駅本屋も古レール。
2010/02/26 公開。
吉原本町駅に続く岳南鉄道の古レール調査報告書の第二弾である。と言っても同鉄道での駅における古レール構造物の調査は私の把握する範囲ではこれで全てである。つまり他の全ての駅において古レールを見つけることができなかった。
ただし、踏切及び敷地境界柵には一部古レールが用いられている箇所があることは確認している。これらについては全て網羅することは不可能であったため、調査報告書としてとりまとめることはできないが、同鉄道では終点の岳南江尾駅から吉原本町駅まで沿線を徒歩で訪ね歩いたので、別途訪問記として紹介することとし、その中でこれらの古レールについても簡単に触れたいと思うので例によって気長にお待ち頂けると幸いである。
吉原駅は現在では JR 東海管轄区域である天下御免の東海道本線の駅として鈴川駅の名で 1889 (明治 22) 年 2 月 1 日に開業した静岡県内でも最も古い部類の長い歴史を持つ駅であるが、岳南鉄道が 1949 (昭和 24) 年 11 月 18 日に乗り入れている。その当時は冒頭に紹介した吉原本町駅までの 2.7km という距離での開業であった。
つまり、同鉄道の古レールは路線開業当時の両端の駅にのみ残されているということになる。その後、1956 (昭和 31) 年 4 月 10 日に旧国鉄及び岳南鉄道鈴川駅から吉原駅に改称し現在に至っている。
当報告書ではこの同駅のうち岳南鉄道としての範囲についてのみ取り扱う。その上で古レールが使用されている箇所としては JR のホームから岳南鉄道へ連絡する跨線橋及び駅舎、つまりは駅本屋に使用されている。そして意外な事にホーム上屋は岳南鉄道オリジナルとも言える独特のデザインの鉄骨による架構が見受けられるものの、古レールは存在しない。
調査日:2007/11/23、2009/08/08
同駅は JR 東海、JR 貨物、岳南鉄道の三社が使用する駅であるが周囲を工場に囲まれていることもあり、列車の発着時以外はどちらかと言えば閑散としている駅である。岳南鉄道としても全線が単線であることからもそもそも小規模駅の雰囲気と言えるかも知れない。
しかし、私のように古レール調査を行う身からすると岳南鉄道としての同駅は魅力溢れる駅である。古レールの最もポピュラーな利用先であるホーム上屋には一切古レールが存在せず、跨線橋と駅本屋のみが対象であるという意外性もさることながら、特に駅本屋はオリジナリティが炸裂している。
まずは跨線橋から紹介したい。何はともあれ私自身が最も気に入っている写真からである。JR のホームより見た跨線橋全景である。線路 4 本を跨ぐ堂々たるものである。跨線部の途中に中央ではなく岳南鉄道側に偏った位置に支柱のある点が特徴である。
なお、奥に見えるのは JR の駅本屋へ向かう跨線橋である。
上の写真では強烈な西陽による影もあり、くたびれたような印象に見えてしまうため晴天時の跨線橋全景も紹介したい。随分な違いがあるが、実はこれらの写真には冒頭の調査日の通り約一年の時差があり、その間に塗装が行われたようである。
同じく JR のホームより跨線橋を望む。今度は逆向きである。奥に見える緑色の車両が岳南鉄道のものである。また右下には都心ではなかなかお目にかかれないワムが待機している。
跨線橋自体は古レールの架構に木材による壁が付随している様子が分かる。また、東海道本線の架線がギリギリの高さで取り付けられている。このことからこの跨線橋は電化以前より存在すると勝手に推測している。なお、東海道本線のこの区間の電化は 1948 (昭和 24) 年であるため、もしかすると、戦前の構造物かも知れない。
今度は岳南鉄道側から見た西陽バージョンの全景である。手前に架線柱があるため、跨線橋自体が少々確認し辛いが、JR のホームの柱周辺には柵が張り巡らされ、残念ながら刻印調査は不可能である。
また、左側に写っている茶色の建物が岳南鉄道の駅本屋である。ちなみにこの駅本屋の古レールが既に若干写りこんでいるが、お分かりになるだろうか。これで分かる方は相当の観察眼である。詳細は後ほど触れたい。
もう少し接近してみる。これくらいの距離になると古レールと木材の組み合わせの様子がよく分かる。また、先程の柵のおかげで古レール調査としては残念な状態となっているのも一目瞭然である。
