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JR 東日本山田線貨物支線(宮古臨港線)跡【宮古~宮古港】 最終巻

『なあど』だった ?

2009/12/15 公開。

調査結果

第一巻より続く。

(仮称)山口川橋梁~本線分岐点

(仮称)山口川橋梁を過ぎてもなお下草は大したこともなく引き続き難なく路盤跡を辿ることが可能である。ここは出光のガソリンスタンドの裏になるがちょうどここら辺りから何故か若干盛土がなされている。同行者の足元付近よりそれが確認できる。高さは数十 cm といったところである。ただし、なぜこうなっているかは不明である。

JR 東日本山田線貨物支線(宮古臨港線)跡【宮古~宮古港】((仮称)山口川橋梁~本線分岐点)

盛土上より宮古港方面を望む。少々植物の丈が高くなりチャリンコに乗って進むのは難しくなるが、しばらくはこの調子で進めそうな雰囲気である。右側の防潮堤はツタに覆われすっかり緑の壁である。

JR 東日本山田線貨物支線(宮古臨港線)跡【宮古~宮古港】((仮称)山口川橋梁~本線分岐点)

同地点より宮古方面のを振り返る。個人的にはちょっと手入れすれば立派な遊歩道になりそうなくらいいい雰囲気だと思う。ただ、実際は釣り人だらけとは言え、防潮堤の海側も歩けるので整備したところで意味は無いかも知れないが。

JR 東日本山田線貨物支線(宮古臨港線)跡【宮古~宮古港】((仮称)山口川橋梁~本線分岐点)

そのまま盛土上を気にせず進むと、やがて元のレベルに戻る。ここは国道 45 号から防潮堤の向こうへ抜ける道と交差する場所である。まずは宮古方面を振り返る。なお、右に見えるハシゴが立てかけられた建物は看板を写し損ねたが『若山食堂』というラーメンがおいしいと噂の店である。ちなみに、入り口は国道 45 号側ではなく写真に写っている防潮堤側である。

これも要調査項目に密かに挙げていたが結局都合がつかず未調査である。Yahoo グルメでの紹介ページを参考として示しておきたい。

JR 東日本山田線貨物支線(宮古臨港線)跡【宮古~宮古港】((仮称)山口川橋梁~本線分岐点)

宮古港側を望むとその交差部の踏切跡を見ることができる。トラ模様の柵が当時を偲ぶことができ、路線中最も当時の雰囲気を残す踏切跡である。なお、左の赤い『営業中』ののぼりはもちろん若山食堂のものである。何といっても入り口がこちら側なので。

JR 東日本山田線貨物支線(宮古臨港線)跡【宮古~宮古港】((仮称)山口川橋梁~本線分岐点)

柵には『第 1 光岸地』との表記が未だに残っており、当踏切の名称を知ることができる。個人的には光岸地というよりは場所的に築地であるべきではないのかと思っている。ここも路盤跡にかかる道路部分はアスファルト補修がなされている。

JR 東日本山田線貨物支線(宮古臨港線)跡【宮古~宮古港】((仮称)山口川橋梁~本線分岐点)

第 1 光岸地踏切跡から先はやはり人通りがないようで少々植物の元気が増してくる。ちなみに左側の大きな木が茂っている場所は国道 45 号に麺して設けられた『ミニ浄土ヶ浜公園』である。実はその前を私は何度も通っているが『変なところに変な歩道のヒネリが入ってるな』くらいにしか捉えていなかったため撮影していない。

帰宅後調べてみると SL リアス線時代にはちょうどこの場所にその名も『ミニ浄土ヶ浜公園駅』なるものが設置されていたそうである。以下に紹介する個人サイトではこの『公園』の設置に対し批判的であるが、縁あって何度も宮古を訪れた者として全く同感である。よくぞ言ってくれたとすら思う。真剣に街のことを思えばこんなモノを作るなんてあり得ないと思う。これだからセンセイ方は(ry

JR 東日本山田線貨物支線(宮古臨港線)跡【宮古~宮古港】((仮称)山口川橋梁~本線分岐点)

