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国道 340 号【雄鹿戸隧道】

あの岩泉へ通ずる山深くそして歴史ある隧道です。

2007/02/16 公開。

概要

国道 340 号は岩手県三陸地方の陸前高田市より内陸を北上し、河童伝説で有名な遠野市を抜け全国屈指のローカル線である岩泉線と龍泉洞の岩泉町まで併走したのち一路青森県八戸市まで目指す全長 253.4km に及ぶいわゆる三桁国道である。

本報告書はいきなりスポット的にこの長大路線の中のとある隧道、宮古市と下閉伊郡岩泉町の境に位置する『雄鹿戸隧道』を取り上げる。

本隧道のある押角地区は国道 340 号は刈屋川に沿った山あいのわずかな隙間を縫うあの超赤字ローカル線として名高い JR 東日本岩泉線との併走区間に位置し、また宮古市と岩泉町との境である押角峠を抱える山深い場所である。

雄鹿戸隧道はこの押角峠を越えるために、なんと昭和 10 年に穿たれた歴史ある隧道なのである。

ちなみに、全国屈指の赤字ローカル線の岩泉線が存続しているはこの併走する国道 340 号の未整備が理由とされている。何故ならこの国道はこの岩泉線との併走区間において急カーブ、急勾配、幅員激狭、大型車通行不可と道路マニアにはたまらないが、一般の利用者にとっては別の意味でたまらない道路なのである。

このあたりは別途報告書で取り上げる予定である。そしてお気づきの通り押角(おしかど)峠の雄鹿戸(おしかど)隧道である。雄鹿戸とは旧来からの表記であり後年押角となったらしい。

私は雄鹿戸のほうが如実に地域を表していると思う。そういえば、秋吉台と秋芳洞はどうなんだろう。余談だがよく NSR250R '89 SEED カラーで走ったものである。

実はこの押角峠を越えるルートはこの雄鹿戸隧道が建設される以前より九十九折れの旧道があり、この峠越えの雰囲気はかつてこの地に赴任した教師でもあった女啄木と言われた昭和初期の詩人西塔幸子によって詠まれた詩によってもその片鱗が伝わってくる。

その詩は雄鹿戸隧道南口に歌碑として建立されている。まず表から。

九十九折る山路を越えて乗る馬のゆきなづみつつ日は暮れにけり

そして裏にはこうある。

ゆきなやむ峠路にして日は暮れぬみぞれさへふり吾子泣きしきる

この九十九折れの山道の改良策として恐らく大変な難工事の末に雄鹿戸隧道は建設され、人々の往来の利便を飛躍的に向上させた。もしかすると上の歌碑にもあるように当時の峠越えは馬でありこの峠で初めて自動車の往来を可能にした近代的な隧道と思われる。

また、当時 580m の総延長は全国でも屈指の長さでありこの峠越えの難所解消に懸ける意気込みがうかがえよう。しかし、その影には例によって凄惨なタコ部屋労働もあったと伝えられているようである(ただし、正確な情報は掴んでいない)。

今回はそんな峠越えの歴史を持つこの隧道と知られざる旧道の存在のご紹介としたい。なお、本調査は遠征調査としての GNR - 第一次岩手計画 の一調査対象(No.60)である。

調査日:2006/10/24、2007/02/11

諸元

項目 内容
竣工 1935(昭和 10)年
路線名称 国道 340 号 (竣工時:指定府縣道十六號岩泉宮古線)
材料 坑門部:石
アーチ部:コンクリートブロック
側壁:コンクリート
全長 580m
幅員 5.50m
高さ 5.20m

地図

調査対象の道路地図である。国道 340 号と JR 東日本岩泉線が併走している。既にこの地図でも国道 340 号の『酷道』ぶりが想像できよう。

国道 340 号【雄鹿戸隧道】調査対象地形図

調査結果

雄鹿戸隧道

本隧道はほぼ南北に伸びており押角峠の鞍部の直下を貫いている。一見して周囲に人家が無く、秘境とも言える雰囲気が伝わってくる。

国道 340 号【雄鹿戸隧道】地形図

出展:国土地理院 地図閲覧サービス(試験公開) 1/25,000 地形図「和井内」 ※管理人一部加工

今回は宮古市側すなわち南口より本隧道にアプローチしたため、南口からご紹介したい。

雄鹿戸隧道南口の少し手前にはまるでチェーン着脱場のような広場があり、冒頭で紹介した西塔幸子の歌碑がある。薄幸の女啄木と言われた彼女を慕う想いが伝わってくる。

国道 340 号【雄鹿戸隧道】西塔幸子歌碑

目指す南口はもう目の前である。というよりここまで来れば既に見えている。隧道自体は古いのだが坑門手前には現代の交通路として各種標識等が設置されており現役隧道であることを改めて認識させられる。

