(飯田町 + 牛込) / 2 = 飯田橋。
2009/06/24 公開。
JR 東日本中央本線飯田橋駅は 1928 (昭和 3) 年 11 月 15 日開業の駅であり 80 年以上の歴史を持つ。そして同駅の特徴としては、やはり駅自体の構造であろう。まず、ホームが都心の駅としては珍しくかなりの急カーブを描いており、車両とホームの間がかなり空いている。また、西口は牛込橋の袂にある出口まで延々と通路を渡って行かなければならない。
慣れると当然のように思うかも知れないが鉄道駅としてはあまりよろしくないとも言える構造なのである。ではなぜこんな立地に駅があるのか。
当駅の歴史を紐解く上で忘れてはならないのが飯田町駅と牛込駅である。飯田橋駅のある場所に最初にレールが敷かれたのは、国有化以前の甲武鉄道による 1894 (明治 27) 年 10 月 9 日の新宿~牛込間の開通時まで遡る。その後、翌年 4 月 3 日に飯田町(飯田橋ではない)まで路線が延長された。さらに同年 12 月 30 日には飯田町~新宿間が複線化されたのである。
そもそも社名からも分かる通り、どちらかというと新宿をターミナルとして西へ八王子まで路線を伸ばしていたのを今度は逆に都心方面に進出してきたのである。そしてその都心部分(新宿よりも現在の山手線の内側)は『市街線』と呼ばれ、その終点であった飯田町は一大ターミナル駅として栄えたそうである。
その後鉄道国有法により 1906 (明治 39) 年 10 月 1 日で国有化され、1912 (明治 45) 4 月 1 日には万世橋駅、そう元交通博物館のあったあの場所まで路線を伸ばし、1919 (大正 8) 年 3 月 1 日には東京駅に達し、中野~新宿~東京~品川~新宿~上野間の有名な『の』の字運転が始まったのである。
その後、1923 (大正 12) 年 9 月 1 日に発生した関東大震災の復興により客貨分離を目的に飯田町~新宿間が複々線化された際に、距離の近かった飯田町駅と牛込駅は統合され中間地点に現在の飯田橋駅が 1928 (昭和 3) 年 11 月 15 日に開業したのである。つまり元々駅を想定していなかった場所に駅が後から建設されたのである。
ちなみに、その牛込駅は飯田橋駅西口にある牛込橋より四ツ谷方すぐの辺りである。一時期ここには折り返し設備があったらしく上下線の間が広がっているが、そこにあった牛込駅の痕跡は見当たらないようである。
大正元年当時の牛込駅の配線は以下のようなものであった。随分とシンプルであるが、跨線橋も存在したのである。
また、飯田町駅は牛込駅との統合の結果、旅客営業を廃止し貨物駅として営業し続け、山手線内最後の貨物駅として 1999 (平成 11) 年 3 月 9 日に開業から実に 100 年余りの歴史に終止符を打ったのである。その飯田町駅のありし頃の様子は以下の航空写真より確認可能である。
さらに、goo 地図では明治時代の地図や昭和 22 年、昭和 38 年の航空写真に切り替えて閲覧することが可能であるのでぜひご覧いただきたい。
ちなみに、牛込駅同様大正元年の飯田町駅の配線は以下のとおりである。右下が現在の御茶ノ水方に伸びる線路上に設けられた電車線のホームであり、左側の頭端式部分が列車線のホームである。
そして明治 30 年代甲武鉄道時代の同駅の様子である。
では、そんな歴史を持つ駅の古レールである。
調査日:2007/04/21、2008/05/05
同駅ホーム上屋に使用されている古レール架構は、同線四ツ谷駅同様やじろべえ型である。レールのウェブ部の大量のリベットもやはり同様に存在する。
また、柱はホーム中央に 1 本の架構パターンと 2 本の部分に分かれており、2 本が 1 本に集約される端部では梁の納まりにこれまた独特の古レールの絡み具合が見られる。
階段の開口部では柱は当然 2 本パターンとなり、それに伴い上部の古レール架構も曲線のないシンプルなものとなる。
また、冒頭でも触れた西口への通路も古レールが下部構造に大量に使用されている。まるで線路上から撮影したような写真であるが、あくまでもホーム上から撮影したものであり、ホームの曲がり具合が相当のものであることを実感できる。奥に見える下駄ばきの建物が西口の駅舎である。
同通路を西口改札外の牛込橋付近より見下ろす。これだけの長さで立ち上がる古レールが延々と続くのは壮観である。しかし、現在の耐震基準ではまずアウトではなかろうかと思われる華奢な架構とも言える。一体どのような構造計算の結果で OK となったのだろうか。
もう少し真横に近い位置から見る。古レールならではの曲線が連続し、美しい。残念なのは上部の意匠が素っ気ない点である。勝手な推測だが竣工当時は多少異なる雰囲気だったのではないだろうか。ちなみに、車両は中央線で一時代を築いた 201 系である。現在は E223 系への置き換えが進み、わずか 2 編成が残るのみだそうである。
今回発見した刻印は以下の通り。古レール自体の使用量はそこそこあるが、例によって首都圏の標準仕様であるが同駅での古レールへの塗装も比較的厚く、刻印の判読は困難を伴う。以下に取り上げた以外にも刻印は存在するかも知れない。また、今回も刻印が不鮮明なものも敢えて紹介したい。
No | 刻印 | 場所 | 備考 |
---|---|---|---|
1 | 6 MARYLAND XII 03 NTK | ホーム上屋 | アメリカ メリーランド製鋼社 1903 年製造 日本鉄道(?)発注 |
2 | ※不明 | ホーム上屋 | |
3 | ※不明(UNION D ?) | ホーム上屋 | |
4 | CARNEGIE 1905 (以降確認不可) | ホーム上屋 | アメリカ カーネギー社 1905 年製造 |
5 | CARNEGIE 1907 ET IIIII | ホーム上屋 | アメリカ カーネギー社 1907 年 5 月製造 |
6 | ※不明 | ホーム上屋 |
私自身は飯田橋駅は普段利用する駅ではないが、現在では特に大きなターミナルというわけでもないこの駅が実は路線の開業時に関係する駅のある意味生まれ変わりのような存在だと言うのが非常に面白い。
飯田橋駅周辺と言えば何といっても外濠が特徴であろう。鉄道や道路と言った交通網もこの外濠に沿って発達している。甲武鉄道もここに鉄道を建設する際には外濠の一部を埋め、崖を削ったようである。この辺りも都心とは言え意外にも鉄道にとってはなかなかの土工を必要とするのである。その証拠に『市街線』にはいくつかの隧道も存在した。その中には建設当時のまま今も残るものもある。
今回の調査は飯田橋駅の古レールに特化したが、いずれは冒頭で紹介した飯田町駅跡や牛込駅跡、さらには『市街線』開業当時の名残り等も訪ねてみたい。それに備えて『甲武鉄道市街線紀要』は入手済みである。もし入手したいと思う奇特な方は明治期鉄道史資料〈第 2 集 第 4 巻〉地方鉄道史 社史を探してほしい。私は神田古書街で入手した。
だから、訪ねてみせる。