今も残る大正時代の鉄路の痕跡。
2008/06/15 全写真のサイズを統一(一部縮小)しました。
2008/01/13 公開。
現在首都圏でも有数の通勤路線である JR 東日本京浜東北線。実は JR の正式路線名称としては存在しないものである。
何故か。
京浜東北線は大宮~横浜間であるが、正式には大宮~東京間が東北本線であり東京~横浜間が東海道本線である。そしてかつては長距離を走る『列車』と近郊区間を走る『電車』という概念が存在し、それぞれを走らせる線路を『列車線』、『電車線』と呼んでいた。ご存じの方もおられるかと思うが、京浜東北線はとどのつまり東北本線と東海道本線の『電車線』を一体的な運転系統としている路線の通称なのである。
その京浜東北線が東海道線の電車線として登場したのは 1914(大正 3)年であり、その電化に備え多摩川沿いの荏原郡矢口村(現大田区多摩川二丁目)に建設されたのが、矢口発電所である。一般的に発電所には大量の冷却水が必要であるため、多摩川の水を利用するためにこの地が選ばれた。ここは現在の京浜東北線蒲田駅より 2km に満たないほどの距離にある場所である。
この発電所は蒸気タービンによるものであり、その燃料として石炭が用いられた。その石炭を運び入れるために京浜東北線からの側線が敷かれた。これが今回の調査委対象である『矢口発電所運炭線』である。なお、これは正式名称が把握できていないため当報告書内での便宜上の名称であることをご留意頂きたい。
矢口発電所は関東大震災で被災し復旧されたが、その震災の三年後の 1926(大正 15)年には廃止された。その後同様の蒸気タービン発電所を川崎に建設し東京地区の電力供給を行った。
建設からわずか 10 年余りで廃止となったのは同時期の他の発電所に比べて高コストだったことも一因とされている。廃止後、蒲田駅南の運炭線沿いに蒲田電車庫(現蒲田電車区)が設置されたが、それより先の運炭線自体は廃止となった。この運炭線の正確な供用開始時期や廃止時期も把握できていないが、終戦後もどうやら残っていた可能性がある。
今回は京浜東北線の電化を支えた発電所をさらに支えた線路の今を追ってみたい。
調査日:2006/05/03
年月日 | 事象 |
---|---|
1914? | 矢口発電所操業開始 |
1914/03 | 京浜東北線(東海道電車線)運航開始 |
1923 | 矢口発電所運炭線沿いに蒲田電車庫(現蒲田電車区)設置 |
1923/09/01 | 関東大震災で被災 |
1926 | 矢口発電所廃止(運炭線廃止時期未確認) |
調査対象および周辺の主なランドマークを示した。この地図は拡大や縮小、航空写真への切り替え等も可能である。
大正 12 年発行の旧版地形図にはそのものずばり『鉄道省矢口発電所』の記述があり、そこへ本報告書の調査対象である現京浜東北線から延びる運炭線も確認できる。
余談ではあるが、この当時今の東京急行電鉄池上線の前身である池上電気鉄道(大正 11 年蒲田~池上間開業)が開業しているが、今の東京急行電鉄多摩川線である目黒蒲田電鉄は存在していない。
出展:国土地理院 1/10,000 地形図「蒲田」(T12/10/10 発行)※管理人一部加工
続けて昭和 5 年発行の旧版地形図では、既に矢口発電所は廃止され、目黒蒲田電鉄(大正 12 年目黒~蒲田間全線開通)や省線蒲田電車庫が加わり賑やかさを増している。
ところが、件の運炭線は発電所廃止にも関わらず依然記述がある。発電所廃止後同敷地が別用途に使用され、それに関連して運炭線も引き込み線として使用されていたのかも知れない。
出展:国土地理院 1/10,000 地形図「蒲田」(S05/02/28 発行)※管理人一部加工
さらに、時代は下り昭和 22 年発行の地形図では矢口発電所及び運炭線については昭和 5 年の地形図の記述と比較して余り変化が感じられない。発電所跡地は一体何に使用されていたのであろうか。
