御坊の発展の歴史にとって、切っても切れない鉄道である。
2009/06/28 動画コンテンツを追加しました。
2008/06/15 全写真のサイズを統一(一部縮小)しました。
2007/09/15 公開。
紀伊半島。日本で最大の半島であるが、あまりに大きすぎて半島というよりは紀伊半島という地方のように感じている人もいるだろう。いわゆる太平洋ベルト地帯からは離れた場所にあるこの半島を全国区にしているのは恐らく台風だろう。毎年台風シーズンになるとこの半島を耳にするのではないだろうか。年間降雨量は全国トップレベルである。
また、近年では世界遺産となった熊野古道も知名度向上に一役買っているであろう。
古くは紀伊国と呼ばれ、現代においては紀州と呼ばれる地域はこの半島の南西部を占めている。そして、紀伊半島は全体的に山が海まで迫り地形的に険しく、海岸線は三陸同様リアス式海岸となっている。
この紀州の中ほどの海沿いに御坊という珍しい地名の市がある。現在は人口三万人未満ののどかな田園風景の残る静かな街であるが、かつては繊維業や林業で和歌山県下で随一の活気を誇る街であった。
御坊の中心部は沿岸部に位置しており、この地を通る鉄道として 1929(昭和 4)年に紀勢西線の御坊駅として開業したものの、街から離れた内陸に建設され街として鉄道の便利さを享受できない状況となったのである。よくある『鉄道忌避伝説』はここにもあったのだろうか。
しかし、活況に沸く御坊の有志が自分たちの鉄道敷設を早くから画策し、何と、紀勢西線御坊駅の開業を遡ること 2 年の昭和 2 年には既に自分たちの手による鉄道敷設の申請を行っているのである。そして 1931(昭和 6)年には御坊臨港鉄道として御坊~御坊町(現:紀伊御坊間) 1.74km のささやかではあるが開業させている。
これは当時県内でも有数の工業地帯であったにも関わらず、また紀勢西線の街の中心部への誘致も聞き入れられずに郊外に大きく外れ、特に貨物輸送の近代化から取り残されることを危惧した結果であった。言い換えれば鉄道の持つ利点に着目した結果でもあったと言えよう。
翌年には既に現在の終点である松原口(現:西御坊)までの延伸を果たし、さらに二年後の 1934(昭和 9)年にはさらに沿岸部の日高川まで延伸することにより 3.4km を全通させている。これにより御坊の主産業である林業と紡績業の発展に大きく寄与することとなった。
たかが 3.4 km ではない。街の発展を願い自らの手により開通させた結晶と呼ぶにふさわしい鉄道である。少しでも早く開通させるために面倒な国からの補助等を一切断ったという。それだけの財力が御坊にはあったのである。
日高川までの全通時には街を挙げての大変な賑わいとなり、祝賀の号砲まで上がったそうである。
ちなみに、このような近代の歴史を調査している時にいつも思うことだが、現代社会においてそれこそ街を挙げての祝賀ムードというものはなかなか味わえなくなってしまったものの一つではないだろうか。一度でいいから地域の皆が将来の発展を願い心から喜ぶという空気に包まれてみたい。かなり難しいとは思うが。
程無く戦時色の高まりに伴う軍部の指示による隣接駅の廃止、戦後の御坊の産業の衰退やそれに伴う数々の出資者の撤退、沿線のモータリゼーションの進展、また 1953(昭和 28)年の集中豪雨により日高川が氾濫しほとんどの路盤の流出する等数々の困難の末、苦しくなった経営状態に転機が訪れたのは開業から 40 年余り経た 1972(昭和 47)年のことであった。
ある意味、ここからが紀州鉄道をして紀州鉄道足らしめる出来事だったと言える。
東京に籍のある磐梯電鉄不動産が約 1 億円で総発行株数の約半分を取得し事実上買収したのである。そして翌年社名を歴史ある『御坊臨港鉄道』から『紀州鉄道』という壮大なものに変更した。これにより御坊臨海鉄道は事実上は不動産会社の傘下に入ったが、社名としては元々の不動産会社が鉄道会社となり、その不動産部門に変身したのである。
この一見奇妙な買収により磐梯電鉄不動産は鉄道会社そのものとなり、社会的信用を獲得することに成功し、また御坊臨海鉄道としては大企業に収まることにより現在も赤字であるにも関わらず存続が可能となったのである。
関係者ではないので結果から想像するに、ちょっとビジネスライクに言えば両社にとって Win-Win の買収劇だったと言えるのではないだろうか。
しかし、赤字であることには変わりはなく経営努力も行われている。特に利用者の少なかった、末端部分の西御坊~日高川及びダイワボウ専用線を廃止し合理化を図ると共に、新駅の設置や運転本数は 1 時間に 1 ~ 2 本の確保等を実施しニーズに応えている。
