巣鴨に出来た大塚駅の古レール。
2011/07/24 公開。
JR 東日本山手線の大塚駅は前身である日本鉄道の手により 1903 (明治 36) 年 4 月 1 日に開業している。つまり、既に開業以来 100 年以上が経過している長い歴史を持つ駅である。
同駅付近の山手線は地図で見ると分かるように池袋駅から東へ進むとジグザグに曲がっている。これは、日本鉄道時代に赤羽線と東北本線との短絡線すなわち、現在の大塚駅を含む山手線の区間は当初目白駅から分岐して田端駅へと至る計画であったのが変更になったために生じたものである。そしてこの短絡線は計画時には豊島線と呼ばれていた。
現在サンシャイン 60 となっている、かつての巣鴨監獄(戦時中は巣鴨プリズンと呼ばれた)の敷地を避けるために不自然な線形となることやそもそも目白駅が堀割区間内にあり、分岐駅として必要な広い敷地の確保が駅周辺住民の反対もあって難しい等の理由により分岐駅が現在のように池袋駅に変更されたのである。
と言っても現在は想像すら難しいが当時は池袋駅は存在せず、豊島線分岐のために現在の池袋駅地点に池袋信号所を新たに設けたのである。つまり池袋はそれが可能なくらいの平坦で広い敷地が確保可能な田園地帯だった。そして、その信号所が豊島線開業時に駅に昇格し、今回取り上げた大塚駅、また隣の駒込駅と共に開業して現在に至っているのである。そして、この豊島線の開業に合わせて既存の日本鉄道品川線と合わせて山手線という路線名称が生まれ、現在も続いている。
その開業当時の分岐点の様子が写真で残されている。撮影地点のすぐ後ろが池袋駅で北側つまり赤羽駅方面を望んでいる。現在からは想像を絶する田園地帯だったのである。直進する線路は赤羽駅へと伸びる赤羽線、右に分岐しているのが豊島線すなわち現在の山手線である。
詳細は把握していないが、この写真で見る限り豊島線は単線で開業しているものの既に複線分の用地が確保され路盤もほぼ完成しているように見える。実際に複線化されるのは 1910 (明治 43) 年 4 月 1 日なので、7 年後である。
出展:松平乘昌編『図説 日本鉄道会社の歴史』※管理人一部加工
改めて地図を眺めてみると右上の駒込駅から南西へまっすぐ伸びてきた山手線は大塚駅の東側で急に向きを北に変え、池袋駅へと続いている。確かにこれを真っ直ぐ伸ばすと巣鴨監獄さえ無ければ目白駅にスムーズに接続できそうである。この線形から当初の計画が目白駅を分岐駅としていた名残りを感じることができると言えよう。
そして、当初の目白で分岐する計画では大塚駅は当然現在の位置とは異なる位置に計画されていた。それは東京メトロ丸の内線の新大塚駅付近である。まさにその周辺の地名が本来の大塚であり、現在の大塚駅周辺の地名はそもそも巣鴨である。しかし、次第に駅周辺が大塚と呼ばれるのに合わせて地名も北大塚、南大塚と変更されたのである。
ところで、個人的には現在の池袋駅から大塚駅を経て巣鴨駅に至る線形と、目白駅から分岐して巣鴨監獄を避けた場合の線形のどちらがより不自然なものだったか非常に気になるところである。ただ、結局は分岐駅に必要な広大な土地を入手出来るか否かが池袋が分岐点となった最大のポイントだったのではないだろうか。
そんな、元々は現在と異なる位置に計画された歴史を持つ大塚駅であるが、現在は駅周辺の路盤はコンクリートの高架区間になっている。この高架橋の竣工年を把握していないが、もちろん後年のものであり恐らくは昭和になってからの構造物であろう。ただ、この高架橋は大塚駅付近のごく短い区間のみであり、恐らくは大塚駅東側の南北に貫く道路との立体交差実現のために、周辺地盤の盤下げと共に駅部分の高架化と合わせて構築されたと思われる。従って、開業時の線形とほとんど変わっていないと考えられる。
参考として 1947 (昭和 22) 年米軍撮影の航空写真を見ると、少々分かりにくいが大塚駅東側で南北に貫く道路とは既に立体交差になっている。しかし、そこから東側は路盤より幅広く築堤が見えるため、高架橋ではない。また、大塚駅西側はすぐに掘割区間となるがこれは現在も変わっていない。
出展:国土地理院航空写真(地区:東京西北部、コース:M379-No1、番号:28、撮影機関:米軍、撮影日:1947/07/24、形式:白黒)※管理人一部加工
さらに参考としてカシミール 3D にて 5m メッシュの標高データと全然イケてない電子国土地図とを重ね合わせてみてもその様子がよく分かる。大塚駅西側が掘割区間が続き、大塚駅東側の一部のみ築堤が存在している。そして大塚駅そのものは高架橋であるため、地面そのものは低いのである。