昭和 21 年撮影の同地域の国土変遷アーカイブ空中写真閲覧システム画像では、その発電所跡地に整然と並ぶまるで工場のような建物が確認できるが、地形図では記述がなく詳細は不明である。
出展:国土地理院 1/10,000 地形図「蒲田」(S22/07/25 発行)※管理人一部加工
そして、昭和 49 年撮影の航空写真では発電所跡地に工場のような建物が確認できる。どうやら昭和電工らしいのだが確実な情報は得ていないため推測である。
さらに、運炭線跡もカーブに沿った地割りも確認できる。今回はこの地割りを辿って行く。
出展:国土交通省 国土画像情報(カラー写真) 整理番号「CKT-74-15」(S49 撮影)※管理人一部加工
ここで、改めて調査対象を現在の地図にプロットした。かつての運炭線跡は JR 東日本蒲田電車区と旧矢口発電所跡地との間に鉄道ならではのカーブを地割りとしてその名残を今に残している。
また発電所跡地は幾多の変遷を経て現在は高層マンションが立ち並ぶ住宅地と化した。
Google Earth で確認するとさらにそのカーブがくっきりと表れる。また、発電所跡には巨大なマンションが立ち並んでいる。
さらに拡大してみると、運炭線跡にはあまり住宅等の建物が存在していないことが分かる。実は現在その鉄道跡地は緑地化され『大田区立道塚南公園』として付近住民の憩いの場となっている。
そして『大田区立』ということはかつての運炭線跡地は現在大田区の所有地となっていることであろう。
それでは、現地を見て行く。まずは JR 東日本蒲田電車区である。かつて京浜東北線(かつては京浜線と呼ばれた)の電化開業に始まったこの路線を走る電車が今もずらり並ぶ光景を、もし矢口発電所関係者が見たらきっと嬉しいだろう。
この写真は当電車区北側の西端から南側を見たものである。つまり画面の一番奥が運炭線跡となる。
ちなみに、写真の車両は 209 系であるが現在は最新型として E233 系 1000 番台への置き換えが始まっている。同車両の営業初日の動画を蒲田駅にて撮影したのでご覧頂けると幸いである。
今度はその運炭線跡側(南端)から蒲田駅方面を見る。かつてはこの金網の中の右端の線路が矢口発電所までの運炭線だったのだろう。 今は全くその名残は感じられない。
上の写真の地点より西側つまり矢口発電所側を見ると Google Earth で確認できる倉庫のような建物が見える。また、その敷地の南側(写真では左側)に道路とは斜めに向いた細い路地があるが、この方向がかつての運炭線の方向であり、その跡地の境界である。
上の写真の細い路地を進むと全体が緩やかなカーブを描く細長い公園が現れる。ここが運炭線跡地である。ここをかつて石炭を満載した貨物列車を牽いた SL が通っていたのだ。
蒲田駅方面を振り返る。今通ってきた路地が右端にあるが、先ほどの地点からここに公園があることは非常に分かりにくい。
程なくこの公園の看板というか表札が現れる。何と動輪のような車輪が備え付けられている。一切の説明がないため、なぜここにこのような物があるのか知らない人にとっては場違いなオブジェと誤解されるかも知れない。
車輪についての知識を持ち合わせていないため確証はないが模造品ではなく実物と思われる。また、このようなスポーク型の車輪は珍しく感じる。これは SL の先従輪もしくは後従輪か、それともかつて石炭を運んだ貨車のものだろうか。
正体は分からないが写真には刻印が残されており、有識者にはお分かり頂けるのではないだろうか。参考に拡大写真を載せておきたい。
蒲田駅方面を振り返る。写真では少々わかりにくいが緩やかな左カーブが鉄道のあったかすかな証である。
公園はまだまだ細長く続き、都会のオアシスとして第二の人生を歩む線路跡の静かな風景に心も落ち着く。
振り返って蒲田駅方面を見る。付近には住宅が密集し、冒頭で掲載した大正時代の地形図のような一面の田園風景は現在の我々には想像の中のみに存在することとなった。