画面中央の看板は龍泉洞の案内板であり、その手前の茶色の電光掲示板は気温を示しており、ちなみに小雨の降りしきるこの日の気温は 10 月下旬で 3℃ であった。福岡育ちとしては充分な寒さである。

2007/02/11 に再訪した際は雪景色の中さらに気温は低く -1℃であった。ちなみに、この翌日に区界峠では -20℃の最低気温を記録したそうである。

なお、最初の写真の左側ぎりぎりに何やら木製の標柱のようなものが写っているが、現地では雨の中気が付かなかった。次回本調査時の課題である。

ということで確認した結果本隧道の竣工記念碑であった。

国道 340 号【雄鹿戸隧道】南口坑門付近

国道 340 号【雄鹿戸隧道】南口坑門付近

国道 340 号【雄鹿戸隧道】南口坑門付近(再訪時)

さらに進むと龍泉洞の案内板あたりに重厚な面持ちの石碑が建立されている。開通記念碑の類とも想像したが手前にろうそく立てのようなものがあり、殉職者慰霊碑と考えられるが詳細は不明である。ご存知の方は情報を頂きたい。

あまりにも 達筆な字体であるため私には解読不能であった。勝手ではあるが手を合わせ殉職者の霊を弔った。彼らが命をかけて完成したこの隧道は 70 年を経た現在もこの地に安全な往来を提供しており、完成以来のその恩恵は計り知れない。

再訪時に改めて調査したところ、中央部の黒ずんだ部分にびっしりと書かれた内容をさらっとに読んだところ(というより脳力的にちゃんと読めない)、それは開通記念碑であった。例によって時間の制約がありじっくり読めなかったが建設に至る経緯や金額等詳細な内容と思われた。

残念ながらご覧の通り中央部は欠損しており、それに伴い貴重な文面は一部失われているが次回訪問時は是非とも写生したいと考えている。

国道 340 号【雄鹿戸隧道】南口坑門付近

国道 340 号【雄鹿戸隧道】南口坑門付近(再訪時)

ここで、改めて識者のご意見を頂きたいのが頂部に刻まれた篆字(てんじ)と思われるこの文字列である。この文字列の下に写真では分かりにくいが細かな字でびっしりと解説文が刻まれている。

国道 340 号【雄鹿戸隧道】南口坑門付近(再訪時)

そしてついに南口坑門である。と言っても既に写真に写っていたが。ここでは『土木デジタルアーカイブス』にある竣工直前と思われる当時の写真との定点比較を試みたが、『定点比較』になってない。。。雰囲気は捉えているつもりであるが。。。いかんせん寒くて。。。 orz

国道 340 号【雄鹿戸隧道】土木デジタルアーカイブス『雄鹿戸隧道南口』

出展:土木学会 土木デジタルアーカイブス「戦前土木絵葉書ライブラリ」3.鉄道、トンネル ※管理人一部加工

国道 340 号【雄鹿戸隧道】南口坑門

さらに再訪時の様子である。鞍部が鮮明に浮かび上がりここが峠であることを改めて知らしめてくれる。

国道 340 号【雄鹿戸隧道】南口坑門(再訪時)

絵葉書でご覧のとおり、坑門周辺は大規模な工事が実施されたようである。現在の坑門上部のコンクリートは後補と思われる。坑門上部の稜線はかつて押角(雄鹿戸)峠として旧道で越えた鞍部である。

また、先に紹介した殉職者慰霊碑と思われる石碑及び石積みの土台も写っている。

もうひとつ土木デジタルアーカイブスより。こちらが竣工時と思われ、道路がコンクリート舗装か何かの仕上げを施されている。坑門が美しい。竣工当時を実際にこの目で見たかった。

また、坑門周辺の施工にも着目して頂きたい。向かって右側は沢を逃がす水路であり上部まで擁壁が続いているようである。坑門手前の擁壁も微妙なカーブとなっており何となく左右の土圧を視覚的に感じるような独特の雰囲気である。