出展:国土地理院 1/25,000 地形図「東京西部」(2011/07/24 現在) ※管理人一部加工
とすれば、池袋駅への進入のためにそこそこの急曲線となっているのと前述の通り大塚駅東側で北へ向きを変えるため以外は直線であり、概ね良好の線形と言える。では、仮に分岐点が現在のように池袋駅ではなく目白駅だったとしたらどのような線形になっていたかぜひ比較してみたいが、現時点では史実を把握していないためこの場で紹介できない点がご了承頂きたい。
どなたか情報をお持ちの方はご教示頂けると幸いである。特に気になるのは前述の通り現在の東京メトロ丸の内線新大塚駅付近の高台を通っていた点である。どのように高台をクリアしていたのだろうか。
そして、そんな大塚駅には開業より後年に高架化されているにも関わらずホーム上屋に古レールが存在する。すなわち古レールの転用が終わりを告げる昭和 30 年代より前に高架化が行われたことを意味する(前述の米軍撮影の航空写真からも明らかであるが)。
調査日:2009/08/13
前述の通り大塚駅は高架橋の上にホームが存在する。近年駅改良工事などで高架化される場合は無機質でオサレな鉄骨になるケースが多いが、当駅での高架化の際はこのように古レールによるホーム上屋が造られた。それまでの地平駅から見違えるような駅に生まれ変わり、都会の駅と言った雰囲気として利用者の目には映ったのではないだろうか。
そんなピカピカの駅にさりげなく古レールが第二の人生を過ごし始めるのである。ぜひ竣工当時のホーム上屋をこの目で見てみたいと常々思う。残念ながらそれは叶わない夢であるが。
当駅のホーム上屋の古レール架構は柱二本の門型である。これが延々と続く光景は見事である。くだらなくイタいポスターが写り込んでいるのはご容赦頂きたい。
天井材は後年変えられたものと思われるが、古レール架構は門型がひたすら連続している。ただ、それぞれの門をつなぐ長辺方向の梁は存在しない。その代わりにターンバックルを用いたブレースにより各スパン間の剛性を確保しているようである。
現代の感覚からするとホームの幅はそんなに広くない。しかし、旅客の動線をなるべく邪魔しないように中央が開けた架構を採用したのだろう。中央部分の高さを強調するかのような柱のデザインも相まって狭苦しく感じさせない空間である。
地上の駅舎へ向かう階段部分も柱二本タイプであるため架構の変化無く対応している。一見当たり前のように思えるが、駅によっては階段部のみ架構が異なる場合もある。
今回発見した刻印は以下の通り。首都圏の古レールホーム上屋でのお約束通り塗装が分厚く判読には困難を伴う。不明瞭若しくは判読不可能のものもなるべく掲載した。なお、これ以上に判読が困難なものも存在している。
No | 刻印 | 場所 | 備考 |
---|---|---|---|
1 | 判読不可 | ホーム上屋 | ※判読不可 |
2 | CAMMEL (不明瞭) | ホーム上屋 | イギリス キャンメル社 |
3 | (不明瞭) I.R.J | ホーム上屋 | 鉄道作業局発注 |
4 | UNION D 08. | ホーム上屋 | ドイツ ウニオン社、1908 年製造 |
5 | (不明瞭) STEEL 1886 P (不明瞭) | ホーム上屋 | 1886 年製造 ※イギリス キャンメル社と思われる。 |
6 | CAMMELL SHEFFIELD TOUGHENED STEEL 1885 P IRJ | ホーム上屋 | イギリス キャンメル社、強化鉄(※商品名)、1885 年製造、鉄道局発注 |
7 | 判読不可 | ホーム上屋 | ※判読不可 |
8 | (S) NO 60 A 1908 IV | ホーム上屋 | 官営八幡製鉄、60LbS / yd、1908 年 4 月製造 |
9 | 6 MARYLAND XII 03 NTK | ホーム上屋 | アメリカ メリーランド製鋼社、1903 年 12 月製造、日本鉄道発注 |
10 | CARNEGIE 1905 ET I N T K | ホーム上屋 | アメリカ カーネギー社、1905 年 1 月製造、日本鉄道発注 |
11 | 判読不可 | ホーム上屋 | ※判読不可 |
12 | CARNEGIE 189? ET IIIIIIIIII | ホーム上屋 | アメリカ カーネギー社、189? 年 10 月製造 |
13 | CAMMEL (不明瞭) | ホーム上屋 | イギリス キャンメル社 |
