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古レール JR 東日本山手線【高田馬場駅】

史跡由来の駅名が地名になった駅の古レール。

2011/03/04 公開。

概要

JR 東日本山手線の高田馬場駅は 1910 (明治 43) 年 9 月 15 日の開業であり、開業より 100 年を越えた大変に歴史のある駅である。

しかし、このような長い歴史を持っているとは言え同駅を含む区間の山手線が開業したのは 1885 (明治 18) 年 3 月 1 日の国有化前の日本鉄道としての品川~赤羽間の開業まで遡り、この当時は存在していなかった駅である。

すなわち、路線の開業から 25 年後に開業した駅であり地元の請願による開業であるが、当時請願からどれくらいの期間を経て開業となるのか一般的な期間を把握していないものの、今にも増して政治家への強いパイプがあったか、鉄道誘致に熱心な地域でよく行われたように停車場用地を地元の地権者が無償で提供するなどの必殺技が繰り出されたりして開業を少しでも早くと動いたことだろう。

前述の通り高田馬場駅付近を含む現在の山手線は日本鉄道の手により建設されたが、開業後 21 年を経て 1906 (明治 39) 年 11 月 1 日に日本鉄道そのものが国有化されている。

従って同駅は国有化の 4 年後の開業となる。いくらなんでもそのような短期間で請願から停車場開業までは至らないと思われるので、日本鉄道時代からの請願であろう。

なお、駅名にもなった高田馬場とは付近にかつて存在した史跡の名称であった。駅周辺の旧来からの地名ではない。その後住居表示に伴う町名変更の際に駅周辺は高田馬場という地名になった。そして、本来の史跡周辺は西早稲田という地名となったため、現在の地名と駅名だけ見ると駅名の由来となった史跡の存在なんぞ全く気が付かない状態となってしまっている。

このように、駅名が地元の地名と異なる名称で開業した後に付近の地名のほうが駅名に合わせて変更となった例は他にも例がある。有名どころとしては、同じ JR 東日本の中央本線にある国立駅が該当する。つまり、国分寺と立川の間に駅を新設するということで国立駅となったが、これは地元のかつての地名である谷保(やぼ)ではなく、その両側の大きな市街地の地名から取ったのである。何と言うか地元はどういう心境であっただろう。そしては今となっては国立市である。素直に地名が駅名になっていれは谷保市となっていたことだろう。駅名の影響の大きさが感じられる。

また、その逆に駅名に地名を冠したものの、その後その地名そのものが消失してしまった例もある。例えば西武鉄道池袋線椎名町駅などが該当する。同駅には以下の報告書にて簡単に紹介している。

話は高田馬場駅に戻って、同駅の古レールはホーム上屋及び跨線橋に見ることが出来る。この跨線橋は隣接する西武鉄道の高田馬場駅への乗り換えに利用されており 1998 (平成 10) 年に改修されているものの、終戦直後の航空写真でも現在と同じ位置に跨線橋が確認出来るため、少なくともこの頃には既にあったと考えられる。Google Maps でも拡大して比較してみて欲しい。駅舎の大型化に伴い跨線橋はとても小さく見えるが航空写真と同じ位置と思われる。

JR 東日本山手線【高田馬場駅】航空写真(昭和 23 年撮影)

出展:国土地理院航空写真(地区:東京西北部、コース:M737、番号:69、撮影機関:米軍、撮影日:1948/01/18、形式:白黒)※管理人一部加工

ただ、竣工年は不明であることと太平洋戦争で空襲により駅舎が全焼しているとのことから、戦前からのものとすぐには断定し難いものの、個人的にはやはり戦前からのものであろうと推測している。

その理由として以下のように考えてみた。

  1. 駅舎の全焼が空襲の直撃ではなく、延焼や二次災害的な火災であれば古レール架構は焼け落ちず残ったのではないか
  2. 仮に空襲で焼け落ちたとすると、終戦直後の物資(特に鋼材)が極端に不足している状況ですぐに古レールによる跨線橋を復旧することは困難だったのではないか

そんな古レールたちを見ていく。

調査日:2009/08/13

調査結果

架構

ホーム上屋の古レールを池袋方面を向いて望む。一番手前の駅名標の付いている柱を含む手前は後年のホーム延長時のものか型鋼である。古レール架構そのものは首都圏の古レール上屋としては少数派ではないかと思われるが、曲線を一切用いず直線のみで構成されており非常にシャープな印象である。

