かつての広大な操車場跡に架かる明治時代の元鉄道橋。
2010/03/22 廃線調査報告書 JR 東日本南武線貨物支線跡【矢向~川崎河岸】へのリンクを追記しました。
2009/06/28 動画コンテンツを追加しました。
2008/06/17 一部記述及び写真追加と全写真のサイズを統一しました。
2008/06/09 公開。
東の新鶴見、西の吹田と呼ばれた日本を代表する操車場の東の雄である新鶴見操車場。昭和 4 年に開業したこの巨大な操車場は京浜工業地帯を支えたまさに縁の下の力持ちであった。
京浜工業地帯に程近い田園地帯に突然姿を現した巨大操車場のために、この操車場を経由し品川と鶴見を結ぶ東海道線の支線である通称品鶴線まで誕生している。
高度成長期と呼ばれた激動の昭和時代を駆け抜け、昭和 40 年に実施された最大の拡張工事の結果一日に最大約 5,600 両の貨車を捌いたと記録されている。ところが実際には約 8,000 両くらい捌いていたとのことである。
その巨大さは下に掲載した地図を拡大・縮小してみて全体を確認してみて頂きたい。
しかし、トラックに代表されるモータリゼーションの影響により鉄道貨物の衰退の結果、ついに昭和 59 年 2 月 1 日のダイヤ改正により操車場の機能を廃止した。また、それに先立つ昭和 55 年には東海道線と横須賀線の分離(通称 SM 分離)の結果品鶴線には横須賀線の電車が走り操車場の北端付近には新川崎駅が開業した。まさに昭和と共に歩んだ歴史であったと言えよう。
もちろん、このような巨大な操車場はいいことばかりではない。
現在の南武線の前身である南武鉄道が府中街道に沿って計画していた路線敷設ルートもこの操車場により計画変更を強いられ、現在のように向河原~武蔵小杉間の急カーブを生む原因にもなっている。
また、その巨大さ故に地域分断の影響も巨大であった。その敷地内にあった鹿島神社は移転を余儀なくされ、また操車場により分断された地区の行き来は操車場内に設置された三本の跨線橋のみとなってしまい地域住民によっては大変な不便をかけることになってしまったのである。
その跨線橋は南から江ヶ崎、小倉、鹿島田と呼ばれまさに分断された地域名を表している。このうち小倉、鹿島田の跨線橋は後年架け替えられたが江ヶ崎跨線橋だけは操車場開業当時のまま現在も地域のインフラの役目を果たし続けている。
ところが、この江ヶ崎跨線橋は 4 径間より構成されているが、プレートガーダーとトラスが入り混じる独特の姿をしている。そして実はこれらが以前は別の橋として使用されていた桁を転用したものなのである。
具体的には東詰より以下の三形式の桁が架けられている。
これらのうち、ポニーワーレントラスは現在の JR 東日本東北本線赤羽~川口間(当時は旧日本鉄道本線王子~浦和間)隅田川橋梁の転用であり、プラットトラスについては現在の JR 東日本常磐線南千住~北千住間(当時は旧日本鉄道海岸線北千住~松戸間)荒川橋梁の転用である。
そして、これらの鉄道橋はそれぞれ1884(明治 17)年及び1896(明治 29)年に架けられた大変貴重なものなのである。またそれ故に道路橋でありながら『廃線調査報告書』として取り上げているのである。
ところが、プレートガーダーについては後述するように構造形式の特徴からトラス桁と同様に鉄道橋から転用と思われるが、現時点では出自を確認することができなかった。これについては情報が入手でき次第追記したいと考えている。
私のような輩にはこのような歴史ある橋梁は大変素晴らしいものであり、このように報告書なんぞを書いたりしているが実際に日頃利用している地域住民にとっては老朽化や明治時代のスペックからくる道路幅員の狭さ、またそもそも歩道も申し訳程度という使い勝手がよいとは言えない道路橋でもある。
それを受けて川崎市と横浜市では同跨線橋の架け替えを計画している。事業年度は平成 17 年~平成 22 年となっており、あと数年でこの歴史ある橋梁は姿を消し、近代的で快適な道路橋へと生まれ変わる予定である。
