かつて数多く存在した多摩川の砂利採取を目的に創業した鉄道のひとつ。
2008/06/13 全写真のサイズを拡大しました。
2007/01/07 公開。
東急の重要なターミナルとして渋谷がある。かつて渋谷から以西は玉電と親しまれた玉川電気鉄道が明治の末期に現在の二子玉川までの鉄路を拓いた。その名を「玉川線」と呼んだ。いわゆる路面電車である。
さまざまな紆余曲折を経て今日では東急の重要路線のひとつである田園都市線として変貌を遂げるにいたっていおり、大井町線との接続ターミナルとしての二子玉川界隈も若者で賑わう街となった。
しかし、かつてこの二子玉川から現在の大井町線及び田園都市線とも独立した支線が存在していた。
周辺部は多摩川の流域で盛んであった砂利採取地でもあり、古代より流路変更を繰り返してきた多摩川沿岸部に多く見られる旧河床のひとつであったため河床のみならず周辺の耕地を掘ってできた「砂利穴」と呼ばれる砂利採取地が多く存在した。
ちなみに、この砂利穴とは恐らくご存じない方の想像を超える大きさである。例えば川崎市の等々力緑地も砂利穴の跡であり、府中市にある多摩川競艇場も砂利穴の跡である。
従って早くから砂利の効率的な輸送手段としての鉄道敷設が検討された。多摩川沿岸部で多くの砂利輸送線が誕生したがそのひとつとして大正 13 年(1924)3 月 1 日に砧(きぬた)線が二子玉川園~砧本村間が開業し、砂利輸送を開始した。
関東大震災の復興と重った開業当初の砧線の砂利輸送は活況を呈したようである。当時沿線は見渡す限りの田畑であり、申し訳程度の旅客輸送を伴った運行だったようである。
開業当時の駅は二子玉川園~中耕地~吉沢~本郷~砧本村であり、中間三駅は無人駅であった。
調査日:2006/05/28
年月日 | 事象 |
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1907/08/11 | 渋谷~玉川(現二子玉川)間全通(玉川線)。 |
1924/03/01 | 玉川~砧間(支線、砧線)開業。 |
1939/03/10 | 玉川線玉川駅をよみうり遊園駅に改称。 |
1939/06/01 | 玉川線、砧線砂利輸送廃止。 |
1940/12/01 | 大井町線二子玉川駅・玉川線よみうり遊園駅を統合し二子読売園駅に改称。 |
1944/10/20 | 二子読売園駅を二子玉川駅に改称。 |
1945/08/15 | 砧線及び大井町線編入区間を地方鉄道に変更。 |
1954/08/01 | 二子玉川駅を二子玉川園駅に改称。 |
1969/05/11 | 玉川線渋谷~二子玉川園間、砧線全線廃止。 |
調査対象区間の道路地図である。今回の調査は図中の「廃止区間」を対象とした。即ち砧線全線である。
さらに、砧線が写っている航空写真をご覧頂きたい。これを見ると砧線が現在の二子玉川駅から急カーブで接続していた様子が分かる。
出展:国土地理院航空写真(地区:溝口、コース:M504、番号:128、撮影機関:米軍、撮影日:1947/09/24、形式:白黒)※管理人一部加工加工
現在の二子玉川駅北側に斜めに建つ店舗(名称未確認)あたりから現在の田園都市線の西側脇を下図のように路線が通過していたと思われる。カーブの部分に沿って立つ建物形状にその名残を残している。
古い航空写真では、現二子玉川駅付近の様子が読み取れる。またその先は今からは想像もつかない田園地帯を走っていたことが分かる。
出展:国土地理院航空写真(地区:溝口、コース:M504、番号:128、撮影機関:米軍、撮影日:1947/09/24、形式:白黒)※管理人一部加工
玉川高島屋の本館と南館の間を東に進んだ道と砧線跡と思われる路地との交差点である。この路地及び右側の駐輪場近辺が廃線跡と思われる。現在田園都市線(旧、新玉川線)は高架化され、また左側には工事のものと思われるフェンスに囲まれ当時を想像するのは難しくなっている。
ちなみに、上の写真より南側旧二子玉川園駅側は以下のようになっており立ち入り不可であり未確認であるがこのルートの先に二子玉川園駅があったと思われる。
最初の写真の小道を北に進み、一旦道がクランク状に折れる地点より北西側を見ると玉川高島屋 SC の立体駐車場が見えるがその敷地形状は境界塀による砧線の旧カーブそのものである。正面右の住宅は旧線路敷きに建っていることになる。これ以降玉川高島屋 SC の前の道を横切るまでの痕跡は発見できなかった。