JR 東日本山手線【高田馬場駅】ホーム上屋古レール全景

さらに池袋方を見る。跨線橋との接続部にある階段より手前が古レール架構のホーム上屋となる。それより奥は通常の型鋼による架構である。

JR 東日本山手線【高田馬場駅】ホーム上屋古レール全景

跨線橋との接続部を見る。新宿方より柱は 1 本足で続いていたが、ここで階段の間口を確保するため 2 本足と変化する。また、それに伴い梁は Y 字型に分岐している。この梁も古レールである。

また、この写真では手前の 1 本足の柱の梁との独特の形状の接合部がよく分かる。柱頭には円盤状のプレートがあるがこれは珍しい形状である。このような架構はこれまでの古レール調査では見覚えが無い。そしてこのプレートから星型(5 本)に梁が伸びている。

余談ではあるが、せっかくここで柱が 2 本足となり広い空間を確保しているのに、案内板がそれを台無しにしているように思えてならない。どうせなら手前の柱のさらに手前に設置すべきだったのではないだろうか。それとも何か意図するものがあったのだろうか。

JR 東日本山手線【高田馬場駅】ホーム上屋古レール架構

続いて跨線橋である。前述の通り近年に改修を施されているため、手前の架線柱で少々見辛いが古レールの跨線橋とは思えないようなガラス窓が側面及び屋根上の明かり取りに採用されている。なお、画面右側の建物が西武鉄道の高田馬場駅であるが、同駅の改修に合わせての改修であったようである。

また、古レール自体は何故か茶色の塗装が施されている。何故ホーム上屋と異なる塗色が選択されたのかは分からない。個人的には錆止め塗装にも見えてしまうが。

JR 東日本山手線【高田馬場駅】跨線橋古レール全景

跨線橋トラス部を見る。茶色に塗られているのはトラス部分のみであり、屋根に架かる古レールについてはホーム上屋と同様のベージュである。改修前は全てこの色だったと思われる。

こうやって見てみると、古レール架構と床版以外はすっかり作り替えられているように思える。屋根材は一見微妙であるが、前出の写真の通り明かり取りの窓が付けられていることから既存の屋根材に中途半端に穴を開けるよりもこの程度の規模であれば一気にやりかえたほうが耐用年数の延長にも寄与することも想像に難くない。

JR 東日本山手線【高田馬場駅】跨線橋古レール架構

跨線橋の下部である。床版の下の横桁ももちろん古レールであるが、ここで注目したいのは西武鉄道側の柱である。茶色の柱はこの跨線橋自体を支えているが、その両脇にあるグレーの古レールは一体何であろうか。既存の跨線橋にビルが合体してきた形であるため、かつての古レール架構の一部が内部にめり込んでいる可能性も考えられる。

前出の終戦直後の航空写真を見てみると、この跨線橋の西武鉄道側は幅が広くなっており橋上駅舎のような雰囲気になっている。かつてはこの部分に乗り換え用の改札があったのだろう。そして、このグレーの古レールはその広がった部分を支えていた架構の名残りかも知れない。

JR 東日本山手線【高田馬場駅】跨線橋古レール架構

さらに跨線橋の床版を裏側から見る。床版自体は細かな型枠の跡から改修前からのものと考えられる。画面縦方向の茶色の部分もハンチに隠れてはいるものの古レールであろう。

JR 東日本山手線【高田馬場駅】跨線橋古レール架構

跨線橋の階段下部である。画面左側が西武鉄道の駅となる。古レールの跨線橋としてはとても素直な架構である。時折結構複雑な架構を見かけることもあるが、ここではそんなこともなくホーム上屋同様シンプルな架構である。ただ、ホーム上屋の架構とは曲線を取り入れている点は大きな違いと言える。

階段部の床版に中央に縦方向のリブのような出っ張りが見えるが、この内部もトラス部の床版と同様に古レールが埋まっているようである。写真では小さく確認し辛いが中央のリブの端部にその古レールの断面が見える。改めて考えてみるとこのような階段部の床版も珍しいかも知れない。

なお、古レール刻印ハンターとしては残念であるが柱下部には保護材が取り付けられているため、刻印調査は首への負担が必須となる。

JR 東日本山手線【高田馬場駅】跨線橋古レール架構

JR 東日本山手線【高田馬場駅】跨線橋古レール架構

さらに階段下部の今度は端部である。床版の中央のリブ内には古レールが埋まっている。なぜトラス部と異なり完全に埋め込まれているのか少々不思議ではある。

ここにはこの跨線橋の竣工当時からのものではないかと考えられる倉庫がある。その木製の扉に歴史を感じる。ただ、戦災を経ているので戦後作られたものである可能性は否定できない。