本報告書では現在の同跨線橋の様子と、転用元であった鉄道橋時代の資料についても私が知りえた範囲ではあるがあわせて紹介したい。
調査日:2007/09/17
項目 | 内容 |
---|---|
竣工 | 1929(昭和 4)年 8 月 21 日(旧新鶴見操車場開業日) |
所在地 | 神奈川県川崎市幸区鹿島田・小倉地区 |
構造・桁数 | プレートガーダー 1 連(材質未確認) 100ft ポニーワーレントラス 1 連(錬鉄) 200ft プラットトラス 2 連(鋼鉄) |
全長 | 178.7m |
設計者 | 不明(旧国鉄 ?) |
※詳細不明
項目 | 内容 |
---|---|
着工 | 1883(明治 16)年 4 月 |
竣工 | 1884(明治 17)年 2 月 |
正式名称(移設前) | 荒川鐡橋(?) → 荒川橋梁 |
所在地(移設前) | 旧日本鉄道本線(現 JR 東日本東北本線)王子~浦和間(当時)荒川渡河部 |
構造 | 100ft 下路ポニーワーレントラス |
全長(1 連) | 30.175m |
桁数(現在) | 4 連 |
設計者 | ポーナル |
製作者 | 英国 Andrew Handyside 社 |
項目 | 内容 |
---|---|
着工 | 未確認 |
竣工 | 1896(明治 29)年 12 月 25 日(旧日本鉄道海岸線(旧土浦線)上野~熊谷間開通日) |
正式名称(移設前) | 隅田川橋梁 |
所在地(移設前) | 旧日本鉄道海岸線(現 JR 東日本常磐線)北千住~松戸間隅田川渡河部 |
構造 | 200ft 下路プラットトラス |
全長(1 連) | 62.738m |
桁数(現在) | 2 連 |
設計者 | 未確認 |
製作者 | 未確認 |
調査対象周辺の航空写真である。地図上でマウスホイールによる拡大や縮小、さらにドラッグによる移動や上部メニューによる地図への切り替えも可能なのでご利用頂きたい。
冒頭にも触れたように調査対象の江ヶ崎跨線橋が架かる旧新鶴見操車場の跡地の広大さを感じて欲しい。
大正 14 年に発行された同地域の地形図である。川崎駅はもちろん存在するが、同駅に乗り入れる南武鉄道(現 JR 東日本南武線)や冒頭で述べた品鶴線もまだ開業していない。ちなみに、南武鉄道の最初の開業区間である川崎~登戸間は昭和 2 年の開業である。
また南部鉄道は大正 9 年に当初は多摩川砂利鉄道という社名で鉄道敷設免許を取得しており約一ヶ月後に南武鉄道と改称した上で会社設立を果たしている。当初の社名からこの鉄道の設立目的が伺えよう。
この地形図が発行された大正 14 年は当然路線ルートの検討もかなり進んでいた時期と思われ、新鶴見操車場計画によりルート変更を余儀なくされていた時期であろう。
出展:国土地理院 1/25,000 地形図「川崎」(T14/02/28 発行) ※管理人一部加工
新鶴見操車場開業後に発行された同地域の地形図である。鉄道空白地帯とも言えた田園風景の中に同操車場を含む品鶴線、南武鉄道が開業し一気に賑やかになっている。
この地形図からも操車場建設による地域分断のスケールの大きさが見て取れると思う。操車場自体は掲載した範囲よりもさらに北にはみ出しているのである。
調査対象である江ヶ崎跨線橋の位置を示した。分断された地域を結ぶ数少ない重要な跨線橋であることがお分かり頂けるだろう。
ちなみに、同跨線橋の東に目を向けると吹き出しで隠れているが南部鉄道矢向駅付近から東の多摩川の河原へと延びる『貨物線』が確認できる。これが同鉄道の設立目的である多摩川の砂利採取のための貨物支線の一つなのである。
この貨物支線についても現地調査済みであるため別途報告したい。→ 報告書を公開したので以下のリンクよりご覧頂きたい。