その『ミニ浄土ヶ浜公園駅』跡より宮古方面を望む。小さくて見えにくいが若山食堂の看板も写っている。繰り返し言っておきたいがこちら側入り口である。恐らくはこの防潮堤が作られるより以前より営業しているのだろう。要ラーメン調査である。

JR 東日本山田線貨物支線(宮古臨港線)跡【宮古~宮古港】((仮称)山口川橋梁~本線分岐点)

ここから先はチャリンコをいたわるため藪漕ぎを回避し並行する国道 45 号へと出た件の『公園』撮影地点のちょっと後ろである。ここまで国道 45 号の歩道は路盤跡とは無関係であったが、ここで路盤跡へと微妙に位置を変える。

なお、ここは現在の国道 45 号が画面左に直角に曲がって山肌を急勾配で駆け上がっていく三叉路であるが、かつてはそのまま画面奥へ続いていた。現在ここから先は県道 259 号崎山宮古線に格下げされている。

JR 東日本山田線貨物支線(宮古臨港線)跡【宮古~宮古港】((仮称)山口川橋梁~本線分岐点)

同地点より宮古方面を振り返る。歩道の微妙っぷりがよく分かる。ここも何度も遠っておきながら交差点名を失念した。交差点名の分かるオンライン地図サイトをご存じの方はぜひご教示願いたい。

コメントにて情報提供を頂き、『愛宕交差点』であることが判明、確認できた。何度も通っておきながらやはり地元民ではないためか、周辺の愛宕という地名は覚えていたのに確証と確認に時間がかかってしまった。

度々の情報提供、ご教示ありがとうございました。> Rasa 様

JR 東日本山田線貨物支線(宮古臨港線)跡【宮古~宮古港】((仮称)山口川橋梁~本線分岐点)

そのまま進む。今でこそこのように国道 45 号の歩道が申し訳程度とはいえ存在するが、かつてここに鉄道が存在していた頃には歩行者はどうしていたのだろう。

JR 東日本山田線貨物支線(宮古臨港線)跡【宮古~宮古港】((仮称)山口川橋梁~本線分岐点)

さらに進むと県道は左にカーブし路盤跡とは離れていく。路盤跡は相変わらず防潮堤のすぐ脇を直進である。そして歩道はこの先県道沿いには消え失せてしまう。路盤跡は実質駐車場となっているようである。

JR 東日本山田線貨物支線(宮古臨港線)跡【宮古~宮古港】((仮称)山口川橋梁~本線分岐点)

再び宮古方面を望む。こんだけ場所が余ってるんだから無駄な『公園』なぞ作らずに広い歩道を整備すべきと考える。この辺りは実は結構通学のチャリンコが多く行き交う道なのだ。

JR 東日本山田線貨物支線(宮古臨港線)跡【宮古~宮古港】((仮称)山口川橋梁~本線分岐点)

これより先は路地として活用されており、砂利道が続いている。さすがに人の往来があるせいか、防潮堤もほとんどツタがない。左側にある CB 造の建物は町工場のようであるが、その渋さからここに鉄道があった頃からそこにあったかも知れない。

JR 東日本山田線貨物支線(宮古臨港線)跡【宮古~宮古港】((仮称)山口川橋梁~本線分岐点)

さらに進むとさりげなく緑が復活し少々広がった場所に出る。ここは実は本線と留置線との分岐点である。防潮堤沿いに直進するのが留置線であり、正面の木立を突き抜ける方向に本線が分岐していた。しかし、この事実も帰宅後知ったことであり現地では勘だけで『分岐くさい』と思っただけであったため、このまま深追いせずに直進し留置線のみを辿ってしまった。

JR 東日本山田線貨物支線(宮古臨港線)跡【宮古~宮古港】((仮称)山口川橋梁~本線分岐点)

その分岐点より宮古方面を望む。少々分かりにくいかも知れないが、右に写る建物が本線のカーブに沿って曲線を描いており僅かな痕跡を残している。建物自体は比較的新しいため、敷地形状がそうなっているものと思われる。

JR 東日本山田線貨物支線(宮古臨港線)跡【宮古~宮古港】((仮称)山口川橋梁~本線分岐点)

