京急と国鉄と GHQ。
2008/06/17 全写真のサイズを統一(一部縮小)しました。
2008/01/14 公開。
敗戦後の GHQ による日本の統治ではさまざまな場所や施設が接収対象となり管理下に置かれた。かつての羽田には現羽田空港の前身である東京飛行場が戦前よりあったが、これも接収対象となった。
そしてここに米軍の大型輸送機の離発着を可能にするため、大規模拡張がなされることとなった。これに伴い、海老取川以東の東京飛行場周辺の羽田穴守町及び羽田鈴木町やそのさらに海側となる台場地区(現在のいわゆるお台場ではない)も接収対象地域となり、住民は 48 時間以内の一方的な強制退去となり一切の民間人の立ち入りが禁止された。
そのため、その巻き添えで東急穴守線(現京急空港線)も海老取川以東の終点穴守駅までが休止せざるを得なくなった。
羽田空港の 拡張工事に伴う膨大な資材の運搬には鉄道が必要との判断から省線(現 JR )蒲田駅より京浜蒲田(現京急蒲田)駅を経て当時の東急穴守線へ乗り入れ、海老取川を越えて空港敷地内へと続く空港専用線の建設が GHQ により決定され当時の所轄である運輸省が施工することとなった。
その連合軍 空港専用線は以下のような構成であった。
この空港専用線により、空港拡張工事の膨大な資材や航空機部品、燃料、兵員の輸送等も実施された。また、この専用線と京浜蒲田からの穴守線合流地点の南側一帯も接収され空港建設用の砂利砕石場が設置され複数の側線が敷かれた。
やがて空港建設も一段落した以降は仕分ヤード等の本線部分以外から接収解除が始まり、また京浜急行電鉄の働きかけもあり、1952 (昭和 52) 年 2 月 18 日ついに空港専用線本線も接収解除となった。
しかし、空港島周辺は東京国際空港となることが決定されたため、京急穴守線の稲荷橋駅以東の穴守駅方面区間の復活は絶望的となった。ここでは、この空港専用線のうち省線蒲田~京浜蒲田間について現在の様子をお伝えしたい。
というのは、京浜蒲田~稲荷橋(二代目)間は既存線の接収であり、接収解除に伴い復旧されたため痕跡が残っていないと思われるのと稲荷橋(二代目)~羽田空港間については別途同区間を扱った京浜急行電鉄空港線旧線【穴守稲荷~羽田空港(初代)】にて雰囲気を感じて頂けると判断し本報告書より省かせて頂いた。
調査日:2006/09/10、2007/09/16
年月日 | 事象 |
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1945/09/24 | 東急穴守線(現京急空港線)稲荷橋~穴守間休止。 |
1946/03/06 | 東急穴守線の全線単線化のうえ、約 20 分間隔の一列車運行開始。 |
1946/03/09 | 空港専用線着工。 |
1946/08/15 | 稲荷橋駅(二代目)を蒲田よりに 300m 移設。 |
1946/10 | 穴守線上り線改軌完了。 |
1945/11/25 | 空港専用線線路関係工事完了。 |
1950/03 | 省線蒲田~京浜蒲田間仕分線撤去。 |
1952/02/18 | 空港専用線接収解除。穴守線の標準軌化着手。 |
1952/11/01 | 東急から分離した京浜急行電鉄穴守線復旧。 穴守線稲荷橋~穴守間休止確定。 |
調査対象および周辺の主なランドマークを示した。この地図は拡大や縮小、航空写真への切り替え等も可能である。
本報告書では前述のとおり下の地図で実線で示した省線蒲田~京浜蒲田間について取り上げる。
ちなみに、『トワイライトゾーン MANUAL 10』には『鉄道終戦処理史』からの当専用線の概略図が引用されているのでご紹介したい。
出展:トワイライトゾーン MANUAL 10 ※管理人一部加工
調査対象区間の道路地図である。
さらに、 終戦直後の航空写真にその驚愕の路線の姿がくっきりと写し出されている。省線蒲田駅との比較でその規模を実感していただけるだろうか。
出展:国土地理院航空写真(地区:川崎、コース:M372、番号:8、撮影機関:米軍、撮影日:1947/07/09、形式:白黒)※管理人一部加工
Google Earth で現在と比較してみる。その後の街の発展に伴い当時とは随分異なる風景ではあるが、鉄分が高くなくてもその『線』が浮かび上がってくる部分がないだろうか。
まず省線からの分岐点付近である。現在 JR 蒲田駅周辺は開発が進みビルが立ち並び当時の面影はないが、右の白い建物と奥の建物間付近から分岐していたようである。工事車両用の引き込み線が微妙にその気にさせる。
