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古レール JR 東日本東海道本線【東京駅】

上り列車の存在しない駅の古レール。

2008/11/15 公開。

概要

東京駅。今さら説明も不要なほどあまりにも有名であり、数多くの路線の起点を務める我が国を代表する駅である。旧国鉄時代より全ての列車がこの駅に向かって『上る』のである。従って、この駅からの『上り』列車は存在しない。

開業は 1914 (大正 3) 年 12 月 20 日。既に 90 年以上の歴史を持つ駅である。都心に住んでいるか通っている人にとってはこの巨大なターミナル駅ですら今ここにあるのが当たり前に思えるかも知れないが、この駅の開業までには大変な紆余曲折があったようである。詳細は当報告書末尾に記載の参考文献に譲るが、それまで東京都心部の鉄道は概ね以下のように各ターミナルが分散して存在し、それぞれレールはつながっていなかったのである。

これを見ると明らかなように肝心の東京の中心で鉄道網の南北軸と東西軸が断絶していたのである。この後これらの各鉄道会社は国有化や路線延長を経て、さらに明治中期に策定された東京の都市計画である『市区改正』の中の交通インフラの整備として新橋駅と上野駅とを結ぶ高架鉄道が『市街高架線』として定義され、そしてまさにその中央に『中央停車場』として計画されたのが現在の東京駅である。ちなみに『市区』や『市街』といった用語は当時は東京都ではなく、東京市であったからである。

駅舎の設計も途中日露戦争の勝利による国家意識の高揚やそもそも皇居の真正面でもあり、いつのまにか『国家の象徴』としての建造物としてなされることとなった。当時は駅舎は現在の丸の内側のみであり、八重洲側は外濠通りがその名の通り外濠で駅舎及び改札口もなかったのである。また、現在丸の内北口と同南口として機能しているドームのある両端部はかつて乗車用と降車用に分けて使用され、中央は皇室専用の出入り口という極めて利便性の低いものであった。

しかし、入念な施工により開業から 9 年後の 1923 (大正 12) 年 9 月 1 日には関東大震災に際しても大きな被害はなく、当時の施工技術の確かさは証明されたのである。ちなみに杭は松材である。

その後常に構内拡張工事が続けられ、駅の規模は巨大化していったが太平洋戦争で被災し、仮復旧のまま現在に至り竣工当時とは異なる表情を見せているのが現在の丸の内駅舎である。しかし、2007 年には JR 東日本により竣工当時の姿に『復原』する工事が着手された。2011 年頃に完成の予定である。何度も取り壊しが取り沙汰されたが、開業から約百年を経て竣工当時の姿を我々は目にすることができるのである。

鬼のような役に立たない概略を記したが、大変に意義深い駅と言える。現代においても新幹線や東北本線の東京駅延長(東北縦貫線計画)など常に変化し続ける駅でもある。

このような数多くの改良工事を経た駅に果たして古レールなんぞ残っているのか、というのが現地調査前の率直な感想であった。東京に住んで十数年も経ち、あまり古レールの印象のない駅という認識であった。しかし例によって机上調査なしに東京駅に向かい古レールを探した。

結論としては東京駅にも古レールは『存在する』。

調査日:2008/04/19

調査結果

架構

東京駅では中央線ホームが二階に上がってしまうほどの度重なる改良工事の結果、我々が通常古レールを最もよく見かけるホーム上屋には一見したところ古レールはない。しかし、実は現在の 5、6 番線ホームの有楽町方に残っているのである。

写真はとなりの 7、8 番線ホームからの眺めである。

ただし、この古レールで構築された上屋部分は我々一般旅客は立ち入り不可の区域なのである。幸いにして低い柵のみであり駅関係者も比較的頻繁に通行するため、何となく気がねしてしまいそうになるが観察は充分可能である。ただし、刻印の調査となると双眼鏡(持参するのを忘れた)やロケットランチャーのような望遠レンズ(持っていない)の準備が望ましい。

JR 東日本東海道本線【東京駅】古レール全景

古レール使用部の拡大である。上の写真のほうが分かりやすいが、旅客ホーム上屋としてはかなり軒高が高く感じられる。さらに最奥部に至っては長編方向のトラス部がさらに桁高が低くなっている。荷物上屋の名残りなのだろうか。

以前何かの媒体で東京駅に荷物車が停車している古い写真を見かけたことがり、なんとなくその位置はこの部分だったような気がするがどこで見た写真なのかが思い出せない。

JR 東日本東海道本線【東京駅】古レール全景

最も接近可能な位置から見ると、写真では少々分かりにくいかも知れないが、柵の向こうの古レールの架構を観察可能である。上の写真と同じ場所を角度を変えて見たアングルとなる。思いっきり手前に写っているハイカラな柱については後ほど取り上げる。