玉川高島屋 SC 本館の北側にある駐車場の南側脇に小道となった砧線跡が続く。当然ここには踏切があったと思われるが変化の激しい街の目抜き通りとも言える場所であるため、痕跡は皆無であった。ここから吉沢駅手前まで直線が続く。
実はここで、大発見があった。上の写真の右側に建っている女性のすぐ横にある白い立て看板には、聞き捨てならない文字が踊っていた。
ご覧頂けるだろうか。『SL バスのりば』である。ということは、なんとこの女性は『SL バス』を待っているというのか。ほどなくして、それは我々の目の前に入線したのである。
『SL バス』である。この矛盾する二つの単語を組み合わせた乗り物はかなりイカすバスであった。思わず声を上げてしまった。そしてやはり先ほどの女性はこのバスに乗車したのである。
かつて砧線はバスのすぐ後ろを左の小道に向かってこの道路を横切っていた。今はなんと道路上の『SL バス』がかつての砧線跡を横切っているのである。いろんな意味でひっくり返っている。素晴らしい。ところで砧線は開業当初より電気鉄道あるため SL とは無関係ではあるが、あっぱれな絵である。
では、『SL バス』のイカす顔をご覧頂こう。前照灯及びプレートも装備しており D51 の 2004 号機であることが確認可能である。下の二つの前照灯もどきと白いプレートは現代の世をはばかる仮の姿であろう。デフは『門デフ』とは異なるようなので私のふるさとである九州は福岡仕様ではないようである。時間的制約により乗車は叶わなかったが、調査対象リストに新たに加わったのは言うまでもない。
砧線跡の小道の上空を今は国道 246 号が横切っており、それを過ぎるとこのような直線を進みまもなく中耕地駅である。
国道 246 号直下より中耕地駅方面はこのような小道となっており単線だった軌道敷の幅のままではないだろうか。
中耕地駅跡である。二子玉川園方面を望んでいる。正面のレンガ色のビルと手前の白いビルとの敷地形状のずれがかつての駅舎の存在を思わせる。左側の小道が軌道跡である。二子玉川園方面を望んでいる。
中耕地駅跡には砧線を偲ぶ各種のモニュメントが存在し、楽しい。いくつかを紹介する。
中耕地駅跡を過ぎると一直線の線路跡がそのまま遊歩道として整備されており野川を直角渡るため急カーブを描き吉沢駅へ向かう。その後戦時中に廃止された本郷駅を過ぎ、終点砧本村駅を目指していた。
ちなみに、古い航空写真によると上図の「砂利穴跡地利用?」と追記した部分は池のように見えるため、冒頭で触れたかつての砂利穴と思われる。
出展:国土地理院航空写真(地区:溝口、コース:M504、番号:128、撮影機関:米軍、撮影日:1947/09/24、形式:白黒)※管理人一部加工
吉沢駅へ向かう直前の急カーブは現在もそのまま遊歩道として追体験可能である。全区間単線であったが中耕地方面を望む下の写真では中央の植林を挟んでまるで複線のようにも見える。
急カーブを過ぎると多摩堤通と交差し吉沢駅へ至る。ここより砧本村までは砧線代替バスが今も走っている(写真中央)。バスのすぐ奥が野川に架かる新吉沢橋(道路橋)であり、銀色の車が写っている辺りが駅舎跡と思われる。
宅地化された吉沢駅の痕跡は皆無であるが上の写真の右側のガードレールの辺り敷地境界標がいくつか確認できる。
吉沢駅跡を過ぎるとすぐ野川を渡るが、開業時は野川橋梁の中央にも橋脚が存在し二径間であったが、昭和 39 年に一径間のガーダー橋に架け替えられた。このガーダー自体は町田川橋と銘板の張られた昭和 2 年製の転用品だったらしく、砧線廃止後新吉沢橋として道路橋に生まれ変わった際もそのままさらに転用され続けたとのことである。
しかし、調査に訪れた際この道路橋は架け替え工事が始まっており、ガーダー橋は撤去されており仮設の迂回路により川を跨いでいた。写真は野川の対岸より吉沢駅跡を望んだものである。
ちなみに、新吉沢橋よりのすぐ上流側には別の道路橋(人道橋?)が架かっていたがこれも架け替え工事対象のようで同じく撤去されていた。架け替え完了は平成19年3月とのことである。おまけとして工事全体のパノラマ写真をあげておく。左端が吉沢駅側であり、画面中央に向けてガーダー橋で渡っていた。
野川を渡った後は緩やかな右カーブを描きながら本郷を目指していた。写真は工事に伴う二つ手前の写真の右側に写っている仮設道路を渡り切った地点より本郷方面を望んだものである。本来は中央の白線より右側から画面中央へ進んでいた。