出展:国土地理院 1/25,000 地形図「川崎」(S07/10/30 発行) ※管理人一部加工
調査対象である江ヶ崎跨線橋の北隣にある小倉跨線橋より俯瞰した全景である。眼下に広がる広大な空き地が旧新鶴見操車場跡地である。
現在川崎市により『新川崎地区整備事業』として同跡地の再開発事業が進められているが、まだまだ調査時点ではこのような状態でありかつての同操車場の規模を肌で感じることが可能である。
写真では左端(同跨線橋東詰)を貨物列車が通過しており、その大きさからも以下に巨大な操車場であったかが想像できよう。
写真では分かりづらいが同跨線橋が異なる形式の桁が入り混じっているのが確認できる。その結果各構造形式により径間もそれぞれ異なっているのである。
同じく北側から見た同跨線橋である。それぞれの桁が別々の歴史を持っているが、こうやって同じ色に塗装され桁高の低い順番に並べられると何となく不思議な一体感のようなものを感じる。
一番手前のプレートガーダーを除いた二つのトラス桁については様々な Web サイトで取り上げられている結果、特に最も奥のプラットトラス桁については見た目も大きくかなり有名な存在のようである。
東詰から見る。手前から段階的に桁高が増していく様子が分かる。私のような構造物好きにとっては堂々たる素晴らしい眺めである。
しかし、敢えて自動車を写していないが乗用車の離合がいっぱいいっぱいといったところで、写真左側に見えるなんちゃって歩道は歩くのには危険を伴うし、実際歩いてみるとドライバーからは怪訝な顔をされる場合も多い。
同跨線橋は神奈川県により『かながわの橋 100 選』に選ばれており、プレートガーダーの東端にそれを示す銘板が取り付けられている。上の写真にも分かりにくいが写っている。
ここからは各桁を見ていきたい。まずはプレートガーダー桁部である。迂闊にも全景写真を取り損ねてしまったため、いきなり詳細写真である。
他のトラス桁と異なりこの跨線橋建設の際に新造されたのか、既存の桁を転用したものなのかが不明な桁である。ここでは私の浅学な切り口で考察してみたい。
まず、各部材の接合にリベットを使用していることから単純に古いということは分かる。ちなみに、リベット接合からボルト接合に一般的に切り替わるのは概ね昭和 30 年代以降であるため、同跨線橋が供用を開始した昭和 4 年に新造されていても違和感はない。
ところが、この接合部にもう少しヒントがあると思い調べてみると、巻末にも紹介した『鉄道構造物探見』にて同様の接続形式を持つ鉄道橋の写真を発見したのである。
その鉄道橋が JR 九州日豊本線(宮崎~南宮崎)大淀川橋梁である。鉄骨の接合部にある添接板と呼ばれるプレートの形状、さらにはリベットの配置まで全く同じではないだろうか。またスチフナーと呼ばれる一定の間隔で取り付けられた縦方向の補剛材の形状も同じである。
出展:小野田滋『鉄道構造物探見』(JTB 2003 年 1 月) ※管理人一部加工
この接合形式は現在の JR が鉄道院という名称になってから最初に制定された達第 680 号式と呼ばれる上路プレートガーダー橋の標準設計に準拠したものなのである。
同通達は 1909(明治 42)年 8 月 3 日に制定され、設計荷重として E33 を想定し、径間 40 ft(フィート)以上の場合の添接板にはモーメントプレートと呼ばれるプレートを追加しているのが特徴となっている。
もう一度上の二つの写真を見比べて頂きたい。私には同一形式にしか見えない。
このことから、このプレートガーダーも他のトラス桁同様明治時代末期及び大正初期頃に架けられた元鉄道橋を転用したものであると考えられないだろうか。
というのも次に制定された代表的な通達は達第 540 号と呼ばれ 1919(大正 8)年 6 月 12 日のものなのである。従って、両通達の間に設計製造された桁である可能性が高いと考えられ、同跨線橋を建設する際他の大きなトラス桁が転用なのにこのプレートガーダー桁のみが新造されたとは考えにくく思える。
