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古レール JR 東日本東北本線(鴬谷~日暮里)【芋坂跨線橋】

芋坂と羽二重団子と古レール。

2009/01/10 公開。

概要

芋坂も団子も月のゆかりかな

この句は正岡子規のものである。文学方面は全くもって知識がないため紹介のみであるが、今回取り上げる古レール構造物はこの『芋坂』に架かる跨線橋である。とは言え、その肝心の芋坂は既に存在しない。同橋は JR 東日本東北本線日暮里駅の南側に位置している。なお、毎度のことであるが『日暮里駅は東北本線の駅ちゃうやん』という突っ込みは、同駅の正式所属線が東北本線であるため華麗にスルーさせて頂く。

この日暮里駅周辺はいわゆる武蔵野台地の東端にあたり、鉄道開通の際に崖を削って現在に至っている。そしてこの芋坂はその際に消滅し、恐らくと思うが後に同地に跨線橋が架けられたのである。同様に鉄道により消滅した坂はこの武蔵野台地東端にはいくつかあるようである。

しかし、『芋坂』と呼ばれたのは何故か。それは同地に設置された説明板によるとかつてこの辺りで自然薯(山芋)が取れたという伝承に因んでいるという。ということで、歴史的農業環境閲覧システムで現日暮里駅付近を確認すると驚くべき田園風景を伺うことができる。また国土変遷アーカイブでは 1947 (昭和 22 年) 米軍撮影の航空写真を見ることができる。

続いて『団子』であるが、これは芋坂を下ったところにある江戸時代から続く老舗『羽二重団子』のことである。かつて芋坂この店のさらに先にある善性寺へと続いていたそうである。この団子屋はこの辺りに出入りしていた文士の格好の材料となり、冒頭の句も生まれたようである。この分野は鬼のように門外漢なのでこの辺までの紹介とさせて頂きたい。

ところで、消滅した芋坂の代わりに架けられたのがこの芋坂跨線橋であるが、架設年代は不明である。というより跨線橋の類で架設年代が我々一般人にも明らかになるのは基本的には銘板や説明板等で示されたものに限られると考えられ、少数であろう。どなかた古い構造物管理台帳なぞお持ちでないだろうか。

調査日:2008/04/06

調査結果

架構

台地側の日暮里方からの全景である。

JR 東日本東北本線(鴬谷~日暮里)【芋坂跨線橋】全景(日暮里方より望む)

古レールを用いた跨線橋としては比較的大型の部類に入るだろう。堂々たる橋長である。古レールは橋脚と桁部分に使用されている。要は下部構造の基礎以外全てである。ただし写真の一番右側の橋脚と、写真には写っていないがさらに右側のもうひとつの橋脚は後年の改造と思われるが H 型鋼となっている。

それでも、古レールの橋脚とデザインが酷似しているのが興味深い。手前の公園は調査時は犬と飼い主天国となっていたため、何となく降りれず貴重な床裏面の調査を断念した。次回訪問時に確認したい。

同じ日暮里方からの眺めだが、今度は同駅ホームからの全景である。現在の鉄道線路敷が台地の崖を削って造られた様子が想像できよう。また、単線及び複線を跨ぐスパンの違いも見て取れる。

JR 東日本東北本線(鴬谷~日暮里)【芋坂跨線橋】全景(日暮里駅ホームより望む)

最初の写真の古レール橋脚の拡大である。ひたすらに Y 字が並び壮観である。

JR 東日本東北本線(鴬谷~日暮里)【芋坂跨線橋】古レール橋脚架構(日暮里方より望む)

変わって跨線橋東端からの古レール橋脚の拡大である。こちらからだと、橋脚と橋桁が一体となっている様子が確認できる。つまりはラーメン構造と言えよう。また、柱の鉛直部のブレース(筋かい)は二本のレールの間にアングルを挟みこんでいる特徴的な構造であることが分かる。

JR 東日本東北本線(鴬谷~日暮里)【芋坂跨線橋】古レール橋脚架構(日暮里方より望む)

