盛岡から宮古へ向かう最初のトンネル開通前の痕跡。
2009/10/13 公開。
国道 106 号は岩手県東岸の中核都市である宮古市と内陸の県庁所在地である盛岡市とを結ぶ県内の重要な東西軸を成す国道である。その歴史は大変古く、三陸地方の道路の開削にその半生を捧げた江戸時代の『みちのくの聖僧』と呼ばれた牧庵鞭牛にまで遡る。
彼は現在合併により宮古市となったかつての下閉伊郡新里村和井内に 1710 (宝永 7) 年農家に生まれ、その後出家し陸の孤島と呼ばれた三陸地方の度重なる飢饉に心を痛め、また農民の日々の不便を少しでも解消しようと身近な道路の改修を度々行っていたが、ついに、道路の整備こそ我が天命と一念発起し、住職となっていたのを引退の上残りの人生を三陸地方の道路開削に捧げることを決意したのである。実に 1750 (寛永 3) 年のことである。時に 40 歳である。
彼が手がけた道路開削は今回取り上げる国道 106 号の原形である宮古街道(閉伊街道)や現在の三陸の南北軸である国道 45 号の原形である浜街道関連やその他多くの道に及び、その総延長はおよそ 400km に達したといわれている。もちろん現代のような重機も機材もなく人力の時代にもかかわらずである。開削にあたっては巨岩を火であぶりその後水をかけ急冷させて亀裂が入ったところを砕いたりと、当時としては画期的な工法を用い次々に難所を克服していったという。また多くの場所で架橋も行ったと伝えられる。
これには当初彼を奇人変人扱いしていた地域住民達の多大な協力があることも忘れてはならない。これにより、命がけの通行を要する悪路はまさに次々に改善されていき、その恩恵は計り知れないものであったろう。
ここで取り上げる国道 106 号つまりは宮古街道に関して言えば延長 109km に及び、現在の同国道は彼が開削した道が発展したものである。当時は三陸沿岸の宮古からは海産物が盛岡へ馬で二泊三日かけて運ばれ、さまざまな物資の行き交う『五十集(いさば)の道』とも呼ばれた。
その後 1952 (昭和 27) 年の道路法の改正後二級国道 106 号となり、その後 1965 (昭和 40) 年の級の統合に伴い一般国道 106 号と名称が変更され、また幾多の改良が重ねられ現在に至っている。
その線形は区界峠を境に宮古方面へは東流する閉伊川に沿って、また盛岡方面へは西流する簗川に沿った急曲線の連続するものであったが、相次ぐトンネルや橋梁の建設に伴う改良により、現在では盛岡から宮古までを 2 時間程度まで短縮されたのである。そして、現在ではその簗川に沿う部分について簗川ダム建設による一部区間水没に伴う付替えにより、同国道は高規格道路への変貌を遂げようとしている。なお、簗川ダム建設予定地の同国道の様子については以下の調査報告書をご覧頂きたい。
本報告書はこの歴史ある道における旧道を少しずつ取りあげていく第一弾である。当国道は前述の通り改良に改良を重ねたため、至る所に旧道が存在する。まだまだ全てについて現地調査を行ってはいないことに加え、時間上の制約から個々の調査対象はあまり突っ込んで調査ができていないが、東京在住としては全て完了なんぞいつのことになるやらであるため、まずは中途半端な内容でも構わず紹介していきたい。
また、同国道は起点は宮古であり盛岡に向かうものである。これは個人的には非常に意義深いことだと思うが、第一弾である本報告書は深い理由も無く終点盛岡側からの報告となる点、及びここで言う『旧道』とは現地調査実施時点で既に供用されていない自動車が通行した道であることをあらかじめご承知おき頂きたい。つまり、前述の徒歩や牛馬の時代の『街道』ルート及びその痕跡は含まない。それはそれで非常に興味深いことには変わりはないし、現在の国道とは異なるルートであり、いつか訪ねてみたいテーマだがそこまでは調査が進んでいない。
本報告書では、同国道を盛岡から宮古へ向かって走ると最初に現れる川目トンネル周辺に残る旧道を取りあげる。同トンネルは 1972 (昭和 47) 年 9 月竣工である。もちろんこの旧道とは同トンネル開通まで供用されていたものである。
なお、本調査は遠征調査としての GNR - 第二次岩手計画の調査対象である。