出展:小野田滋『鉄道構造物探見』(JTB 2003 年 1 月) ※管理人一部加工
ちなみに、このプレートガーダーと隣のポニーワーレントラスとを並べて見てみても同じ色だからということもあるが、あまり違和感を感じない。
ちなみに、上述の達第 680 号式の鉄道橋だったとすると、この通達はあくまでも上路プレートガーダーの標準設計であるため、現在まるで下路プレートガーダーのように転用されているので転用元時代を想像するのに少々苦労する。
次に、ポニーワーレントラス桁部である。この桁は冒頭に述べた通り、明治 17 年完成の旧日本鉄道の荒川橋梁の転用である。
設計はイギリス人技師ポーナルである。彼は我が国の鉄道黎明期の鉄道橋の設計に多大な貢献をしており、我が国最初の標準桁として制定された作錬式と呼ばれるプレートガーダー標準設計も彼の設計によるものであり俗にポーナル桁やポーナル型などと呼ばれている。
明治時代のイギリス式の鉄道トラス橋の特徴でもある骨太な印象が健在である。
トラス端部の詳細である。主桁の骨太さに比べて斜材の繊細さのアンバランスがいかにも明治時代のトラスと言った感じで味わい深い。
また、格点のゴツいボルトによるピン接合も大きな特徴であるが通常なかなかこのように間近に見れないものであるため、こういった橋が消えていく運命にあるのはさびしいものである。
斜材の詳細である。なんというかハニカム構造というかなんというか細かいプレートが埋め込まれているである。しかし対になる斜材にはこのプレートが存在しない。どういう理由なのだろうか。鋼材の節約なのだろうか。
転用前の旧日本鉄道荒川橋梁の史料として工学会誌『荒川鉄橋建築工事報告』を紹介したい。まずは広域概略図である。このワーレントラスが架けられた頃の荒川橋梁周辺の様子が分かる。
なんという田園っぷりであろうか。ちなみに同地域の現在の地図と比較して頂きたい(方角注意)。
この図の荒川を越える部分に架けられた 4 連のトラス桁のうちの 1 連が運ばれて道路橋として第二の人生を過ごしているのである。
出展:河野天端著工学会誌第 4 号第 48 巻『荒川鉄橋建築工事報告第一』(工学会 明治 18 年) ※管理人一部加工
続けて同資料からの側面図と俯瞰図である。略図ではあるがワーレントラスの形状が読み取れる。また幅員も複線幅であることが分かる。
出展:河野天端著工学会誌第 4 号第 48 巻『荒川鉄橋建築工事報告第一』(工学会 明治 18 年) ※管理人一部加工
橋脚部である。明治時代の典型的な円形ウェル 2 基の上に欠円アーチが載るものである。第六図にワーレントラスの一部が示されている。
出展:河野天端著工学会誌第 5 号第 49 巻『荒川鉄橋建築工事報告第二』(工学会 明治 19 年) ※管理人一部加工
ワーレントラス桁詳細である。骨太の主桁、ハニカム形状のプレート等の構造がしっかり記載されている。また、幅員も複線幅を確保しているが当初は単線の線路が中央に敷設されていたことも分かる。
出展:河野天端著工学会誌第 5 号第 49 巻『荒川鉄橋建築工事報告第二』(工学会 明治 19 年) ※管理人一部加工
今回直接関係はないが、避溢橋としてのトラス桁前後のプレートガーダー部詳細である。実は当初このプレートガーダーが江ヶ崎跨線橋に転用されたのではないかと疑ったが、残念ながら図面右に示されている断面図よりスチフナー形状がいわゆる J 型のいわゆるポーナル型であり異なるため、撃沈であった。
プレートガーダー桁は全国で多数架けられたため、江ヶ崎跨線橋の転用元となった橋梁を特定するのは私のような素人にはかなりハードルの高いものではあるが気長にチャレンジしてみたい。
出展:河野天端著工学会誌第 5 号第 49 巻『荒川鉄橋建築工事報告第二』(工学会 明治 19 年) ※管理人一部加工