途中道路との交差部があるが、やはり同じ幅で公園は続いていく。
さらに進んだところの道路との交差部では何となく単線幅を感じさせるぶつ切りの眺めが現れる。しかし、まだまだ公園として残っている。
再び発電所跡方面を目指すと、ついに公園が途切れ建物が現れる。Google Earth で確認できる線路跡に建つ赤い屋根の建物である。の建物である。ということで、少々回り道をして先へ進む。
上の写真の裏側に回ると再び公園となっている。また帰り道に気がついたが上の写真の建物の脇は通り抜け可能であり回り道は不要であった。
ここで、発電所跡方面を見ると公園はなく細い路地の右側の線路跡には住宅が立ち並んでいる。その先には発電所跡に建つ高層マンションも見える。ンションも見える。
ちなみに、公園終端部であるこの地点の公園入口には写真にも少し写りこんでいるが先ほどの車輪をイメージさせるオブジェがある。
ここからの運炭線跡地の撮影は個人宅であることを考慮し行わなかった。なお、鉄道の痕跡としてはここまで続いてきた公園の脇に国鉄の境界標もある。目立たないようにするためだろうか、黒く塗られてはいるが『工』マークは健在であった。ちなみに、この境界標は手前の柵の網目と比較するとかなり大きいものであることがお分かりだろう。
ちなみに、公園が途切れた地点付近にひもでつながれて日向ぼっこ中の猫を発見。この猫は非常におとなしく、しばし遊ばせてもらった。
旧矢口発電所跡地はすっかり開発されてマンション敷地となっているため、ここで現地調査は完了である。
ここで、鉄道ピクトリアル 2007 年 9 月号に掲載されていた同発電所の平面図をご紹介したい。この図面は同誌によると『帝国鉄道協会会報第 17 巻』に挙げられたものとある。
平面図上左側よりガス発生装置、円形のガスホルダー、ガス機関 4 機が並んでいるとのこと。また、この図面では上が南であり、多摩川に接して取水口がある。
運炭線は図面では一番下の字が小さく見にくいが貯炭場の外側に引き込まれていた。
出展:鉄道ピクトリアル No.786 2007 年 3 月号 ※管理人一部加工
同会報にはさらに『矢口発電所全景(北面)』という写真が掲載されている。これは上の平面図で左下から全体を見たものである。平面図上の貯炭場にかかるクレーンとその右側に運炭線、さらに運炭線の上には送電線が写っている。
高層マンションが建つ現在からは想像できない開けた風景である。
出展:鉄道ピクトリアル No.786 2007 年 3 月号 ※管理人一部加工管理人一部加工
現在の蒲田と言えば庶民感覚あふれる商業地域であるが、かつてすぐ近くに発電所が建設されていたのは正直驚きであった。しかし、旧版地形図を入手してみると、この辺りも田園風景の広がる地域でありなるほどという気もしてきた。
Google Earth の写真でも分かるように現在は住宅が密集し発電所の名残は全く失われたが、石炭を満載した貨車が行き交っていた線路跡は公園として第二の人生を歩み歴史を静かに語っている。
私の田舎である筑豊地方もかつて石炭は『黒いダイヤ』と呼ばれた産炭地であったため、石炭を満載した貨車が走ったという点では何か因果を感じる。
ところで、蒲田といえば『蒲田行進曲』で有名なキネマ撮影所があったり独特の雰囲気を持つ街である。鉄道という切り口でも省線(現 JR)と京浜電気鉄道(現京急)との熾烈な競争などの舞台でもある。
さらに、終戦後には GHQ による羽田空港専用線など終戦後の激動の鉄道の歴史も経験してきた街である。これについては別途以下の報告書で簡単ではあるが紹介しているのであわせてご覧頂きたい。
今回の調査の過程で『帝国鉄道協会会報』という史料の存在を初めて知った。ざっと Web で調べてみてもオンライン化されてはいないようであるが、今後もう少しこの資料についても調べてみたい。
どこかオンラインで見れないだろうか。。。