写真は環状八号線の蒲田陸橋より蒲田駅方面を望む。
これより先は区画整理の結果、専用線のカーブの痕跡は全く見当たらない。カーブから直線へと変化する付近から先は現在道路となっており、上の Google Earth の写真にも写っているひときわ大きなビルであるアロマスクエアの北に接する道路がそれである。
撮影地点の右横がアロマスクエアである。およそこの辺りからこの道路上に専用線が走っていたと思われる。
次は上の写真の地点から省線蒲田駅方面を振り返ったところである。街路樹の左側がアロマスクエアであり、専用線はバスが停車している辺りから省線との分岐点に向かって左にカーブしていたと思われる。
二つ上の写真の緩やかな右カーブを抜けた先は京浜蒲田までほぼ一直線であり、現在もそのままの線形で道路となっている。このあたりは冒頭の終戦直後の航空写真にあるように仕分用地及び側線用地として付近一帯が接収されていた。そして画面一番奥が京浜線との交差部付近である。
ここに貨物列車が並ぶヤードがあったのである。今となっては信じ難い光景である。
専用線はこのまま豪快な直線で京浜(京急)線をなんと平面交差で抜けていた。写真では京急本線の踏切待ちの一台目の京急バスのあたりを突っ切っていたようである。
京急本線を貨物線が平面交差するというところが、戦勝国による絶対の指示を感じさせる。
なお、この平面交差付近の線路配置は『トワイライトゾーン MANUAL 10』によると、このような物であった。
出展:トワイライトゾーン MANUAL 10 ※管理人一部加工
同地点より省線蒲田駅方面を振り返る。ここにはかつてこの道路上の専用線本線の両側に資材搬入用のヤードが広がっていたのである。
京浜線と平面交差した専用線は第一京浜国道(国道 15 号)を横切るが、恐らくこの辺りであったようである。写真右側が大田区産業プラザである。
そして、これより先その大田区産業プラザ付近は羽田空港滑走路建設のための砕石場が広がっていた。
上の写真中央の建物前より省線蒲田方面を振り返る。写真中央の屋上にクレーンの立つビルが 4 枚上の写真の地点である。
専用線はこのまま大田区産業プラザ脇を進んでいたと思われる。左側の住宅の並びが恐らくそれである。2 枚上の写真中央の建物である。
さらに進むと現在駐輪場がなっているが、専用線はこの辺りを通っていたと思われる。また、左側の白いマンションのすぐ裏に京急線が走っており、白いマンションの右側辺りの建物の途切れている間で合流していたようである。
合流地点と思われる付近より振り返る。左側の大きな建物は大田区産業プラザであり、かつての砕石場跡である。
写真右端の京急線にこの辺りで合流していたと思われるが、正確なラインは追跡不可能である。
現在蒲田周辺の鉄道は JR 東日本東海道本線と京浜急行電鉄(京急)本線が南北に貫き、主にこの方向での旅客流動が大きい。東西方向には東京急行電鉄(東急)東急多摩川線と池上線が蒲田駅に西側で止まり、京急空港線が京急本線から東へ空港に向かっており JR 蒲田駅と京急蒲田駅には鉄道はなく市街地が形成されている。
かつてここを戦争の影響とは言え、東西を結ぶ鉄道が存在したのは非常に興味深い事実だと思う。皮肉なことに現在、この JR 蒲田駅と京急蒲田駅の間をつなぐ鉄道の構想が浮上している。
これは、東急多摩川線の矢口渡駅付近より地下に分岐し、蒲田駅地下に新駅を建設し軌間のことなる両社の乗り換え駅とした上でこれより東側に京急の路線として空港線の糀谷駅東側付近の地上部で合流する地下新線を建設するという構想である。
これにより、羽田空港へのアクセスパスが増えるという目論見である。何気に姿形を変え、かつての連合軍専用線のような線路が再び建設されようと画策されているのである。かつてその空港建設のための資材運搬鉄道が今度は旅客を運ぶものとしている。これは蒲田の東西の大きな旅客流動パスとなり得るであろう。
既にその経路上に建つ大田区役所はそれを考慮した構造となっているらしく、区としては実現する気でいるが現実どうなるか分からない状況である。ちなみに、この新線は通称蒲蒲線と呼ばれているらしく、Wikipedia にも記事があったので下のリンクよりご覧頂きたい。
さらに、京急蒲田駅周辺では京急本線と空港線の連続立体交差事業が目下工事中であり、大きく状況は変わろうとしている。現在京急蒲田駅から空港線分岐部がなんと単線なのも本報告書で取り上げた専用線の影響の名残である。
戦争の歴史を静かに語る側面と生まれ変わろうとする今後と、何かと話題に尽きない街が蒲田と言えよう。