JR 東日本東海道本線【東京駅】古レール架構

今度は逆側 3、4 番線からの眺めである。こちらは中途半端な覆いがあるために古レールの観察には少々不向きである。こちら側からでも画面左側の旅客ホーム上屋との軒高の違いがよく分かる。そして、まるで図ったように写っている独特の架構の架線柱についても後ほど取り上げる。

JR 東日本東海道本線【東京駅】古レール全景

上の写真でも奥に写っているが、上屋の架構とは独立していると思われる古レールによる謎の構造物が存在する。ホームの屋根より上部は無塗装のようである。また、写真では分かりにくいが画面を横切る架線はこの構造物とは一切関与しておらず、現在は使用されていないと思われるが正体不明である。

JR 東日本東海道本線【東京駅】古レール架構

再び最接近可能な場所からの古レール柱の観察である。土台は露出しておらず、古レールの柱は直接ホームに突き刺さっている。ホーム端部にあるコンクリート製とおぼしき車止めのようなものが認められ、荷物上屋跡の雰囲気を感じさせる。

JR 東日本東海道本線【東京駅】古レール架構

上屋の架構である。現在はキュービクル(鉄道でもこの表現でいいのか)や謎の事務室などが置かれている。古レール柱は Y 字型であり、全体的にシンプルである。こうやって見てもやはり軒高が高い。

なお、画面左側に写るシングルレーシングの柱は架線柱である。だいたいこのように架線柱がホームにめり込んでいる自体が旅客ホームの上屋とは考えにくいのだが、識者のご意見を募りたい。

JR 東日本東海道本線【東京駅】古レール架構

左右逆アングルから望む。軒高の高さと奥行きからかなり広々とした空間であったはずである。もう荷物上屋にしか見えない。。。だとしたら、さすが東京駅である。規模が違う。

JR 東日本東海道本線【東京駅】古レール架構

刻印

今回発見した刻印は以下の通り。同駅での古レールへの塗装も厚く、刻印の判読は困難を伴う。また、直接近づけないためにこれ以外の刻印の発見は叶わなかった。要再挑戦である。

No 刻印 場所 備考
1 (S) 60A 19?? ? 東京駅 5,6 番線ホーム上屋 60LbS / yd、官営八幡製鉄 19?? 年 ? 月製造

No.1

JR 東日本東海道本線【東京駅】古レール刻印

総評

東京駅に古レールが残っていたのは私にとっては少々意外であった。単に事前調査をほとんどしていなかっただけとも言えるが、紹介されている事例もどちらかというと多くないように思える。とはいえ当報告書でも結局中途半端な刻印一箇所の紹介に留まっているが。

しかし、当駅で観察すべき対象は実は古レール以外にも非常に多岐に渡る。ここではホーム上屋つながりでまずは上述したハイカラな架線柱を紹介したい。

いきなりコントラストが弱い写真で申し訳ないが、直線と曲線(円)で構成された独特の架構である。これも古レールのある 5、6 番線ホームにある。

JR 東日本東海道本線【東京駅】架線柱全景

3、4 番線からの眺めである。どう見ても古い。ちなみにこの部分のホームの柱はなんと木製である。また、架線柱の部分はホームの柱を兼用しており他の柱と異なり緑色になっているので目印となる。これについても後述する。

JR 東日本東海道本線【東京駅】架線柱全景

架線柱上部の拡大である。右端の鉄骨の形状から恐らく切断されたものと思われ、かつては手前側ホームとアーチによって連続していたと考えられる。実はこの架線柱は東京駅開業時から奇跡的に残る貴重な構造物なのである。関東大震災や太平洋戦争を経て現在に至る歴史の生き証人と言えよう。

JR 東日本東海道本線【東京駅】架線柱架構

山手線車両とこの架線柱は少々不釣り合いな印象である。やはり例えば旧型国電が似合うような気がする。

JR 東日本東海道本線【東京駅】架線柱全景

少々異なる架構の架線柱もある。こちらは上述の古レール使用部にあるものである。これまた独特の雰囲気である。

JR 東日本東海道本線【東京駅】架線柱全景

上部全体である。一見シンプルであるがよく見ると複雑な架構である。

JR 東日本東海道本線【東京駅】架線柱架構

さらに拡大である。かなり手の込んだ一品と言えよう。このような形態は非常に珍しいのではないだろうか。こちらの架線柱は開業当時のものではなく、後年設置されたものと思われる。

JR 東日本東海道本線【東京駅】架線柱架構

開業当時の架線柱付近のホームの様子である。今でこそこのホーム幅は違和感がないが開業当時としては破格の規模であり、天皇の行幸する際の儀式に必要なスペースを確保するための寸法だった。