調査日:2007/09/27
項目 | 内容 |
---|---|
延長 | 94.1km |
起点 | 岩手県宮古市(新川町 = 国道 45 号交点) |
終点 | 岩手県盛岡市(市役所前交差点 = 国道 455 号起点) |
道路指定 | 1953 (昭和 28) 年 5 月 18 日 二級国道 106 号宮古盛岡線 1965 (昭和 40) 年 4 月 1 日 一般国道 106 号 |
※主だったもの、若しくは把握できたもののみ。
年月日 | 事象 |
---|---|
1758 | 鞭牛閉伊街道の難所改良工事に着手、鞭牛腹帯・蟇目・茂市村・熊の穴・川井村の各地の難所を開削 |
1762 | 鞭牛川井村川井の難所を開削、鞭牛道路開発を決意して 12 年経過を記念し山田に六角塔を建立 |
1765 | 現宮古市築地付近『七もどり』の難所を開削 |
1767 | 長年の道路開発の功労を認められ南部藩主から終身扶持を受ける |
1782 | 鞭牛死去(73 歳) |
1881 | 宮古街道開通 |
1936/09/25 | 府県道盛岡宮古港線に指定 |
1953/05/18 | 二級国道 106 号宮古盛岡線に指定 |
1965/03/29 | 一般国道 106 号に指定 |
1972/02 | 川目トンネル開通 |
1972/09 | 川目トンネル開通 |
1975 | 区界トンネル開通 |
1978 | 一般国道 106 号全線開通 |
1984 | 宮古バイパス開通 |
1999/12/16 | 達曽部道路開通 |
2012 | 簗川道路開通予定 |
2025 | 宮古西道路開通予定 |
調査対象のオンライン地図である。例によって拡大縮小やドラッグも可能なので確認頂きたい。また、ラインをクリックすると簡単な説明も表示される。
今回の調査対象はご覧の通り、川目トンネル開通前まで使用されていた山がせり出し簗川が激しく蛇行している部分の旧道である。なお、破線で示した道は実質的に調査はできていないが、現地で初めて発見した調査対象であるため、今後の課題としたい。何か情報をお持ちの方は本報告書巻末のコメント欄より情報を頂けると幸いである。
地形図では、現在既に供用されていない道であるためか、旧道部分は描かれていない。もう既に過去のものになっているのである。しかし、『未調査廃道』と示した細い道は後に示すようにとてもじゃないが供用されていない雰囲気にもかかわらず今なお描かれている。この辺りの判断基準はどのようになっているのだろうか。
出展:国土地理院 地図閲覧サービス(試験公開) 1/25,000 地形図「盛岡」 ※管理人一部加工
また、岩手県では『いわてデジタルマップ』と称したオンライン地図サイトがあり、住宅地図レベルまでが参照可能であるため非常に重宝している。こちらで確認すると、冒頭のオンライン地図同様旧道はしっかりと描かれている。
出展:いわてデジタルマップ※管理人一部加工
以下のリンクより実際にオンラインで参照可能である。左側のメニューにある『主題』を『住宅地図(カラー)』に変更し、全レイヤを表示選択した上で、適宜拡大縮小して頂きたい。画面中央の赤い点が川目トンネル付近である。
1965 (昭和 40)年撮影の航空写真で確認すると、7 年後に開通する川目トンネルは当然存在せず、今回取り上げる旧道が現役である様子が伺える。また、この旧道が迂回している山は東側斜面を除いてほとんど樹木の植生が見られない。これはかつての皆伐の結果であろうか。
出展:国土地理院航空写真(地区:盛岡、作業名:MTO652、コース:C10、番号:20、撮影日:1965/06/12、形式:白黒)※管理人一部加工
同航空写真は以下のリンクより合わせてご覧頂きたい。
さらに時代が下って、1976 (昭和 51) 年度撮影の航空写真では川目トンネルは開通しているものの、旧道もまだまだ充分通行可能なように見える。しかし、宮古方の分岐から一部区間に於いてはなぜか路面が確認できず植物に覆われているように見える。また、その付近の山の斜面も影による錯覚かも知れないが、地滑りが起きたように見えなくもない。