国道 340 号【雄鹿戸隧道】土木デジタルアーカイブス『雄鹿戸隧道南口』

出展:土木学会 土木デジタルアーカイブス「戦前土木絵葉書ライブラリ」3.鉄道、トンネル ※管理人一部加工

国道 340 号【雄鹿戸隧道】南口坑門

やはり、昔の人の撮影のほうが圧倒的に素晴らしい。

比較してみると、現在も坑門自体や手前の擁壁や水路も当時のままではないだろうか。水路に至っては現在も脈々と沢の水を運んでいる。ただ、若干向かって右側の擁壁はコンクリートが厚くなっているようにも見える。また前述のとおり坑門上部はコンクリートにより後年補強されたと思われる。

標識とアスファルトが無ければ、ほとんど竣工当時の眺めではないだろうか。

扁額も竣工当時のものが無事に現存しているものと思われる。また、パラペットもシンプルながら微妙なアクセントを持たせた石の配置である。扁額の『道』の左側の微妙な隙間は何か書かれているようだが読み取れなかった。これまた宿題である。

国道 340 号【雄鹿戸隧道】扁額

ということで、再訪時に宿題を果たした。なんと『英彦』とあった。これは本隧道竣工当時(昭和 10 年)の岩手県知事であった石黒英彦氏の書であることを示していると思われる。

そして、彼の墓は実は東京都立多磨霊園にある。都民である私としては灯台下暗しと言った感じである。

国道 340 号【雄鹿戸隧道】【雄鹿戸隧道】扁額(再訪時)

内部へ入ると既に見えているままのナトリウムランプのオレンジに染まった独特の世界となる。しかし、竣工当時はエキステリア燈 60W というものが使用されていたとのことである。どんな色の光だったのだろうか。

ここで再び『土木デジタルアーカイブス』から。いい感じである。

国道 340 号【雄鹿戸隧道】土木デジタルアーカイブス『雄鹿戸隧道の内部』

出展:土木学会 土木デジタルアーカイブス「戦前土木絵葉書ライブラリ」3.鉄道、トンネル ※管理人一部加工

そして 現在の隧道内部である。写真上部の変な物体はレンズに付着した雨水である。惜しい。

竣工当時の写真ではアーチ部の一瞬『レンガ?!』と思わせるコンクリートブロックが鮮明に写っているが、現在は全周にわたってコンクリート吹き付けによる補修がなされているようで側壁から何から同じ色になっている。

しかし、かつてのコンクリートブロックの目地が浮き出ており往時を偲ぶことができると共に大改修は受けていないのではないかと推察される。何というかさっぱりとした雰囲気である。恐らく歩道もなく、床面がフラットであることと照明も比較的小じんまりしたものだからではないだろうか。

国道 340 号【雄鹿戸隧道】内部

岩泉町側に抜けるとそこは北口である。坑門は南口と同一のデザインであるが、坑門手前は南口と異なり切り通しとなっている。また、直射日光の当たり方が南口と比較して弱いためか北口のほうが坑門全体が明るく、まるで金属のようにも見える。

国道 340 号【雄鹿戸隧道】北口坑門

国道 340 号【雄鹿戸隧道】北口坑門

南口同様北口も扁額は無事に姿を見せてくれている。こちらも左端に何か書かれているようだが判別不可能であった。

国道 340 号【雄鹿戸隧道】北口坑門

また北口坑門付近には山神を祀った石碑と木製の安全祈念碑もあった。なお、木製の安全祈念碑には平成六年とあり後年(というより近年)設置されたものである。恐らく南口付近にあった謎の標柱も恐らくこの安全祈念碑と同じものであろう。

国道 340 号【雄鹿戸隧道】北口坑門

石碑には昭和 10 年とあり、竣工当時に作られたことが分かる。鬼のように達筆である。

国道 340 号【雄鹿戸隧道】北口坑門

国道 340 号旧道

雄鹿戸隧道は昭和 10 年完成であるが、この峠を越えたのはこの隧道が初めてではない。既に触れた通り既存の道路の改良工事として生まれたのである。

その旧道は現在の地形図にも痕跡を残している。もう一度地形図をご覧いただきたい。尻切れトンボの細線である。これはつまり現在は既に峠を越えるという主目的を果たせなくなった道であることを意味する。

でも、途中で切れているのも不思議である。どうせ峠を越せないのなら丸ごと無くなりそうだが。

国道 340 号【雄鹿戸隧道】地形図

出展:国土地理院 地図閲覧サービス(試験公開) 1/25,000 地形図「和井内」和井内」 ※管理人一部加工

ここで、再び『土木デジタルアーカイブス』より旧道の驚愕の全貌をご紹介したい。これを発見した時は叫びながらひっくり返りそうになった。このような貴重な資料がデジタル化されたことに敬意を表したい。私のようになかなか図書館に行けないサラリーマンにとっては非常に貴重な情報源である。