しかし、この公衆電話は背の高い人にとっては少々使い辛いかも知れない。頭を激突しても大丈夫なように電話機の上の古レールにも保護材が取り付けられている。

JR 東日本山手線【高田馬場駅】跨線橋古レール架構

最後に跨線橋のトラス部の内部を見る。前述の通り屋根には明かり取りの窓が設けられている。やはり壁だけでなく屋根も改修で作り替えられたと考えられる。また、屋根を支える古レールは明かり取りの部分では何も載っていない状態で露出している。

壁も屋根もスリット状の通路方向のラインを強く意識した意匠となっており、一見すると一般的な古レールの跨線橋とは思えない雰囲気である。意匠によりいかに印象が変わるかという見本とも言える。建築の構造設計にわずかながら関わっていた身としてはむしろ意匠にあまり興味がなく、構造(架構)を隠してしまう存在として捉えてしまう傾向がある。

しかし、ここで見えるスリット状の壁材及び屋根材すなわち非構造部材を全て取っぱらってしまうと、以下にシンプルな架構かが想像できるだろう。実のところ古レールによる一見スカスカのトラスにコンクリート床版が載っているだけである。これで歩行者用としては充分な強度を確保しているのである。つくづく素晴らしいリサイクルだと思う。

JR 東日本山手線【高田馬場駅】跨線橋古レール架構

さらに明かり取り部を見る。山型に組まれた古レールのちょうど開口部の端くらいの位置に丸い穴が開けられているのが分かる。そしてそれは同じ位置に続いていることから、これはかつての屋根材を留めていた跡ではないだろうか。このことからも屋根材は全く新しいものになっていると考えられる。

JR 東日本山手線【高田馬場駅】跨線橋古レール架構

刻印

今回発見した刻印は以下の通り。

No 刻印 場所 備考
1 (S) 37 A 1930 IIIIIIIIII ホーム上屋 官営八幡製鉄、37kg / m、1930 年 10 月製造
2 OH TENNESSEE-7540-ASCE-10-1922 工 ホーム上屋 平炉製鋼法、アメリカ US スチール・テネシー社、コード番号 7540、アメリカ土木学会規格、1992 年 10 月製造、官営鉄道発注
3  A 1930 IIIIIIII ホーム上屋 1930 年 8 月製造 ※恐らく No.1 と月違いと思われる。
4 (S) ? ? 1911 XII ホーム上屋 官営八幡製鉄、1911 年 12 月製造
5 50. PS. (S). 1949. IIIII. OH 跨線橋 50kg / m、日本製鉄、1949 年 5 月製造、平炉製鋼法
6 50. PS. (S). 1950. I. OH 跨線橋 50kg / m、日本製鉄、1950 年 1 月製造、平炉製鋼法
7 50. PS. (S). 1948. IIIIIIIIIIII. OH 跨線橋 50kg / m、日本製鉄、1948 年 12 月製造、平炉製鋼法

No.1

JR 東日本山手線【高田馬場駅】古レール刻印

No.2

JR 東日本山手線【高田馬場駅】古レール刻印

No.3

JR 東日本山手線【高田馬場駅】古レール刻印

No.4

JR 東日本山手線【高田馬場駅】古レール刻印

No.5

JR 東日本山手線【高田馬場駅】古レール刻印

No.6

JR 東日本山手線【高田馬場駅】古レール刻印

No.7

JR 東日本山手線【高田馬場駅】古レール刻印

総評

実は高田馬場駅は社会人として上京した際に最初に住んだ(友人宅に居候 !)最寄り駅である。わずか数ヶ月であったことと、勤務先へは地下鉄通勤だったため実際にはこの駅の利用頻度はそれほどでもなかったが、想い出の駅のひとつである。

現在は開業が 100 年以上も前であることを感じさせるものは皆無と言えるが、せめてこの古レールについては残って欲しいと思う。今回はホーム上屋で建物財産標を発見できなかったため、ホーム上屋や跨線橋の竣工年の手がかりを得ることはできなかったのは残念である。

機会を作って懲りずに再訪して建物財産標を探し出してみたい。ただ、跨線橋において 1948 年 ~ 1950 年という比較的新しい古レールが使われていたのは意外であった。実はこれをそのまま真に受けるとこの跨線橋は戦後の竣工もしくは改修の可能性があるからである。

これは当報告書冒頭での勝手な推測と異なる。今後跨線橋やホーム上屋が写りこんだ古い時代の写真などを見つけることができればと思っている。

また、西武鉄道側からの跨線橋の柱や謎の架構の観察も行えていないため、例によって宿題だらけの報告であるが気長に取り組んでみたい。

参考文献等


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