14 | (不明瞭) 1902 N T K | ホーム上屋 | 1902 年製造、日本鉄道発注 |
15 | CARNEGIE (不明瞭) | ホーム上屋 | アメリカ カーネギー社 |
16 | UNION D 1887 N.T.K. | ホーム上屋 | ドイツ ウニオン社、1887 年製造、日本鉄道発注 |
17 | CARNEGIE 1907 ET IIIIIIIIIII | ホーム上屋 | アメリカ カーネギー社、1907 年 11 月製造 |
18 | 判読不可 | ホーム上屋 | ※判読不可 |
19 | UNION D (不明瞭) | ホーム上屋 | ドイツ ウニオン社 |
20 | UNION (確認不可) N.T.K. | ホーム上屋 | ドイツ ウニオン社、日本鉄道発注 |
21 | 判読不可 | ホーム上屋 | ※国産か ? |
22 | 判読不可 | ホーム上屋 | ※判読不可 |
23 | (S) NO 60 A 1908 V | ホーム上屋 | 官営八幡製鉄、60LbS / yd、1908 年 5 月製造 |
24 | CAMMEL (不明瞭) | ホーム上屋 | イギリス キャンメル社 |
25 | CARNEGIE 1907 ET IIIIIIIIII I R J | ホーム上屋 | アメリカ カーネギー社、1907 年 10 月製造、鉄道局発注 |
26 | CAMMELL SHEFFIELD TOUGHENED STEEL W.1888.SEC (不明瞭) | ホーム上屋 | イギリス キャンメル社、強化鉄(※商品名)、1888 年製造、セクション番号不明 |
27 | CARNEGIE 1907 ET (不明瞭) | ホーム上屋 | アメリカ カーネギー社、1907 年 ? 月製造 |
28 | (不明瞭) MARYLAND (不明瞭) 07 工 | ホーム上屋 | アメリカ メリーランド製鋼社、1907 年 ? 月製造、官営鉄道発注 |
29 | CARNEGIE (不明瞭) ET I N. T. K. | ホーム上屋 | アメリカ カーネギー社、???? 年 1 月製造、日本鉄道発注 |
30 | UNION D 1887 N.T.K. | ホーム上屋 | ドイツ ウニオン社、1887 年製造、日本鉄道発注 |
31 | CARNEGIE (不明瞭) | ホーム上屋 | アメリカ カーネギー社 |
32 | (S) NO 60 A 1914 VII | ホーム上屋 | 官営八幡製鉄、60LbS / yd、1914 年 7 月製造 |
33 | (不明瞭) STEEL (不明瞭) K.T.K. | ホーム上屋 | ※K.T.K. は N.T.K.(日本鉄道) か ? |
34 | CARNEGIE 1905 ET I N T (不明瞭) | ホーム上屋 | アメリカ カーネギー社、1905 年 1 月製造、日本鉄道(NTK)発注 ? |
35 | CARNEGIE 1905 ET I N T K | ホーム上屋 | アメリカ カーネギー社、1905 年 1 月製造、日本鉄道発注 |
36 | (不明瞭) STEEL (不明瞭) | ホーム上屋 | ※判読不可 |
37 | CAMMELLS・ TOUGHENEDSTEEL. W. 1888.SEC.131.I.R.J. | ホーム上屋 | イギリス キャンメル社、強化鉄(※商品名)、1888 年製造、セクション番号 131、鉄道局発注 |
38 | UNION D 1887 N.T.K. | ホーム上屋 | ドイツ ウニオン社、1887 年製造、日本鉄道発注 |
大塚駅は近年実施された駅改良工事により、以前とは打って変わって南北自由通路も生まれ小綺麗な駅へと変貌した。しかし、その影で失われた南口駅舎は山手線に残る貴重な木造駅舎であった。そもそも山手線の北半分にあまり馴染みが無いこともあって、そのうち改めて見に行こうなどと呑気に考えていたら、すっかり撤去されてしまった。
現在山手線内での木造駅舎と言えば原宿駅くらいしか残っていないのではないだろうか。つくづく思うが、このような歴史的建造物の現地調査は『思い立ったが吉日』である。
現在はどちらかと言えば山手線内でもマイナーなイメージのある大塚駅であるが、豊島線として計画された当時とは別の位置に建てられるとか、そもそも山手線という路線名称が生まれたと同時に開業した駅だったりと興味深い歴史を持つ駅である。
今後も引き続き豊島線については特に計画時は竣工当時の史料をもっと調べてみたい。