北海道内の鉄道による代表的とも言える峠越えの歴史をたどる。
2014/03/02 コメント欄を追加。
2010/05/22 ~ 2010/05/23、2010/05/27 ~ 2010/05/30 GNR - 第三次北海道計画として再々訪しました(報告書作成中)。
2009/12/13 DeepZoomPix サービス停止に備え該当画像を通常の写真に変更しました。
2009/04/18 ~ 2009/04/20 GNR - 第二次北海道計画として再訪しました(報告書作成中)。
2009/04/25 PhotoZoom の DeepZoomPix へのサービス移行に対応しました。
2008/06/13 全写真のサイズを拡大しました。
2007/01/07 公開。
かつて『日本三大車窓』のひとつに数えられたという根室本線旧線狩勝峠越えの旧線区間である。現在線は新得駅を出発した後、まもなく西側に現れる新得山の裾に沿って西に回りこみ豪快な Ω カーブを過ぎた後かつての峠越え地点のはるか南に新たに掘削された新狩勝トンネルにより札幌方面へ向かっている。
今回取り上げる旧線区間は新得駅を出た後北海道ならではの鬼のような直線を約 6km もひた走り原生林の中を右に左にその身をくねらせ、標高を 100m 以上稼いだところで旧新内駅を過ぎさらに連続する急勾配やこれまた豪快な Ω カーブ、新内隧道をクリアし現在の国道 38 号の狩勝峠展望台の直下に穿たれた旧狩勝隧道にて峠を越えていたのである。
この路線の開通は古く、北海道官設鉄道により 1901(明治 34)年に着工され 1907(明治 40)年に開通をみている。ちなみに福岡県人からみると 1901 年というのは後に日本最初のレールを製造することになる官営八幡製鉄所の高炉に火入れが行われた、日本の近代工業にとって記念すべき年である。
本題に戻る。冬は極寒となる北の大地の明治時代である。辺境の地での工事は困難を極め多数の死傷者を出し、特に区間中二箇所に存在する隧道では人柱まで立てたとのことである。北海道・東北(に限らないが)のこの時代に散見される『タコ部屋』労働の産物である。他にも有名なところでは石北本線の『常紋トンネル』がある。が、また本題から外れないように参考 URL を載せたので興味のある方は是非ご覧頂きたい。
また、開通後も SL による急勾配、急カーブを伴う峠越えはこれまた困難を極め機関士に相当の苦労を強いることとなり労働争議も起きたようである。このような凄惨な建設工事によって穿たれた両隧道を含む峠越えの区間は冬季の凍結や急勾配、急カーブによる輸送上のネックの解消のため、1966(昭和 41)年に冒頭で触れた現在線へ切り替えられ廃線となった。
日本三大車窓に取り上げられるほどの雄大で美しい車窓の裏にはこのようなすさまじい歴史が隠されている。そして新線へと切り替えられた後、新得~新内間の直線区間は 1979(昭和 54)年まで旧国鉄の実験線として数々の貴重な実験に供されたのである。
ちなみに、JR 西日本福知山線で発生した脱線事故の際に一部のメディアでこの実験線の話題が取り上げられた。実験線に関わった当時の国鉄マンが登場し、実験線での競合脱線の実験の成果が生かされてないと嘆いていた。
現在旧線跡は新得~新内間が旧実験線区間を含む延長約 10km の『狩勝ポッポの道』の名で遊歩道として整備されている。
今回は新線切替の起点駅となった新得駅より旧線に寄り添う国道 38 号を(弱虫なのでチャリではなく車で)北上しながら近寄れる箇所をピンポイントで調査した。
本当はチャリで行きたかったが東京からチャリを運ぶのが大変なのと、他の地点の調査も欲張った時間的制約のため泣く泣く車である。平野部ではあらかた雪がなくなる頃を狙って乗り込んだが、聞くと地元の人も驚くほどの遅い時期の雪に見舞われ時間的制約もあり思うように調査ができなかった。
調査対象区間も旧線区間全体ではなく、当報告書タイトルの通り一部区間である。
# と、報告書のレベルの低さを先に言い訳して始めの挨拶に代えさせて頂きたい。
なお、狩勝峠はかの宮脇俊三氏が『鉄道廃線跡を歩く』シリーズの最終巻の巻頭レポートのため生前訪れる予定の場所でもあった。シリーズ読者としてというわけではないし代わりにもならないが、その書籍によって初めてこの旧線を知った者として現地を訪れ故人のご冥福をお祈りさせて頂いた。