また、ほぼ中央付近に蛍光灯が取り付けられているがこれは珍しいと思う。貨物の入換用であろうか。
しつこいが、さらに接近する。トラスの部分は全て古レールであり、床版がコンクリートであることが分かる。コンクリートは一部に欠損も認められ、結構な年代物であることが伺える。
古レール調査報告書としては全く無関係であるが、この跨線橋から西陽を望む。私の写真の腕前では伝えられないが、しばし見惚れる美しいものであった。
内部は屋根部分に古レールが露出している。なお、夕暮れ写真を撮影した時は開口部に建具(ガラスサッシ)は無く、塗装を含めた補修の際に取り付けられたようである。それまでは風を伴なう雨の時など大変だっただろう。また、そのせいもあってだいぶ汚れていたのではないだろうか。
JR 側の階段部より岳南鉄道側を望む。というより富士山を望む。開口部にはガラスがあるため見辛い写真となっているがご容赦願いたい。また、少々見えにくいが架線のギリギリさはカテナリー線が跨線橋の真下に向かって下がっていることからも分かる。
再び逆側であるが塗装後である。コンクリート床版はグレーに塗装され、断面欠損も補修されているようである。これでこの跨線橋は当分の間活躍することが保証されたことになり、喜ばしい。
また、岳南鉄道側の柱の足元には柵が無いことも分かる。
跨線部の床版を見上げる。床組としての古レールの架構は極めてシンプルであり、コンクリート床版は鉄筋が含まれており、それ自体で充分な強度を確保していると推測される。余談であるが、元構造設計に関わっていた人間としては床版よりもスラブという表現のほうが自然である。
次に駅本屋である。全景だけ見るとどこに古レールが利用されているのか判別が難しいが、これからじっくり解説していきたい。その前に右端に写り込んでいる跨線橋はこの駅本屋に直接接続されているのも少々珍しい形態かも知れない。
実はこの駅本屋は柱や梁といった基本的な構造部材がそもそも古レールなのである。この写真では最も左側のホームに接する側の妻面の柱に注目して頂きたい。またトタンの壁の途中から雨どいのように見える白い部材も古レールである。頂部のケースのようなものの高さが左側の妻面の柱が折れている高さと等しいことからもそれと分かる。
つまり、全体が古レールで構成されており、それに壁というか仕切りを設けて部屋としているのである。元構造屋としては、ブレース(筋交い)は無くて大丈夫なのかと少々心配してしまう。
まずは先程の妻面の架構である。ギャンブレル屋根のような外周と中央に Y 字型の柱が古レールである。そのつもりで改めて見ると手前側にかなり錆びた色の古レール柱があるのがお分かり頂けるだろう。
その錆びた古レール柱である。鉛直部は古レールが二本使用されており、斜めの部分から一本になっている。はっきり言って個人的には不自然である。この不自然さについては後ほど考察してみたい。
次に雨どいのように見える古レールである。写真でも壁からはみ出しているのが僅かであるため一見そうと分かりづらいが、これも古レールなのである。これも不自然な気がする。また、そういう目で見れば壁を覆っている木目調のトタンも少々手抜き感が拭えない(失礼)。
また、ホームの曲線にあわせて駅本屋自体も途中でくの字に折れている。
ホーム寄りの妻面を駅本屋内部から望む。先程触れた通りギャンブレル屋根のような形と中央の Y 字型をなす古レールが確認出来る。先程の写真より野ざらしの部分の古レールがかなり錆びていたが、それ以外の箇所についてはピンクの塗装で保護されているようである。
またホーム上屋は細い鋼管を用いた独特のものであり、こちらは後年設置されたものと思われる。なお、このホーム上屋の架構は岳南鉄道の他のいくつか(と言うよりほとんど)の駅でも同様のものが見られる。ホーム上屋の上部の緑色に写っている部分は西陽と雨対策のものであろう。
同じ場所を異なるアングルで見る。強烈な逆光であったため、編集で輝度を上げたため画質が劣化しているがご容赦願いたい。この写真からは屋根の架構は木材で構成されていること、つまりは長辺方向は屋根の木材だけで接続されているらしいこと、また何故か中央の Y 字型の古レール柱の鉛直部のみに塗装が施されていることが分かる。
Y 字型の古レール柱の上部を見る。塗装の途切れ具合いや屋根のシンプル極まりない構造が確認出来る。