なお、同資料には荒川橋梁の建設の様子が挿絵として示されている。当時の施工方法を示すものとして非常に興味深い。
出展:河野天端著工学会誌第 5 号第 49 巻『荒川鉄橋建築工事報告第二』(工学会 明治 19 年) ※管理人一部加工
次に江ヶ崎跨線橋の西半分を占めるプラットトラス桁部である。これまでの二形式と比較してその大きさが際立っている。
この桁も冒頭で述べた通り、元鉄道橋からの転用である。旧日本鉄道海岸線(現 JR 東日本常磐線)北千住~松戸間の初代隅田川橋梁である。かつてこのトラス橋を SL が駆け抜けていたのである。
正面から望む。上の写真とあわせて見ると分かるように橋門構と対傾構が特徴的であり独特の形式美を醸し出している。
対傾構を内側より望む。私のようなへたれが撮った逆光の写真も被写体が素晴らしいため、なんかそれっぽく写っている。
主桁を見上げる。膨大の量のリベットが使用されていることが分かる。また、隣に架けられたポニーワーレントラスと比較してスリムな印象である。
再び対傾構である。今度は順光である。なんと言うかこの対傾構のおかげでこの桁高が必要になったのか、この桁高があったから補強の意味でこの対傾向が加わったのかどちらなのであろうか。
しかし、この対傾構があるため電化するには有効高が足りないと思われる。
支承部詳細である。これは西詰側である。いわゆるローラー端と思われる。東側の支承部は同跨線橋中央部にあるため確認不可であったが、おそらくピン構造であろう。ちょっと構造設計の世界で申し訳ない。
転用前の史料として、隅田川橋梁としての役目をまさに終えようとしている時の様子をご紹介したい。以下の資料は昭和 2 年発行の土木建築画報に掲載された同年施工の常磐線隅田川橋梁の架け替え工事を紹介した記事である。
この工事によって現在江ヶ崎跨線橋で使用されているプラットトラスが鉄道橋としてのその最初の人生に一区切りをつけられたのである。
下の写真はまるで異なる時代に架けられた新旧の橋桁が並んでいるように見えるがそうではなく、右側の常磐線(旧日本鉄道海岸線)のトラス桁を左側に仮置きされた新トラス桁に交換する直前の様子なのである。
交換は旧桁を横に設置された仮設ステージングの上へスライドさせ、今度は新桁を旧桁の位置にスライドさせることによって行われた。写真の右側に見える黒い木製のステージングがそれであり、移動された旧桁はこの上で解体されたのである。
当然、この工事が昭和 2 年の実施で江ヶ崎跨線橋の供用開始は昭和 4 年であることから、転用に備え丁重に解体をされたのであろう。
出展:志賀僑介著土木建築画報第 3 巻第 9 号『常磐線隅田川橋梁 200 尺構桁更換工事』(工事画報社 昭和 2 年 9 月) ※管理人一部加工
上の写真を図に示したものである。上の写真と合わせて新旧の桁の大きさの違いが見て取れる。また、このトラス桁の特徴でもある橋門構と対傾構も当然であるが、そのままである。
両側に仮設ステージングを設けスライドさせるのである。交換する 2 連のうち最初に施工した 1 連については以下の図のように新旧桁間を緊結し、なんと同時にスライドさせたのである。
ところで幅員も大きくなっているが、この旧桁でも複線だったのが少々驚きである。
出展:志賀僑介著土木建築画報第 3 巻第 9 号『常磐線隅田川橋梁 200 尺構桁更換工事』(工事画報社 昭和 2 年 9 月) ※管理人一部加工
最初の一連の交換が完了し、既に列車も運行している時点での様子である。写真は本線上より撮影され手前の旧桁 1 連が仮設ステージングに移動しているのが分かる。また本線の奥には移設前の旧桁とその傍らに移設に備えた新桁が写っている。
本線上は単線分のみ復旧しているようなので工事期間中は単線対応の特殊ダイヤが組まれていたのであろう。
出展:志賀僑介著土木建築画報第 3 巻第 9 号『常磐線隅田川橋梁 200 尺構桁更換工事』(工事画報社 昭和 2 年 9 月) ※管理人一部加工