調査日:2006/04/21
年月日 | 事象 |
---|---|
1907/09/08 | 【延伸開業】落合~帯広(旭川~釧路間全通) 【駅新設】狩勝(給水給炭所)、新内(旅客貨物とも取扱わず)、新得、清水、佐念頃、芽室、伏古。 |
1907/12/15 | 【旅客貨物取扱い開始】新内。 |
1922/04/01 | 【給水給炭所→信号場】狩勝。 |
1966/09/30 | 【開業】落合~新得(新線)(+28.1km) 【信号場新設】上落合、新狩勝、広内、西新得/上芽室、常豊 。 |
1966/10/01 | 【廃止】落合~新得間(旧線)(-27.9km) 【駅廃止】新内 【信号場廃止】狩勝。 |
調査対象区間の道路地図である。今回の調査は図中の『根室本線旧線』の一部(全線ではなく)を対象とした。豪快な路線変更の規模が汲み取って頂けるだろうか。とは言え新線ですら豪快なカーブである。
なお、下図では狩勝峠以西は調査対象としなかったため路線の記述を新旧共に省略している。
さらに、旧線時代の旧版地形図をご覧頂きたい。これを見ると旧線が峠を越えるために急カーブと急勾配で苦闘している様が見て取れる。
出展:国土地理院 1/25,000 地形図「狩勝峠」(S40/08/30 発行)※管理人一部加工
この区間では以下の道路地図に示すように旧線後は『狩勝ポッポの道』の名のもとに散策路として平成 17 年に整備されている。
今回の調査では雪のためこの散策路の調査は断念し、いくつかの地点でのピンポイントでの調査となった。
さらに、昭和 52 年現在の航空写真を見ると新旧分岐点付近の様子がよく分かる。当時はまだ散策路の整備がされていないため作業道のようにも見える。
出展:国土交通省 国土画像情報(カラー写真) 整理番号「CHO-77-38」(S52 撮影)※管理人一部加工
まずはこの日の出発地点である帯広から新得へ向かう途中の国道 38 号からの日高山脈の美しい景色から。明治の時代にあの峰々の向こうを鉄道で目指したのである。すさまじい。
新得駅である。新得駅そのものに旧線部分があるわけではないがご紹介まで。新得駅のある新得町は『北海道の重心地』だそうである。駅前にはそれを記念するモニュメントが設置されている。
実はこの駅から『北海道拓殖鉄道』(通称拓鉄)が東瓜幕までの路線を有していたが廃線となっている。
残念ながら今回はこの路線の調査は実現できなかったが『鉄道廃線跡を歩くⅢ』の P27 にある『新得サウナ浴場』脇の更地となってしまったかつての拓鉄新得駅跡の様子のみ定点観測の記録としたい。
『狩勝ポッポの道』は旧線跡を利用しているが、新得駅から始まっているわけではなく現在線が旧線と別れ新得山を迂回すべくカーブに差し掛かった付近より始まる。こういう中途半端な場所から始まる散策路に利用者がどれだけ集まるのか分からないが、かつての路線が紹介されることになるのは嬉しいと思う。
また整備の度合いも過度ではないようであり、かつてを偲ぶには程好いのではないだろうか。
散策路の起点付近には『SL 広場』として美しい姿の D51 が静態保存されているのだが、予想外の雪に対し装備の甘さにより東京からはるばるやって来たのにも拘らず近づけなかったのである。
かつての旧線は新得駅より新得山東側の裾を佐幌川の間をすり抜けてこの SL 広場に到達していた。この地点より新得駅方面を望むと写真ではちょっと分かりにくいが新得山に新設された現在線のトンネルとかつての旧線跡が更地となった様子を見ることができる。ちょうど D51 が向いている方向である。
SL 広場より旧線跡を北上するとまもなく、ペンケ新得川に架かる新内第三号橋梁を見ることができる。プレードガーダー一連で小さな川を一跨ぎにしているがその奥には一段高い位置に現在線のコンクリートによる橋梁がある。旧線跡の橋梁については橋台がレンガ造りであり時代を感じさせるが、例によって雪のため近づけなかったため、美しいレンガを写真に収めることができなかった。うむぅ。