留置線

そしてこの直線をす進むとついに埠頭へ出る。そこには今まで路盤と並行していた防潮堤が直角に向きを変え交差部となる部分に水門が残されている。ただこの水門が鉄道現役時代から存在するものかは未確認である。その先は『佐々木鉄工所』と地図にも表示されている鉄工所の敷地のようで鉄骨が積まれている。奥に見える大きな建物は『シートピアなあど』であり、道の駅宮古も併設されている。

話題が逸れるが Google 日本語入力恐るべしである。『しーとぴあ』で『シートピアなあど』が候補に出てくる。素晴らしい。あとやはり岩手といえば『佐々木』であると改めて実感する。

JR 東日本山田線貨物支線(宮古臨港線)跡【宮古~宮古港】(留置線)

ここから先は再開発により市民の憩いの場として大々的に整備されたため、かつての貨物線の面影は全く無い。

JR 東日本山田線貨物支線(宮古臨港線)跡【宮古~宮古港】(留置線)

同地点より宮古方面を振り返る。鉄道が海(正確には閉伊川河口とも言えるが)のすぐ際を走っていた様子がよく分かる。ところでこの鉄工所は鉄道が現役の頃からあったのだろうか。もしそうだとしたら作業場はどうしていたのだろう。

JR 東日本山田線貨物支線(宮古臨港線)跡【宮古~宮古港】(留置線)

もう少し進んだ場所より振り返る。実はこの留置線は水門を出た辺りから画面右側にカーブしていたのである。画面中央の建物群の配置にその痕跡が伺える。その先の痕跡は既にない。

JR 東日本山田線貨物支線(宮古臨港線)跡【宮古~宮古港】(留置線)

本線・宮古港駅付近

途中より分岐していた本線についても勘だけで何となく『ここ線路あったんじゃないかい ?』と勝手に推測した部分を撮影した。結果的にはビンゴであったが、中途半端な内容となり申し訳ないが紹介しておきたい。

現在宮古漁協ビルと名乗っている崖の上のビルの崖下の道路脇の草むらがそれである。今ではちょうど歩道に沿った緑地帯のようになっている。写真では見にくいが画面奥の延長線上には水門があり、それをくぐるとこの写真の目の前の道路と交差し先程の分岐点へ到達するのである。残念ながらその地点付近の調査は行わなかった。私の詰めの甘さが露呈されたと言える。

ちなみに、このそびえ立つ宮古漁協ビルであるが、かつては宮古測候所であった。またこの崖よりこちら側はかつては海であった。そして測候所が最初にできた 1883 (明治 16) 年以前は鏡岩台場と呼ばれる要塞地区だったそうである。

JR 東日本山田線貨物支線(宮古臨港線)跡【宮古~宮古港】(本線・宮古港駅付近)

実際そこに立ち留置線との分岐点方向を望む。現在ではこれまた隣に場所はあるのに肩身の狭い歩道が続き、路盤跡はただの草むらとして残されている。

JR 東日本山田線貨物支線(宮古臨港線)跡【宮古~宮古港】(本線・宮古港駅付近)

もう少し宮古港駅寄りから望む。現在道路はここで急カーブを描き鍬ケ崎地区へ向かうが、画面左奥から歩道の右側に沿って続いていた本線はそのまま撮影地点方向に伸び、撮影地点左後ろに向かってカーブして宮古港駅を目指していたのである。

JR 東日本山田線貨物支線(宮古臨港線)跡【宮古~宮古港】(本線・宮古港駅付近)

角度を変え同地点を望む。画面右側から進んできた本線はちょうどこの道路(当時は存在していない)をこの辺りで横切り画面左に写る現宮古魚市場の左側辺りを目指していたようである。そしてかつて宮古港駅だったその場所はその魚市場となりかつての痕跡は失われた。

JR 東日本山田線貨物支線(宮古臨港線)跡【宮古~宮古港】(本線・宮古港駅付近)

ちょっとだけ戻って道路を横切る手前で脇に眼をやると奥に赤い植物で覆われた謎のコンクリート構造物が目に留まる。また、その手前には何かがあったと思われる空き地が広がり、ラサ工業による立入禁止の看板が立つ。

