ではないと思う。戦前より羽田に線路を伸ばし地域の足として活躍していた路線が突然接収されるまた現空港島に住んでいた人たちも48時間以内の強制退去を言い渡された。人々の信仰の証である稲荷までもが移転を余儀なくされた。
かつてそこに住んでいた人たちはその後どうなったのだろうか。彼・彼女達には今の羽田空港はどのように映るのだろうか。
京急は長年の悲願をついに叶え、空港線を重要路線として位置づけ経営資源を注いでいる。箱根駅伝で有名な京急蒲田そばの国道を豪快に横切る踏み切りも現在工事中の空港線の高架化が完成すれば消える運命にある。
これにより空港へのアクセス路線としてますます便利になることだろう。これは素直に歓迎したい。個人的には(誤解を恐れずに言えば)東京オリンピックに向けての超突貫工事で建設費が高騰したとはいえぬくぬくと割高な料金で儲け続けた東京モノレールにさらなる勝負を挑んで欲しい。
京急と言えば、国鉄東海道線との真っ向勝負の中で生まれた時速 120km 運転が有名であるがこのような正々堂々とした勝負は大いに応援したい。
さらに JR 蒲田駅と京急蒲田駅を地下で結び東急多摩川線との連絡線(蒲蒲線)の建設も計画されており、さらに空港線は変わってゆくだろう。この蒲蒲線が実現されれば皮肉にもかつての GHQ が国鉄蒲田駅と京急蒲田駅を結び接収した羽田空港への輸送路が地下版で再現されるようなものである。ただし今回は東急と京急だが。
戦争は決して繰り返したくないが、やはり『歴史は繰り返される』ということだろうか。
現在かつて人の住む街の一部があった現滑走路のそばの旧旅客ターミナル跡地付近は開発の目処が立っておらず空地が広がっている。
なお、同線現役区間【京急蒲田~羽田空港】の前面展望動画を撮影したのでご覧頂きたい。共同撮影者の管理するページより紹介したい。
コメントをどうぞ。吹き出しマークをクリックしてください。投稿には Google+ のアカウントが必要です。