国道 340 号【雄鹿戸隧道】土木デジタルアーカイブス『府懸道岩泉宮古線道路改良計画図』

出展:土木学会 土木デジタルアーカイブス「戦前土木絵葉書ライブラリ」3.鉄道、トンネル ※管理人一部加工一部加工

あろうことか雄鹿戸峠を越えるかつての道は 2 ルート存在していたのである。両ルートが最接近するサミットではちょっとした賑わいのある、行きかう人々の憩いの場だったかも知れない。

赤いルートが改良後即ち現在にまで残るルートである。ただ、かなりデフォルメされたカーブの緩さであるが。今回の調査では時間的制約(欲張りスケジュール)と気候的制約(寒さと雨)により旧道自体の調査は実施できていない。しかし、現道との分岐点を二か所ほど確認したのでご紹介したい。

国道 340 号【雄鹿戸隧道】土木デジタルアーカイブス『府懸道岩泉宮古線道路改良計画図』

出展:土木学会 土木デジタルアーカイブス「戦前土木絵葉書ライブラリ」3.鉄道、トンネル ※管理人一部加工

まずは赤く塗られた雄鹿戸隧道の南口付近にある『分岐 1』からである。実は雄鹿戸隧道南口手前の広場にある前述の西塔幸子の歌碑のすぐ横にその分岐はその姿を現している。画面中央にある奥へ向かう砂利道がそれである。残念ながら今回は調査不可であったため、 この先の調査は宿題である。

ということで、再訪した際の写真をご覧頂きたい。正面の山の斜面にあるほぼ水平に見える旧道のラインが確認できた。

国道 340 号【雄鹿戸隧道】旧道分岐 1

国道 340 号【雄鹿戸隧道】旧道分岐 1 (再訪時)

さらに、この分岐点より旧道に進入してみた。時間的制約からほんの少し覗いた程度であるが、ご覧頂きたい。これが現在の地形図にも細線として残る旧道の姿である。右の写真は振り返って現道の分岐(合流)点を望んでいる。

国道 340 号【雄鹿戸隧道】分岐 1 旧道内(再訪時)

国道 340 号【雄鹿戸隧道】分岐 1 旧道内(再訪時)

ご覧の通り、かなりの幅員があり軽乗用車が一台通行可能な程度が確保されている。昭和 10 年以前の道路として捉えた場合広すぎるような気がしないでもない。というのも、現在の地形図にも記載が残っている部分であり何らかの用途において隧道を含む現道完成後も利用されているのではないかと考えられるからである。

初回訪問時の紅葉めいた写真をもう一度ご覧頂きたい。旧道にはしっかりとしたダブルトラックが見て取れる。言ってしまえば軽トラが今も通う道だという気がしてならない。また、実はこれより先数十メートル区間は現道から谷を挟んで確認可能である。

国道 340 号【雄鹿戸隧道】分岐 1 旧道(再訪時)

国道 340 号【雄鹿戸隧道】分岐 1 旧道(再訪時)

写真では分かりにくいが現地で確認した際は削られた部分がかなり新しく、近年(勝手な創造では軽トラのために)拡幅されたのではないだろうか。これより奥への峠へのルートは時間的に不可能であったため、次回の宿題となったが恐らく現在の地形図に記載のある部分までは車での通行が可能な可能性が高い。

峠へ向かう中途半端なその場所に何があるのだろうか。航空写真で確認してみた。なんとそこには明らかに人工的な『何か』があった。『牧場?』と吹き出しを付けたが、どちらかというと牧草地かも知れない。恐らくここへ通う作業道として旧道を拡幅して利用しているのではないだろうか。

そして、サミットから北側に南北に伸びる謎のラインも新たに発見した。線の太さや曲がり具合から察するに軽トラの通行も可能な道かも知れない。もしかしたら今でもサミットへの到達も可能なのだろうか。

国道 340 号【雄鹿戸隧道】分岐 1 旧道(航空写真)

出展:国土交通省 国土画像情報(カラー写真) 整理番号「CTO-77-5」(S52 撮影)※管理人一部加工

次に『分岐 2』である。ここは『道路改良計画図』で『近道』と記された九十九折れの道がメインルートと交差する地点である。直下を岩泉線の『押角トンネル』が抜けている場所である。