台地側の H 型橋脚である。写真では分かりにくいかも知れないが、よく見るとかつてはここも古レールの橋脚だったことを伺わせる痕跡がある。どういう理由で架け替えられたのだろうか。現在は足元が公園となっているが、それが理由とは思えない。

JR 東日本東北本線(鴬谷~日暮里)【芋坂跨線橋】古レール及び H 型鋼橋脚架構(日暮里方より望む)

手持ちの最も古い地形図は 1932 (昭和 7) 年発行のものであるが、既に跨線橋と思しきものが描かれている。ただ、この記号だけで現存する跨線橋そのものかの判断は難しい。しかし、大正期には既に古レールの再利用はされていたためその当時の建造との考えもあながち的外れではないはずである。ちなみに日暮里駅が日本鉄道の駅として開業したのは 1905 (明治 38) 年である。

JR 東日本東北本線(鴬谷~日暮里)【芋坂跨線橋】旧版地形図

出展:国土地理院 1/25,000 地形図「東京首部」(S07/06/30 発行)※管理人一部加工

再びそのような大正時代もしくは昭和初期建造の古い構造物かも知れないという思いで古レール橋脚を見る。もし大正時代の建造とすると既に 80 年以上が経過していることになる。そう思うと非常に感慨深いものがある。ひょっとすると明治時代のものかも知れないが。

ただ、以前海洋構造物の改修工事なぞにも関わっていた身としてはコンクリート基礎は後年打ち替えられているような気がしないでもない。

JR 東日本東北本線(鴬谷~日暮里)【芋坂跨線橋】古レール橋脚架構(日暮里方より望む)

台地側の桁端部の収まりである。非常にシンプルな構造である。コンクリートに埋め込まれる部分には座屈防止用だろうか、補強用と思われる短いレールが添えられている。

JR 東日本東北本線(鴬谷~日暮里)【芋坂跨線橋】古レール橋桁架構(日暮里方より望む)

今後は逆の東端の様子である。こちらは階段が設けられているため台地側とは趣が異なり、通常の跨線橋の雰囲気である。一つ上の写真でもそうだが、コンクリート床板の薄さがある意味を歴史を感じさせる。

また、すぐ脇では京成電鉄の高架工事が実施中である。内容は全く把握していないが、現場を見る限り古いコンクリート高架橋の上に新たな高架橋を架けているようであるが、これが新旧置き換えなのか新規追加なのかどちらだろう。

JR 東日本東北本線(鴬谷~日暮里)【芋坂跨線橋】古レール橋脚架構(日暮里方より望む)

同じ東端の鉛直部の古レール柱である。今回古レールの刻印確認は事実上この部分に絞って、へなちょこ望遠レンズを用いて凝視することとした。

JR 東日本東北本線(鴬谷~日暮里)【芋坂跨線橋】古レール橋脚架構(日暮里方より望む)

台地側から見た跨線橋上部の全景である。現代の規格からすると、人道橋とは言え決して広いとは言えないだろう。だが、一日中見ていたわけではないので憶測ではあるが、今のところはこれで事足りているような雰囲気を感じた。

JR 東日本東北本線(鴬谷~日暮里)【芋坂跨線橋】上部全景(西側より望む)

そして、同じ台地側には跨線橋脇にかつてここに存在した芋坂についての説明板がある。実は都内にはこのような『坂』に関する説明板を意外と多く見かける。坂好きのタモリ氏からすれば基礎中の基礎知識であろう。

JR 東日本東北本線(鴬谷~日暮里)【芋坂跨線橋】上部全景(西側より望む)及び説明板

内容は以下の画像にて確認してほしい。本報告書冒頭の句も載せられている。画像が小さく見にくいがご容赦願いたい。

JR 東日本東北本線(鴬谷~日暮里)【芋坂跨線橋】上部全景(西側より望む)及び芋坂説明板

今度は逆の東端の階段の様子である。ここからの眺めは最早そこに坂があったなどとは全く感じさせないものである。先に載せた旧版地形図ではまだ高架橋は存在していないため、今とは随分異なる眺めであったろう。どなたかその当時の写真をお持ちではないだろうか。是非見てみたい。