JR 東日本東海道本線【東京駅】架線柱架構

この丸柱が架線柱部分を含め開業当時からのものである。屋根は木製である。

JR 東日本東海道本線【東京駅】架線柱架構

開業当時からの架線中の下部である。少々変位が認められるが問題ないのであろう。上述の通りこの部分だけ緑色である。

JR 東日本東海道本線【東京駅】ホーム上屋柱全景

その緑色の部分は実は鋳物によるものであり、柱頭部には手の込んだ装飾が施されている。この塗り分けは後年のものと思われるが、開業当時はどのような色使いだったのだろう。

JR 東日本東海道本線【東京駅】ホーム上屋柱詳細

架線柱ではない部分の株も同様の鋳物である。架線柱部と同様の作りのようである。

JR 東日本東海道本線【東京駅】ホーム上屋柱全景

柱頭部詳細である。架線柱部では留め金具により少々隠れていた装飾の全体が観察可能である。大正期の装飾である。

JR 東日本東海道本線【東京駅】ホーム上屋柱詳細

実はこれらの柱の最下部には製造者の以下のような刻印がある。途切れているのはホームの嵩上げの歴史である。

JR 東日本東海道本線【東京駅】ホーム上屋柱詳細

もう少し露出しているものもある。『鉄道考古学を歩く』によれば以下のような刻印のようである。

明治四十一年一月 株式会社東京堅鉄製作所

また、同書では『実際には鋳物工場で知られた埼玉県川口の職人が造ったという。』とある。いずれにせよ明治 41 年は 1908 年であり、ちょうど百年前の製造となる。素晴らしい。今も立派にホームの柱です。> 百年前の職人さん

JR 東日本東海道本線【東京駅】ホーム上屋柱詳細

ちなみに、開業当時の東京駅のホーム全景の写真では以下のように短い電車線ホームが二面、列車線ホームが二面だったようである。これらは『東京市街高架鉄道建築概要』という書籍にて情報を得ることが可能である。

同書は以前図書館でつまみ読みしたのみであるが、いずれ写真等のコピーを入手次第もう少し情報を追記したい。

JR 東日本東海道本線【東京駅】プラットホーム全景(図説駅の歴史より)

出展:プラットフォーム全景『図説 駅の歴史 - 東京のターミナル』 ※管理人一部加工

次に太平洋戦争により被災した同駅の様子である。説明文にもある通りこのとき丸の内駅舎は三階部分が焼け落ち応急的な復旧がなされ現在の姿になったのである。また、ここでは中央に写っているホーム上屋柱の形状に注目頂きたい。またにこの柱が今も現存しているのである。

JR 東日本東海道本線【東京駅】敗戦後のホームと丸の内駅舎(図説駅の歴史より)

出展:敗戦後のホームと丸の内駅舎『図説 駅の歴史 - 東京のターミナル』 ※管理人一部加工

ところで、1937 (昭和 12) 年発行の『鐡道工学』の停車場に関する箇所で東京駅のホーム上屋の架構として以下の図が掲載されている。曲線で構成された部材は恐らく古レールであろう。

JR 東日本東海道本線【東京駅】ホーム上屋架構(鐡道工学より)

ところが、現在の東京駅ホーム上屋ではこのような架構は見当たらない。一つ上の関東大震災被災時の写真にも登場していない。また、線路上にあたる部分の田の字にひねりの入ったような独特の架構は、この書籍発行当時機関車は SL であることからも、架線支持構造物ではなく各種電線を支持するものであり、いわゆるハエタタキに相当するものだと思われる。

もう少しだけお付き合い願いたい。これまで古レールと開業当時の架線柱を紹介したが、もう一つ小ネタがある。写真中央の事務所の窓の少し上にある丸鋼の結節点にある丸いものがそれである。これも 5、6 番線ホームにある。

JR 東日本東海道本線【東京駅】ホーム上屋架構

これは同ホームにはいくつかあるようである。

JR 東日本東海道本線【東京駅】ホーム上屋架構

拡大したものである。こんな部材にもこのような装飾が施されているのである。菊の紋章だろうか。この手の知識は皆無であるため、これがどういう模様で何を意味しているのかは不明である。またまた識者の情報を(以下略)。

言うまでもなくこれを付けたいがためにあるのではなく、上屋の変位を抑えるための補強部材を留め金具である。しかし、こんなところまで装飾されているのがさすが東京駅と言わざるを得ないだろう。

JR 東日本東海道本線【東京駅】ホーム上屋詳細

また、同駅を含めた区間の前面展望動画を山手線外回り電車より共同撮影者と共に撮影したのであわせてご覧頂きたい。

参考文献等


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