何があったのだろうか。もしやあのアイオン台風か?! それともキャサリン台風か?! などと勝手に息巻いてみたが、そもそも年代が異なるため全くの的外れであった。しかし、何らかの自然災害により旧道は寸断されている可能性もある。また、東側以外の斜面はかつてとは異なり恐らく植林により樹木で埋め尽くされている。
出展:国土交通省 国土画像情報(カラー写真) 整理番号「CKO-76-6」(S51 撮影)※管理人一部加工
なお、この画像も以下のリンクより確認可能である。
最後に 1916 (大正 5) 年発行の旧版地形図である。これはこの地域の 1/25,000 の地形図としては最古のものである。旧道部分には崖のマークが連なり、この道の開削の苦労を偲ばせる。特に東側斜面は豪快に斜面を削り取っているようである。
また、冒頭で紹介した『未調査廃道』は破線で描かれており大正時代には既に存在した道であることが分かる。また、その道に沿って『欠ノ澤(かきのさわ)』という沢があることも確認でき、その沢が簗川に合流する地点の国道には橋が架けられていたようである。現在は同地点に橋は存在しないため、沢自体が枯れたかもしくは暗渠化されたのであろう。
さらにはこのあたりはかつて『簗川村』であったことも分かる。
出展:国土地理院 1/25,000 地形図「盛岡」(T05/04/30 発行) ※管理人一部加工
旧道の盛岡方の現国道との分岐は地図でも確認できる通り、川目トンネルの坑門のすぐそばである。現国道のガードレールもまるで『旧道はこちら』と案内しているかのように非常に分かりやすい分岐である。
ところで、冒頭にも紹介した『未調査廃道』であるが、実は上の写真の画面左側にある電柱のさらに左側に存在しているのである。トンネルの手前左側に少しだけ見える石垣はそれを支えているものである。角度を変えて見てみると分かりやすいが、石垣及び電柱の背後の崖との間にその道はる。今回は時間の関係で全く調査できていないが、このような状況から独断と偏見で廃道であると断定させて頂く。
また、画面右端あたりには『欠ノ澤』が簗川に流れ込んでいるはずであるが、この沢の存在は帰宅後旧版地形図で初めて発見した(順番が逆やろ)ため現地では確認していない。もしかすると、ヒューム管が顔を出しているかも知れない。
なお、ここに道がある証拠として上の写真にはガードレールがほんのわずかだが写っている。近づいて撮影をしていないため、その部分を拡大したものを示す。もう少し植物の繁茂が少ない季節であれば非常に明瞭に露出していると思われるが、画面左端付近に白く写っているのがそれであり、ガードレールの端部である。そしてそのまま電柱の後ろに石垣の角度で連なっている。
では、本来の調査対象である旧道に戻りたい。川目トンネルの手前で分岐してすぐに行き止まりのガードレールが現れ、そこが現在供用されていない旧道であることを知らされる。またそれは行く手の豊かな緑からも見て取れる。さらに、川側には現役当時からと思われる苔色と化したガードレールも残されており、路面もここからはアスファルトではなく砂利道と化す。
車止めのガードレールの向こう側は山奥の林道のような佇まいである。なぜかかなり新しいダブルトラックが刻まれている。それも片側二輪ずつのようにも見え、軽トラではない小型トラックのもののようである。下草もほとんどなく自動車の通行にはぬかるみさえクリアできれば問題なさそうな状態である。
また、そのダブルトラックは画面奥で左に曲がっているようである。しかし、地図で確認できるように旧道はここで左にはもちろん曲がってはいない。
ダブルトラックの直進している最奥部である。実際ここまで来てみるとダブルトラックは確かに左に曲がっているが、U ターンするだけのちょっとした広場があっただけである。写真はその U ターン広場ではなく、直進方向すなわち旧道そのものを見ている。分かりにくいがすぐ右側は簗川が流れている。
実はこのダブルトラックの終点で簗川に目をやると取水堰がある。このわずかな距離の自動車の通行はもしかするとこの堰のメンテナンスのためかも知れない。