今回、今夏で運転終了となった「きのくにシーサイド号」の乗車の機会に恵まれたため、絶好の機会と捉えこの廃止区間の現地調査に御坊へと向かった。
調査日:2007/08/05
年月日 | 事象 |
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1931/06/15 | 御坊~御坊町(現在の紀伊御坊)間が開業。 |
1932/04/10 | 紀伊御坊~松原口(現在の西御坊)間が開業。 |
1934/08/10 | 西御坊~日高川間が開業し全通。 |
1941/12/08 | 不急不要駅として財部駅、中学校前駅、日の出紡績駅廃止。 |
1955/06 | 大和紡績への専用線開業。 |
1957/10/01 | 市役所前駅新設。 |
1973/01/01 | 御坊臨港鉄道から紀州鉄道に社名変更。 |
1979/08/10 | 中学校前駅跡近くに学門駅新設。 |
1984/06 | 大和紡績への専用線廃止。 |
1989/04/01 | 西御坊~日高川間が廃止。 |
調査対象周辺の地形図である。日高川河口付近に形成された御坊市街とそこへ延びる紀州鉄道(旧御坊臨港鉄道)の位置関係が見て取れる。
この地図で廃止区間(未調査)と書かれたダイワボウ専用線については、帰宅後に存在を把握した(!)ことと現地での調査時間が限られていたため宿題となった。
出展:国土地理院 地図閲覧サービス(試験公開) 1/25,000 地形図「御坊」坊」※管理人一部加工
昭和 50 年に撮影された航空写真では上の地形図で示した廃止区間が現役であるため、線形や駅施設等の存在が確認できる。
ちなみに、Google Earth では当地域の高解像度画像は残念ながら存在しない。
今回調査を実施した廃止区間はわずか 0.7km であるが、実はこの区間が廃止になる前に既に廃止になった途中駅が存在する。御坊の発展の一翼を担った日の出紡績社の工場のそばにあった、その名も日の出紡績駅である。下に示した吹き出しの引き出し線の右下あたりに工場があったようであり、この工場の廃止と運命を共にしたようである。
この工場についての廃止時期は現時点では把握できていないが、リンク先の近畿地方整備局和歌山港湾事務所の紹介記事では工場の敷地内にあった煙突が昭和中期に取り壊されたとあるため、戦前には廃止された可能性がある。
出展:国土交通省 国土画像情報(カラー写真) 整理番号「CKK-75-14」(S50 撮影)※管理人一部加工加工
順番が前後してしまうが、紀州鉄道の全体像を昭和 41 年発行の旧版地形図で俯瞰してみる。お分かり頂けるだろう、紀勢本線御坊駅は日高川河口にある御坊市街から大きく外れた場所にあり、そこから御坊市街や産業の拠点であった日高川河口付近までの貨物輸送の使命を受けこの鉄道が開通したのである。
そして、延長 3.4km 全線が単線である。しかし、その途中には両端駅を除き廃止分を含めると最大で何と 7 駅も存在していたのである。ちなみに、現在は 2.7km の間の途中駅は 3 駅である。
現在途中で交換可能な駅は存在せず、全線にわたって一閉塞である。恐らく開業以来そうだと考えられるが、果たして旅客と貨物の運行をどうやってやりくりしていたのだろうか。
終端の旧日高川駅付近は宅地等がほとんど存在しない空白地帯のように見え、なぜこんな所に駅があるのか、とも取られ兼ねないが、実際は貨物積み出し設備等が設置され賑わっていたようである。
出展:国土地理院 1/25,000 地形図「御坊」(S43/07/30 発行)※管理人一部加工
廃止区間の起点であり、現在線の終点でもある西御坊駅は開業当時は『松原口』という駅名だったそうである。この駅は紀州鉄道について語られる時、必ず話題に上る駅である。
理由としては、およそ平成の世の中に実在している駅とは思えないような、そこだけ時が止まっているかのような独特の雰囲気である。廃止区間に入る前にまずこの駅についてしばらくお付き合い願いたい。
まずは駅舎全景である。ちなみに駅名を示すものは道路に対しては一切表示されていない。また、左のグレーの建物は駅とは無関係である。この赤茶けた三角屋根を含む一連の建物が西御坊駅である。画面向かって左(手前)側が御坊方面であり、停車している車両の向こう側からが廃止区間である。
そして、さりげなく停車しているこの車両も現在では全国でも貴重なレールバスである。ちなみに、元北条鉄道の車両で形式は『キテツ-1』である。
実は写真にも写っている(後述)のだが、ご覧のとおり駅名標が表立っては設置されておらず何かもの足りない感じがしないでもない。一応こちらが駅正面だとは思われるが。