ご覧頂きたい。旧道が正体を現したとも言えるようなインパクトであった。現道(メインルート)から旧道入り口を真っ直ぐ見ているが、隧道付近にもあったタイプと同様の外観の標柱の左側の道路の切れ目がそれである。そう、崖に落ちていくと言った雰囲気である。恐らく牛馬の交通は不可能であったと思われる。降りて行きたかったが叶わなかったため宿題となった。これがかつての『近道』である。

ちなみにこの標柱自体は近年立てられたものであったが、書いてある内容が雄叫びモノであった。

押角道路改修工事 昭和五年

雄鹿戸隧道の開通は昭和 10 年であることから、これは道路改良工事そのもののの開始年であろうか。ご存知の方ぜひ情報を。

国道 340 号【雄鹿戸隧道】旧道分岐 2

上の写真の崖っぷちからの九十九折れの始まりの様子である。

国道 340 号【雄鹿戸隧道】旧道分岐 2

再訪時は植物がすっかり消えうせ、九十九折れの様子がはっきりと見て取れたのである。最初の写真は現道と同じレベルの上の写真の標柱付近からの俯瞰であり、次の写真は逆に現道を見上げたものである。

左の写真では九十九折れのヘアピンカーブ、右の写真では牛馬も通行不能と思われる激坂ぶりがうかがえるだろう。

国道 340 号【雄鹿戸隧道】旧道分岐 2 (再訪時)

国道 340 号【雄鹿戸隧道】旧道分岐 2 (再訪時)

国道 340 号【雄鹿戸隧道】旧道分岐 2 (再訪時)

そしてお気づきだろうか。黒と赤の小さな標柱が設置されているのを。どうやら役所による地勢調査が実施されたようである。ただ、このような旧道のしかも本道ではなく近道である補助的な道路まで調査しているには驚いた。

また、この旧道のメインルートでもあった現道をはさんだカーブの内側(上の写真ぼ防護ネット部分)にもこの『近道』が続いてい よ である 恐らく道路の拡幅等で切り立った崖となっており、写真を撮り損ねたが発見は困難と思われる。

さらに、その傍らには隧道付近同様『神』が恐らくかつての人々の往来を見守っていた当時の姿を今に留めていた。次に私がそのかつての道を通るときにも暖かく見守って頂きたい。その時までしばらくお別れだ。

国道 340 号【雄鹿戸隧道】旧道分岐 2

国道 340 号【雄鹿戸隧道】旧道分岐 2

総評

何と言ってもあの『岩泉』である。龍泉洞付近を表の世界だとすると、今回調査した押角峠付近は表へ向かう裏の世界のひとつと言っても過言ではないくらい人里離れた別世界の雰囲気である。

かつては炭焼き職人がいたというこの辺りもすっかり人の気配がなくなってしまっている。ここを通る国道 340 号は今となっては峠越えの寂しいそして険しい狭小道路となっている。

恐らく昔も都会と言えなかったと思われる東北の山中にあって、都市間連絡ルートとも言い切れないように見えるこの峠越えルートに昭和 10 年という時代に 580m もの隧道を建設したことは、当時としては相当の大工事だったのではないだろうか。

土木デジタルアーカイブで公開されている『道路の改良』第十八巻 第三號によると、予算や工期の関係でボーリング調査を行わず現地への踏査調査により地質を推定したとのこと。また全て『手掘りにて』とあるため、大型の削岩機等は使用されなかったという意味であろう。

伝え聞くところではタコ部屋労働による過酷な現場であり多くの犠牲者も出たとのことで、現在この隧道は心霊スポットとして有名なそうである。こういうテーマでこの隧道を取り上げるサイトもある。

個人的には非常に残念である。私の故郷では同様に犬鳴トンネルが全国に名を馳せているが、興味本位でのそのような視点だけでなく、開通したことによる地域が受けた計り知れない恩恵を以って犠牲者の労をねぎらってもらいたいと思う。

最後に、『道路の改良』第十八巻 第三號の本編での締めくくりの文章を紹介したい。

改良前は大川村よりの物産は全て東北本線沼宮内驛或は小本港に搬出せるも改良後は山田線茂市驛に搬出し得るを以て距離に於て半減せられ故に運賃年額約十八萬圓の節約を見るに至れり。

ちなみに、ある統計では昭和 10 年の大阪でのきつねうどんが約 10 銭であったという。

なお、国道 340 号そのものについて全線ではないものの走行動画を撮影しているのであわせてご覧頂きたい。以下のサイトは動画の共同撮影者が管理しているものである。

YouTube - 再生リスト『国道340号線

参考文献等


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