駅本屋内部を振り返る。塗装で施されている古レール柱が連なっているのが確認出来る。天井や壁があるためそれ以外の古レールは全く見ることができないが、妻面以外には Y 字型の柱が無いように見受けられるが、前掲の写真から右側の部屋の内部に位置していると思われる。
反対側つまり跨線橋側の妻面を望む。跨線橋同様古レールの架構と木材による壁との組み合わせである。こちらの方が古レールの架構は把握しやすい。ただ、この木材の壁であるがやはり不自然に思える。右側の庇部分も木材であるが、色褪せ具合いが異なるように見えることと、外壁としてこのような構造が一般的とは思えないからである。
また、古レール自体は反対側の妻面同様というよりも Y 字型の部分も含め何故か全く塗装がされていない。跨線橋の古レールとの待遇の差が著しい。
Y 字型の古レール柱の上部を見る。個人的には木材が色褪せ具合いから比較的近年取り付けられたように見えなくもないが真相は不明である。ただ、Y 字型の柱の鉛直部の木材を留めるためのボルト部分に改めてケレンを行ったようにも見えるためやはり怪しい。
同じ妻面の線路側の端部である。驚くべきことに端部の木材の柱は古レールの腰折れ部より上部のみなのである。また水平方向の木材がトタンの端を押さえているため、やはりこの壁面は後年の設置と考えられる。
いずれにしても何か不自然で不思議な駅本屋である。
何よりも種類の豊富さに驚かされる。私は現地調査の際には時間節約のため、あまり内容を深く吟味せずに帰宅後写真を頼りに刻印を調べるという手抜きスタイルであることから、当報告書執筆時点で当サイトの初出の製造元のものもある。
この勢いであればこれら以外にもまだまだあるかも知れない。ご存知の方は情報等頂けると幸いである。
No | 刻印 | 場所 | 備考 |
---|---|---|---|
1 | G.H.H.1921 | 跨線橋 | ドイツ、グーテ・ホフヌングス製鉄所、1921 年製造 |
2 | OH TENNESSEE-6040-ASCE-?-1922 工 | 跨線橋 | 平炉製鋼法、アメリカ US スチール・テネシー社、コード番号 6040、1922 年 ?? 月製造、官営鉄道発注 |
3 | OH TENNESSEE-6040-ASCE-10-1922 工 | 駅本屋 | 平炉製鋼法、アメリカ US スチール・テネシー社、コード番号 6040、1922 年 10 月製造、官営鉄道発注 |
4 | TOUGHENED STEEL | 駅本屋 | ※恐らく CAMMELL と思われる |
5 | CAMMELL SHEFFIELD TOUGHENED STEEL W.1888.SEC (以降確認不可) | 駅本屋 | イギリス キャンメル社、強化鉄(※商品名)、1888 年製造、セクション番号不明 |
6 | CAMMELL・S TOUGHENEDSTEEL.W.1888 SEC351 K.T.K | 駅本屋 | イギリス キャンメル社、強化鉄(※商品名)、1888 年製造、セクション番号 351、川越鉄道 or 関西鉄道発注(?) |
7 | OH TENNESSEE-60(以降確認不可) | 駅本屋 | 平炉製鋼法、アメリカ US スチール・テネシー社、コード番号 60(40?)、(以降確認不可) |
8 | 60A B S.CO STEELTON (以降確認不可) | 跨線橋 | 60LbS / yd、アメリカ ベスレヘム・スチール社スチールトン、(以降確認不可) |
9 | STEELTON IIIIIIIIIII 1919 OH 60LBS A S C E | 跨線橋 | (60LbS / yd、アメリカ ベスレヘム・スチール社スチールトン)、1919 年 11 月製造、平炉製鋼法、 |
10 | THYSSEN (不明瞭) 60 LbS ASCE - IJGR | 跨線橋 | ドイツ、ティッセン社、(※恐らく製造年)、60LbS / yd、アメリカ土木学会規格、鉄道省発注 |
11 | LACKAWANNA 600 8 1913 | 跨線橋 | アメリカ、ラッカワンナ鉄鋼会社、(※ 600 の意味は不明)、1913 年 8 月製造 |