交換対象であるトラス桁部分の側面から見た新旧比較図である。旧桁がいわゆる平行弦トラスであったのに対し、新桁は曲弦トラスに変更されたのが分かる。しかし、どちらかというかその後時代が下るにつれ平行弦トラスが主流となっていくため、この当時なぜ曲弦トラスが選択されたのかが興味を誘うところである。
出展:志賀僑介著土木建築画報第 3 巻第 9 号『常磐線隅田川橋梁 200 尺構桁更換工事』(工事画報社 昭和 2 年 9 月) ※管理人一部加工
参考として、新桁に取り付けられたスライド用の『豆トロ』である。また移動時の牽引用であろうかワイヤーとロープが組み合わされたようなものも見える。
ちなみに、これら桁の移動はスチームウインチと手巻きウインチで実施されたとのことである。具体的には例えば第 2 連の交換作業の際は旧桁の移動にスチームウインチで約 8.5 分を要し、その後新桁の移動を手巻きウインチで約 40 分かけて行ったのである。
出展:志賀僑介著土木建築画報第 3 巻第 9 号『常磐線隅田川橋梁 200 尺構桁更換工事』(工事画報社 昭和 2 年 9 月) ※管理人一部加工
また、次に上の豆トロを設置する前の旧桁の支承部の様子である。何気に古レールと思しきレールと角材で支えられている。ちなみに、撮影時点では当然列車は運行中であることが注釈されている。
ここにこの写真を紹介したのは私が撮影した最後の写真に示した支承との比較のためである。特徴的な二つの穴がそのままであることが分かる。
隣に微妙に映っているプレートガーダーが江ヶ崎跨線橋にあるものと同じようなリベット配置を思わせるが写真では分かりくいが既に前述の通り図面上でスチフナー形状が異なるため、不正解である。
また、そもそもこの新旧桁更換工事はトラス部のみであり、その前後のプレートガーダーは単に嵩上げ工事を併せて実施したとあり、もはや決定的である。
出展:志賀僑介著土木建築画報第 3 巻第 9 号『常磐線隅田川橋梁 200 尺構桁更換工事』(工事画報社 昭和 2 年 9 月) ※管理人一部加工
なお、土木デジタルアーカイブスの『土木貴重写真コレクション』というページがあり、その中に移設前の現役時代と思われる隅田川橋梁を撮影した写真があるのであわせてご紹介したい。
出展:土木デジタルアーカイブス『土木貴重写真コレクション 4. 鉄道』(鉄道関連等~その他) ※管理人一部加工
なお、出典元の写真ははるかに高解像度で閲覧可能であるのであわせてご覧頂きたい。
最後に同跨線橋でも微妙に古レールを再利用した柵があった。残念ながら刻印は発見できなかったが、比較的断面が大きいためかなり後年になってから設置されたものだと考えられる。
知らない人から見ればただの錆びた古い鉄橋なのであろうが、最初に鉄道橋として架けられて以来優に 100 年以上に渡って交通の便に貢献した歴史ある橋なのである。
しかし、その結果スペック的に現代とはそぐわなくなってきているのも事実であり老朽化による危険性の増大も安全面から懸念される材料でもある。個人的にはあくまでも自動車の通行を前提とするからそうなのであって、例えば思い切って歩行者専用道路としてであれば全く問題ないのではないかなどと想像したりするが、利用者の観点から見ればそれはそれで不便さの増大につながるのであろう。
橋の両詰が属する川崎市と横浜市が進めている同跨線橋の架替事業も今のところ現場での動きは見られないが、時間の問題である。
宿題としてプレートガーダー部についてのさらなる調査及び、今回の現地調査では発見できなかった鉄骨銘板の捜索や各桁の床組についての調査等が思い浮かばれる。追って紹介したい。
最後に同跨線橋上を通行した際の動画及び同跨線橋上より撮影した品鶴線を走行する貨物列車及び同跨線橋のすぐ北側から分岐する南武線貨物支線(尻手短絡線)へ入線する貨物列車の動画をご覧頂きたい。