画面の一番奥にこの堰から水路が始まっていることが確認できる。また、堰そのものは天然の巨岩とコンクリートを組み合わせたような作りに見えるが、一部が崩壊しているようにも見える。堰として現役なのか、もしくは用をなしていないのかは私には判断できない。
旧道を植物にめげずにさらに進むと、このように道であった雰囲気が感じられる場所もあるが、この先すぐに鬼のような植物の繁茂に遮られてしまう。今回のこの部分の調査は残念ながら画面最奥部辺りでの断念した。
これ以上進むことは叶わなかったが、この辺りでは川べりに目をやるとここが道路であった証とも言える石垣が残されている。一体いつの時代からここに積まれているのだろうか。今ではすっかり苔蒸し、さらに木の根っこの侵略を許してしまっている。
盛岡方の分岐付近では植物の繁茂に行く手を阻まれたため、今度は宮古方の分岐からのアプローチを試みる。分岐は盛岡方同様トンネルのすぐそばにあり、こちらは少々気づきにくいが現国道のガードレールの切れ目がその位置を示している。
川目トンネルの銘板である。冒頭で示した通り 1972 (昭和 47) 年 9 月開通である。どこかの個人サイトではさらに 9/14 の開通であることが示されていたが、私自身は一次情報源を確認できていない。なお、『川目トソネル』にも見えないこともないが気のせいである。
旧道はこの分岐より簗川に沿って急角度で山裾を進む。画面左側にはその旧道が存在しているが、余りの植物の繁茂ににわかには信じがたい光景である。少々分かりにくいが画面左端付近には川に面して石垣が部分的に残っているようである。
その石垣部分を拡大して見る。肝心なところがピンボケで申し訳ないが川に沿って石垣が続いているのが確認できる。しかしそのすぐ横には巨岩がごろごろしており、険しい自然環境を象徴しているようである。それにしても川の水の美しさには目を見張るものがある。
旧道へと進む。盛岡方同様ガードレールにより進入を防いでいるが、こちら側だけ何故かご丁寧に『通行止』の標識まで設置されている。しかし、既にこの大自然を前にしての『通行』は徒歩を以てしてもお勧めできない状況である。
少し進んで見る。このように植物が猛威を奮ってはいるが、もう少し遅い季節(調査時期は 9 月末)に来ればそこそこ歩きやすいくらいの状況だと思われる。
脇に目をやると、石垣が崩壊している箇所を発見した。大量に散乱しているのは裏込めの石だろうか。ところで、画面左端にある巨岩が実は原因でこのような状況になっているように見える。冒頭で紹介した 1976 (昭和 51) 年度撮影の航空写真で地滑りのように見える北端付近かも知れない。仮にこの仮説が正しいとするとこの先もこのような箇所が度々現れるはずである。
中途半端で何とも不本意ではあるが、今回は時間上の制約によりここまでの現地調査となった。
東京からはなかなか遠い調査対象であるが、国道 106 号は私にとっては非常に魅力あふれる道である。古くは牧庵鞭牛による開削に始まり、現在ではダム建設や岩手県の東西軸を形成する高規格道路への変貌と、今まさに同国道は変革の時期を迎えている。
そして、そのような変革には同時に何かを失うものである。今回の調査対象個所は幸いダムによる付替え部分ではないため、しばらくはこのまま大自然への回帰を続けるであろう。次回はいつになるか分からないが、初冬を目標に未踏破部分の確認とこの先の現状と例の地滑りはあったのか、その痕跡を山肌や石垣さらには簗川の状況等から確かめたい。
また、『欠ノ澤』沿いの廃道もぜひ現地調査を行いたい。何気にこの道も歴史ある道であることが判明したのだから。
最後に、宮古街道に関連する古い史料の例として、国立公文書館で発見した 1875 (明治 8) 年 12 月 24 日発行の太政官発行の文書を紹介しておきたい。『Full Screen』ボタンで全画面表示にもなるのでぜひご覧頂きたい。私のような浅学者には理解が難しいが、険しい地形での通行の困難さと道路開通による利便性の向上を高らかに唱えているように思える。
岩手県管下陸中国宮古街道ノ険路ヲ開鑿ス - .docstoc
また、以下のリンクより Google Docs で参照も可能である。お好みに応じて利用願いたい。