御坊の発展の歴史にとって、切っても切れない鉄道である。
2008/06/15 全写真のサイズを統一(一部縮小)しました。
2007/09/21 公開。
ここからがいよいよ本題の廃止区間である。冒頭で取り上げた旧版地形図である。西御坊駅から南には今回の調査対象である日高川へ向う本線と大和紡績(ダイワボウ)へ向かう専用線が描かれている。
また、御坊市街が概ね線路の西側で食い止められている、もしくは市街地の縁を線路が通っている様子が見て取れる。
廃止区間の中程に存在し、この区間の廃止よりも先に廃止された日の出紡績駅までとしたい。この駅については正確な位置が特定できていないがおおよそ下の赤丸付近であったようである。
出展:国土地理院 1/25,000 地形図「御坊」(S43/07/30 発行)※管理人一部加工
西御坊駅からは廃止区間を見渡すことができる。ここではせっかくなので敢えて停車した車両の中からの眺めをご紹介し、現在線と廃止区間との境目の独特の雰囲気を味わって頂きたい。
本線の廃止区間は見てのとおりレールもそのまま一直線に残されている。今回の調査はこれに沿って実施した。ダイワボウへの専用線は画面右側に駐車場となっている部分に敷設されていた。
第一巻の最後の写真で左側のコンクリートブロック塀が末広がりになっており西御坊駅より分岐していたことが分かる。恐らく駅構内(プラットフォーム中程)での分岐であったと思われる。この専用線については今回は未調査である。
レールや枕木も本当にそのままである。路盤というよりは地面そのものという雰囲気である。
上の写真で線路のすぐ左側の建物の手前で小さな川を越えるが現在は橋桁は撤去され、橋台のみが両岸に残されている。橋梁名は減手地では確認不可能であった。机上調査でも未判明である。
さらに、現地では気がつかなかったが写真をよく見ると川の中央にも橋脚跡と見られる構造物が残っているようである。恐らく二径間のトラフガーダだったのではないだろうか。
橋梁跡を 50m 程過ぎると、小道との踏切跡にたどり着く。レールはそのままにアスファルトが被せられている。
この踏切跡から西御坊方面を振り返る。まさに人家の裏をかすめて走っていたのである。写真では小さくて分かりくいが西御坊駅の車止めも見える。地図で見る通り 500m 以上の直線が見渡せる。
この踏切跡より南東方向へのカーブに差し掛かる。一応立入禁止なのだが線路上には物が置かれ、また容易に敷地内に入れるため今回は立ち入らせて頂くことにした。
カーブは旧日高川駅の方向を向くまで続く。当然だがカントもしっかり残っている。
ここで、見えなくなってしまう前に西御坊方面を振り返る。乾いた風景である。
カーブはまだまだ続く。人家がぎりぎりまで迫ってきているが線路脇は植木が増え、何というか生活感のある佇まいである。
上の写真にも写っている踏切跡である。線路にそのままアスファルトをかぶせているので、もし仮に復旧するとしても比較的容易ではあるが保線状態が良くないため結局大工事になるだろう。
微妙に粗大ゴミのたまり場にもなっている。
踏切を過ぎると用水路を跨ぐ橋が現れる。生活道路になっているらしく、どこからか集められた鉄板で歩きやすくなっている。何となくびびりながら渡ったため橋梁名及び構造の確認を失念した。しかし規模や他の橋梁を意識すると、ここもトラフガーダだと考えられる。
橋梁を過ぎると程無く広い道路との交差点に出る。写真では分かりにくいかも知れないが何気に四差路であり突然やたらと広い空間が現れる。
ど真ん中に電柱が立ち、線路の右側には謎のコンクリート構造物が存在している。左側にもコンクリートの基礎のようなものがある。しかし、ここも線路及び周辺一帯にそのままアスファルトが被せられているため、これらの構造物の由来を地面の様子から推察するのは困難になってしまっている。
ちなみにここはこのページの冒頭で述べた日の出紡績という駅跡と思われる地点である。この駅は戦前に廃止されているため既に 60 年以上が経過しており現地からかつての駅の様子を想像するのは無謀かも知れないが大胆に試みてみたい。
まず左側の軽トラックが止まっている場所がかつての駅本屋の跡であり、右側のごついコンクリートの塊がホームの遺構ではないだろうか。とは言ってもそうするとホームの有効長が短すぎるかも知れない。
ここで、この交差点より西御坊方面を振り返る。本当にここを列車が通っていたのかと疑いたくなるような空間である。江ノ電のような雰囲気である。
再び駅跡に戻る。ごついコンクリートは自転車との対比でお分かりのように非常に短い。また、線路と平行していないことからやはりホームの遺構と捉えるには苦しいかも知れない。
電柱はコンクリートであることから廃止後に設置されたと考えられるため判断材料にはならないのではないだろうか。その根拠はごついコンクリートの一番手前にある切り株が昔懐かしい木造電柱跡だと思われるからである。
また右下のボルトが残された基礎はこれより手前に道路が交差しており、恐らく踏切に関連するものと思われる。そして写真で初めて気がついたがごついコンクリートの塊の右下に敷地境界標とおぼしきものがめり込んでいるが後年設置された鉄道とは無関係のものかも知れない。
コンクリートの塊の先には古レールで組まれた柵があり、色から考えて踏切関連の様相である。が、柵の手前の一連の構造物は一体何がどうなっていたのかさっぱり理解できない。
なぜ古タイヤがあるのかも謎と言えば謎ではあるが。
なお、この古レールには刻印があり『1906 ? ? ||||||| 』とあった。1906 年 7 月製造と思われる。そう、101 年前のレールである。製造業者の特定は難しい(見る人が見れば分かるかも知れない)がロマンを感じさせる。どこから来たレールだろうか。
交差点全体を逆方向(西御坊方面)に振り返って俯瞰してみる。制御箱というか金庫もそのまま残されている。右側の空き地はやはり駅本屋の跡地といってもいいくらいのスペースがある。
だが金庫の向こう側、つまりコンクリートの塊側にもそこそこの空き地がある。一体駅としてはどうなっていたのだろう。
ここで、第一巻で使用した昭和 50 年撮影の航空写真をよく見ると以下のようになっており、今軽トラックが止まっている空地には民家とおぼしきものが立っていたようである。またそれは線路からあまり離れていないようにも見えるが細いホームなら存在したかも知れないような隙間があるようにも見える。
仮にそちら側には駅に関するものがなかったとすると、反対側の空き地に駅本屋及びホームがあった可能性もある。推察ではあるがここは交換設備があったとは考えにくく相対式ホームではなかったと思われる。
社史などを調査できていない(あるのか ?)ため、今のところこれ以上は把握できずじまいである。
出展:国土交通省 国土画像情報(カラー写真) 整理番号「CKK-75-14」(S50 撮影)※管理人一部加工
また、この交差点の日高川方には反対側同様に踏切関連と思われるコンクリート基礎が残されている。転がっている木材は恐らく線路内への立ち入り禁止の柵のなれの果てではないだろうか。
上の写真に移っている赤い車の右側には立派な煉瓦塀が残されているが、これはここに駅があった所以である『日の出紡績』という会社の工場跡地である。オランダ積みが美しい。この工場はこの写真で写っているよりさらに奥まで敷地が広がっていたようで、この道沿いにこの煉瓦塀が散見された。
かつてはこの工場への通勤でここにあった駅も賑わっていたのである。現在からは想像できない光景だったのだろう。
第三巻へ続く。