12 | B. V. G. BOCHUM. 1923. | 跨線橋 | ドイツ ボーフム社 1923 年製造 |
13 | KROLHUTA 1926 M □(12?) | 跨線橋 | ポーランド、クロレウスカ・フータ社、1926 年 12(?) 月製造、ジーメンス・マルチン製鋼法 |
14 | (S) 60 A (以降確認不可) | 跨線橋 | 官営八幡製鉄、60LbS / yd、(以降確認不可) |
15 | UNION 07. 工. | 跨線橋 | ドイツ ウニオン社 1907 年製造、官営鉄道発注 |
16 | (S) 60 A 1920 XII ※不明瞭 | 跨線橋 | 官営八幡製鉄 1920 年 12 月製造 |
当報告書では吉原駅のうち岳南鉄道部分のみ取り上げた。ただし、跨線橋は JR 側の財産の可能性もあるがここでは岳南鉄道の所属とした。
実際調べてみると、前述の通り意外にも数多くの製造元の古レールが存在し、驚きである。特に跨線橋にその傾向が見受けられる。さすがは天下の東海道本線の駅と言う事で、各所から多くの古レールが流通しやすかったのかも知れない。
また、本文中で触れた駅本屋の不自然さについて少々考察してみたい。私の仮設はこの駅本屋は竣工当時と現在とでは大きく異なるものとなっているのではないかと言うものである。
まず、1952 (昭和 27) 年米軍撮影の同駅周辺の航空写真を見ると、ホームは現在と同様の位置と長さと思われるが駅本屋と思しき屋根が現在よりも遥かに長く、現在の JR の駅前の広場付近まで伸びている。
そもそも岳南鉄道は現在でも貨物輸送を行っており、かつてはさらに多くの貨物を取り扱っていたと考えられることから、この長い屋根は駅本屋及び貨物上屋の屋根ではないだろうか。そしてその北側には貨物用の引込線のようなものが確認出来る。
出展:国土地理院航空写真(地区:吉原、コース:M198、番号:119、撮影機関:米軍、撮影日:1952/11/11、形式:白黒)※管理人一部加工
なお、この航空写真は以下の URL からも確認できるのであわせてご覧頂きたい。
次に昭和 50 年度撮影の航空写真を見ると、上屋全体の長さは半分くらいになっており、撤去されたとあたりには新たな広場のようなものが出来ている。ここは現在駐車場となっている場所と思われるが、現在よりは狭いようである。あわせて貨物用の引込線も撤去されているように見える。ただしこれは確証は無く、短くなっただけかも知れない。
また、JR との跨線橋も先程の航空写真には無かったがこちらにはあるため、以外に戦後に作られたものであることが分かる。また、その跨線橋を岳南鉄道側に渡ったところにはまだ上屋がある。まるで、跨線橋が上屋にめり込んでいるようである。これではまるで跨線橋というより荷物用のテルファーのようである。現在は跨線部を過ぎると直角に曲がって階段を下りるまで上屋は無い。
出展:国土交通省 国土画像情報(カラー写真) 整理番号「CCB-75-31」(S50 撮影)※管理人一部加工
なお、この航空写真は以下の URL からも確認できるのであわせてご覧頂きたい。
最後に最新のオンライン地図(Bing Maps 画像)であるが、地方ということで更新が追いついてないのか現実とは異なり、昭和 50 年度撮影の航空写真のままのように表現されている。跨線橋の位置と岳南鉄道の駅本屋の位置関係に注目頂きたい。
比較のために Google Maps の画像ではなく地図そのものも掲載する。こちらはさすがというか現在の駅本屋の形状に最新化されている。
以上より、開業当初の岳南鉄道としての吉原駅は現在の旅客ホームの北側に貨物用引込線があり、それが現在の JR の駅本屋近くまで伸びておりそれに沿う形で貨物ホーム及び上屋が存在していたが、貨物取扱方法の変更その他の事情により引込線が撤去され、それに伴い貨物ホーム及び上屋が撤去されたのではないだろうか。
ただ、それにしても何故外周部の古レール柱が二本から一本になるところの処理がただ、レールを切断しただけのような簡単な処理のままなのかという疑問は残ったままである。
この辺りの経緯は航空写真等による机上調査のみに基づく全くの推測であり、現地ではこのような観点での調査を行っていない。ということはまた得意の宿題ができたということである。
どなたか情報をお持ちの方はコメント等頂けると幸いである。