本郷駅には砂利ホッパーが存在し、多摩川の川原からトロッコで運ばれた砂利を積み出していた。が、駅跡と思われる場所にはマンションが建ち痕跡は全くない。
本郷駅を過ぎると砂利穴だった二子玉川園スポーツセンターを右側に見ながら緩やかな右カーブを描いて終点砧本村を目指していた。右側の窪地がかつての砂利穴の跡地を利用した二子玉川園スポーツセンターである。
旧版地形図では本郷駅から砂利採取のための引き込み線があったようである。上の写真の左側の電柱部分を左に覗き込むとこのような路地があった。これがその引込み線と関係があるのか確証は現在持ち合わせていないため、情報をお持ちの方の連絡を待ちたいところである。
かつて砂利穴を右側に眺め、そのまま今度は左側に浄水場を通り過ぎたその先に砧本村駅はあった。下図のように砧本村駅手前にも砂利穴が存在し周辺での砂利採取が盛んであったことが想像される。なお、浄水場中央から北東に伸びる一直線の道路は引込み線あるいは浄水場建設時の資材運搬軌道等の鉄な気配を感じるが現時点では全く情報を持ち合わせていない。
古い航空写真では砂利穴の巨大さが実感頂けるだろう。
出展:国土地理院航空写真(地区:溝口、コース:M504、番号:128、撮影機関:米軍、撮影日:1947/09/24、形式:白黒)※管理人一部加工
上図の右側の二つの砂利穴跡地に挟まれた部分を砧本村方面より望んだ軌道跡である。左側の窪地が二子玉川園スポーツセンターであり、右側のアパートが砂利穴を埋め立て周囲の土地と同じ高さに戻ったと思われる土地に建つ社会保険庁玉川宿舎である。
なお、写っているバスは砧線亡き後の同区間(二子玉川駅~砧本村)を走る東急バスである。この辺りは一方通行であるため当バス路線は往路(二子玉川駅→砧本村)のみであり復路はない。
上の写真をバスの向きにそのまま進むと浄水場からの斜め一直線の道路との交差点へ出る。写真は同交差点より本郷駅方面を望んでいる。この辺りもかつては見渡す限りの田園風景であったが鉄道らしいカーブのみを残してすっかり変貌を遂げている。
線路は浄水場を左に見ながらここから先は直線で終点砧本村駅を目指していた。砧本村駅から本郷駅方面を見ると、かつての砂利穴跡地と接している部分の道路幅が広くなっている(写真中路駐している車の辺り)。これは全くの想像であるが例えば砧線の砂利積み込み設備もしくは側線等の名残だろうか。
上の写真の地点より終点砧本村駅跡の公園を望む。かつては道路の左側部分を公園の中に向かって一直線に線路が伸びていた。右側の空き地がかつての砂利穴跡地の南端である。
調査時には宅地の分譲地として若い夫婦と思しき男女が不動産業者と話をしていたが、砂利穴のことはご存知なのだろうか。
では、宮脇俊三氏をご存知の方にとってはお待ちかねの『鉄道廃線跡を歩くⅢ』の P80 の老松付近の現状である。上の写真の右側側の空き地にあったが不動産業者による分譲中であり砧線現役時代を見つめてきた老松は残念ながら既にそこにはない(撤去時期不明)。
かつての砧本村駅は公園となっており、砂場付近がホームだったらしい。写真は今まさに往年の角度そのままに(ちょっと違うが)砧本村駅に入線する愛車である。
なお、公園の奥は前述の東急バスの終点「砧本村」停留所であり、転回場となっている。中央の公園がかつての「砧本村駅」である。またこの写真を撮っている背中にはかつての「わかもと」工場の跡である、大学グランドがある。ちなみに、「強力わかもと」は子供の頃よく飲まされたので微妙に感慨深いものがある。
東急の重要なターミナルの一つである二子玉川から砂利採取のため、今では想像もつかない単線の路線が存在しそして消えていったが一部は遊歩道として整備されていることもあり廃止後 40 年近く経過しているにも関わらず比較的痕跡を留めていると思われる。
ただし、今回の調査では途中唯一の構造物遺構である野川橋梁の架け替え工事及び砧本村駅付近の老松の撤去という二つの変化を目の当たりにした。これらは砧線の現役時代を語る上で重要なアイテムであったと思われるし私もこれを見たかったのであるが残念である。
多摩川周辺の鉄道は「砂利」というキーワードとは切っても切れない縁があり、またその先には多摩川の歴史や周辺地域の発達の歴史も加わり興味は尽きない。例えば二子玉川周辺はかつて瀬田河原と呼ばれていたことをご存知だろうか。