次に車両の止まっている側からの眺めである。やはりこちら側にも駅名標の類は一切ない。そして駅舎がこじんまりしているため車両がひときわ大きく見える。また、ここからが廃止区間であることをいやでも知らされる光景である。
この駅は昭和 7 年開業であるが恐らくその当時のままの駅舎と思われ、独特の世界観を醸し出している。
最初の写真の自動販売機横の出入り口(仮に北口とする)からの 駅舎内部の眺めである。窓の外の車両で位置関係を把握願いたい。
利用者のものだろうか。手前側は通路兼自転車置場の様相である。かつてはどのような光景だったのだろうか。この空間は何のためにあったのだろうか。また一番奥は反対側の出入り口(仮に南口とする)であり二番目の写真の民家との隙間の部分である。
この南口は知らないと駅の外からは分かりにくい。ただ、このような路地のような道も昭和初期の風情を残す貴重なものではないだろうか。現在の建築基準法では恐らくあり得ないと考えられる。
さらに奥に進んでみる。驚愕の南口の様子がご理解頂けるだろう。自転車の大きさと比較して欲しい。また身長約 160cm の私が背伸びをせずに撮影してこの天井の高さである。また、右側のプラットフォームと通路との境には柵が設けられ一番奥の改札口へと乗降客を誘導している。ただ、この柵とそれに付随すると思われる床の嵩上げは後年実施されたものと推測される。
また、この駅は午前中のみ(!)有人駅となる駅であり、無人駅ではない。逆光撮影であったため、輝度を思いっきり上げているため画質の悪さはご容赦頂きたいが、改札係の方のいるれっきとした改札口なのである。もちろん、入場券及び乗車券の購入が可能であり、さらに硬券切符である。
今回購入した西御坊~御坊の切符である。やはり切符はこうでなければならない。
次に振り返って御坊方面の眺めである。一番奥が自販機に半分近く塞がれてしまっている北口である。つくづく開業当時の内部の光景が知りたい。この不思議な内部空間は一体何のためだったのだろうか。
今回の調査の過程である程度 Web でこの駅舎の古い写真を発見したが、駅舎内部の写真は発見できなかった。どなたか情報もしくは写真をお持ちではないだろうか。
そして、改札を抜け プラットフォームへと出る。ここへ来て初めて駅名標を目にすることができる。なお、最初の写真の三角屋根の真下付近である。あの大きな三角屋根をこの細い柱群で支えているのである。よくぞ持ちこたえていると感心する。
先ほども書いたように青い鉄柵は後年設置とすると、画面中央の窓がある部分もかつては改札口のようなものだったのかも知れない。ひょっとして乗車口と降車口のようなものだったのだろうか。
また、車両の高さが軒先の高さをはるかに凌ぐ不自然な高さになっているが、これはあくまでも駅舎側が低いのである。ひとつ前の写真でも天井の低さから駅舎内部より車両の上部 1/3 程度が見えない。
駅名標である。なぜ、わざわざここで取り上げたかというと実は駅名標が二つあるからである。上の写真でお気づきの方は鋭い観察眼をお持ちである。
左上の木の板の駅名標が何やら歴史を感じさせるが、開業当時は松原口という駅名であったがその月には既に現在の西御坊に解消されているため、ほぼ開業当時からのものと考えられる。もしそうだとすると 75 年もの永きにわたって存在しているのである。もちろん駅舎もだが。
振り返って旧日高川方面を望む。と、ここで駅舎の壁に信じ難い傾きが発生している。中ほどにある出入り口は大丈夫なのだろうか。ホームのほんの一部が嵩上げされているのは車両の出入り口付近のみ施工されているからである。
その、出入り口である。一部ガラスが割れてしまっているようで、手書きで社名を表していると思われる標記が書き込まれた紙で補修されている。
問題はその下である。ガラスが入っている場所にわざわざ貼られている。これは一体何を意味しているのだろうか。その下はガラスがなく木の板で補修されている。
ちなみに、この部分の壁はかなり傾いているが、観察の結果運転士がここから出入りしていたので建具としては問題なく機能しているようである。
ここで、もう一度外からの眺めを今度は車両なしでご覧頂きたい。プラットホーム自体は玉石の練り込まれた比較的珍しい作りである。また、車両の出入り口付近のみ嵩上げされている様子がお分かり頂けるだろう。
反対側からのプラットフォーム全景である。枕木の再利用による柵と車止めが本来の中間駅を終着駅へと強制的に変貌させている。
いかがだろうか。75 年以上もの歳月を経た、この浮世離れした世界はまさに奇跡としか言いようがない。現役区間からしてアツイのである。
第二巻へ続く。