JR 東日本山田線貨物支線(宮古臨港線)跡【宮古~宮古港】(本線・宮古港駅付近)

実はその奥の構造物こそ田老鉱山からの索道の終点であり、その手前の空き地には関連する構造物が立ち並んでいたのである。なお、その索道終点の構造物については以下の調査報告書を公開済みであるのでご覧頂けると幸いである。ただ、手前の空き地に何があったのかは把握できていない。情報をお持ちの方はご教示頂けると幸いである。例えばホッパーとかであろうか。

総評

宮古は何度か訪れる機会があり、実はこのような廃線跡等に興味を持つ以前より訪れていた。そして当時は現在宮古港にある『シートピアなあど』も新しい魚市場も無かったように思う。整備される前に一度だけこの埠頭を見に行ったのだが、記憶が正しければ一部にレールが残されていたように思う。

夕暮れ時であったが、『何でこんな所にレールが』と思ったのをよく覚えている。その後いつしかこのような趣味を始めたが、そのことを一時期忘れていたが、何とかもう一度見てみたいと思い立ち、当時はオンラインの航空写真や旧版地形図の存在もあまり知らないまま、ほとんど意味のない不慣れなへなちょこ机上調査の後に現地を再訪したのである。

もう少し早くこのような趣味に目覚めていたらと後悔しきりであるが、どうしようもないことである。ただ、宮古港駅周辺以外は遊休地と化しており距離こそ短いものの比較的痕跡というか雰囲気を味わえる廃線跡である。

宮古と言えば良くも悪くもラサ工業である。私が学生時代を過ごした山口県宇部市の宇部興産のようなものだと私は感じている。田老鉱山で産出した鉱石の集積及び精錬地として同社の中枢であったこの地には多くの関連施設があった。昨今産業遺構という言葉が市民権を得つつあるが、もう少しそういう時代が早ければ宮古にもそのような遺構がもっと残されていたかも知れない。これはかつて石炭で栄えた我が故郷の筑豊と似ているかも知れない。

宮古はラサ工業だけでなく、鉄道や道路についても三陸地方の険しい地形にまつわる深い歴史が存在し、福岡育ちの私にとっては見るもの全てが新鮮であり、歴史のロマンを感じさせてくれる街である。宮古を中心としたエリアにはこのような調査としては都合二回ほど訪れているが、私から見れば一生かかっても調査し切れないくらいのボリュームを秘めた魅力的な場所である。これからも東京は遠いが山田線を愛する身としてはやはり快速リアスで宮古入りする機会を設けたい。

そして、何度か通ったおかげで茂市とか田老とか宮古市というのも若干の違和感を覚えるし、ましてや 2010 年 1 月にはあの川井村が消滅し宮古市になるなんて仰天である。そこで慌てて川井村郷土誌を一万円の大枚をはたいて役場に直接問い合わせ購入した。まだ宮古市史すら見ていないのに。区界峠を境に盛岡市と宮古市が接するのである。以前では想像だにできなかったことである。個人的にはこの合併により歴史ある地名が失われないことを願うばかりである。

これからも二回の現地調査で得た情報を地元の方からすれば中途半端を絵に書いたようなものだとは思うが少しずつ公開していきたい。

そして最後に、『シートピアなあど』という聞き慣れない『なあど』なる言葉が登場している。また本報告書の冒頭にも "『なあど』だった ?" と書いている。地元の人からすればすぐ分かると思うが、もちろんこれはある意味を持つ方言である。地元の方も私のような他の地方の出身の方も意味をお分かりの方は是非巻末のコメント欄に書き込みをお願いしたい(もちろんご存じない方も大歓迎)。

2011 年 3 月 11 日に発生した東日本大震災により閉伊川河口付近に沿ったこの廃線跡付近も防潮堤を乗り越えた津波による甚大な被害が発生した。改めて被災した方々に心よりお見舞いを申し上げたい。

地元民ではない私も思い入れのある地だけに今回の被害状況には心を痛めるばかりであるが、津波の恐ろしさを忘れないためにも、被災者の方々にはもしかすると辛い思いをさせてしまうかも知れないが、津波が宮古の街を襲う瞬間の映像をここに紹介したい。

参考文献等

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