JR 東日本東北本線(鴬谷~日暮里)【芋坂跨線橋】上部全景(東側端部)及び京成線高架橋(建設中)

次に、これは古レールとは無関係であるが、その高架橋を日暮里駅ホームから見るとこのような眺めである。下のコンクリート高架橋には電車は走っているのだろうか。なかなか興味深い風景である。どのような工事なのか調べてみる価値がありそうである。

京成線高架橋(日暮里駅ホームより望む)

刻印

この跨線橋は正直言ってこれだけの規模でありながら刻印調査がほとんど行えない。立地上下部構造に近寄れないのである。唯一近寄れるのが台地側の端部であり、公園を跨いでいるが、その部分は H 型鋼に置き換わっているのである。

そこで、上述の通り東端の鉛直柱部にターゲットを絞り望遠レンズでの撮影を敢行した結果、いくつかの刻印が確認することができた。

No 刻印 場所 備考
1 UNION 18?? (以降確認不可) 橋脚 ドイツ ウニオン社 18?? 年製造
2 KRUPP.1885.N.T.K. 橋脚 ドイツ クルップ社 1885 年製造 日本鉄道発注
3 KRUPP.188?.N.T.K. 橋脚 ドイツ クルップ社 188? 年製造 日本鉄道発注
4 BARROW (以降確認不可) 橋脚 イギリス バーロウ社

No.1~No.4

JR 東日本東北本線(鴬谷~日暮里)【芋坂跨線橋】古レール刻印

総評

さすがは日本鉄道時代からの路線であり、現在の鉄道ターミナルとしての日暮里駅を見るとそこには明治時代からの鉄道の要衝としての歴史を感じさせる。今回取り上げた芋坂跨線橋も個人的には『歴史的鋼橋』に含まれてもおかしくないと思えるほど立派なものである。

しかし、現在この跨線橋が跨ぐ線路の本数は大変なものである。この跨線橋には増設もしくは延長の形跡がないように見えるため、その辺りから建設年代の推定が可能かも知れない。いずれにしても結構な年月の経過した構造物であろう。

また、付近にはこれまた歴史のある谷中というエリアもあり、羽二重団子に至っては江戸時代からの老舗である。ちなみに、店構えは以下のようなものである。

芋坂及び羽二重団子

店の右側の路地が芋坂跨線橋へと通じる道であり、かつての坂を下ったところにあたるようである。また、その路地に面した店の角には道標のようなものがある。

正面には店の前の道である『王子街道』と刻まれ、向かって左側には『根ぎし・・』とある(詳細未確認)。右側は確認するのを忘れてしまった。修悦体と共に再訪が必要である。

王子街道石碑(羽二重団子)

実は今回の調査でこの古レールによる跨線橋以外に気になるものを見かけた。それが次の写真である。

JR 東日本東北本線(鴬谷~日暮里)【芋坂跨線橋】西側端部付近の擁壁

これは一体どういうことであろうか。どう見てもまともに作ったものとは思えない(失礼)。ひょっとすると、例えば関東大震災後のガレキだったりするのだろうか。というのもこの煉瓦も混ざりっぷりは尋常ではないし、かなり古いものと思われるからである。何か情報をお持ちの方はいらっしゃらないだろうか。

なお、余談ではあるが今回この芋坂跨線橋の古レールの刻印を発見したのは他の古レール構造物での場合より少々嬉しい。というのもいつもバイブル的に勝手に参考とさせて頂いている『古レールのページ』でもこの跨線橋は取り上げられているのだが、以下の文言があるからである。

しかしながら、支柱のほとんどは線路敷の中ですし、京浜東北線側の線路脇の児童公園内もこの跨線橋が跨いでいて2支柱が観察可能なもののH形鋼製に取り替えられており、規模の割に古レールの刻印は全く見れません。

参考文献等


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