しかし、なぜ旧新内駅よりもはるかに新得駅に近いのにこの様な名称が付いたのであろうか。
SL より始まる散策路はいきなり約 6km の直線となる。周囲の風景と相まってこれぞ北海道とも言える雰囲気ではないだろうか。写真は散策路と未舗装の農道(?)との交差点より新得方面を望んだものである。かつてここを SL がひた走っていたのである。この地点は SL 広場より約 1km 強ほど北上した辺りである。なお、未舗装の農道には興味深い道路標識が設置されていたのであわせてご紹介したい。
さらに北上すると旧国鉄時代に実験線として使用されていた名残のデータ通信用の無線鉄塔が現れる。これは『鉄道廃線跡を歩くⅡ』で紹介されているし併走する国道 38 号からも周囲にあまり人工物のないこのあたりでは非常に目立つ。例によって雪のため接近不可だったが後ろの美しい山々と相まっていい感じである。
平野部の直線区間を過ぎると、いくつかの急カーブと急勾配を抜けると旧新内駅跡に到達する。現在はゴルフ場がある程度で集落と呼べるような人家は一見見当たらないようだが、かつてここに確かに駅があった。
しかし、ここが集落等客扱いの見込みを元に設置されたのか峠越えの拠点として設置されたのかは現時点では私は調査不足により把握できていない。識者のご意見を頂けると幸いである。
出展:国土地理院 地図閲覧サービス(試験公開) 1/25,000 地形図「狩勝峠」峠」 ※管理人一部加工
昭和 52 年に撮影された航空写真では旧線跡がかなり鮮明に浮かび上がっており、新得からやってきた SL は急カーブを抜けて旧新内駅へと滑り込んでいた様子が想像できよう。
出展:国土交通省 国土画像情報(カラー写真) 整理番号「CHO-77-38」(S52 撮影)※管理人一部加工
ここではかつての線路がそのまま残されており、なんと現役の車道とそのまま交差している。写真奥に写っている赤い建物はかつての官舎であるが現在は乗馬場のクラブハウスであり現役の建物であったため、残念ながら調査不可であった。除雪された雪とは言え多さがお分かり頂けるだろう。
さらに、駅廃止後に昭和 53 年に SL ホテルとして開業した 9600 系 SL と 20 系客車が鎮座している。残念ながら現在はホテルとしては営業していないが特定非営利活動法人『旧狩勝線を楽しむ会』の手によってホテル廃業後再塗装等のメンテナンスを施され狩勝高原 SL 広場の『旧狩勝線インフォメーションセンター』として第三の余生を過ごしている。る。
この SL とかつてホテルとして利用された客車は旧新内駅のホームに残されたレールの上に設置され当時の駅の雰囲気をとどめているのであるが『鉄道廃線跡を歩くⅡ』によるとそのホームの残っているとのことだが、ご覧の通りの雪で確認することができなかったのである。ゴールデンウイーク直前なのに。
また、上記地形図で示した通り旧新内駅の新得側には切通しや築堤が残っている。。。
しかし、これでは報告書にならないがこれまた雪のため調査不可能であった。『鉄道廃線跡を歩くⅡ』によると場内信号機やキロポストが残っていたとのことであるが現在は定かではない。見たかった。。。
旧新内駅付近は現在ゴルフ場となっており、路線跡の正確なトレースは難しいかもしれないが駅跡やその周辺というのは往時の雰囲気を最も感じることができるポイントだけにいつか再調査を実施したい。
旧新内駅跡を過ぎ、峠を目指し急カーブを繰り返し高度を稼ぐが、その中に『鉄道廃線跡を歩くⅡ』にももちろん取り上げられ、さらには北海道土木遺産にも登録されたあの有名な大築堤が姿を現す。
『新内沢大築堤』である。※名称は北海道土木遺産より
地形図でもわかるようにすぐ傍を通る国道 38 号よりこの大築堤を望むことができる。
出展:国土地理院 地図閲覧サービス(試験公開) 1/25,000 地形図「狩勝峠」勝峠」 ※管理人一部加工
航空写真でも築堤とは分かりづらいが旧線跡自体は鮮明に見て取れる。
出展:国土交通省 国土画像情報(カラー写真) 整理番号「CHO-77-38」(S52 撮影)※管理人一部加工
百聞は一見にしかず。写真はイマイチだがご覧頂きたい。"大" 築堤のスケールがお分かり頂けるだろうか。
次の写真は土木学会北海道支部のサイトより転載した現役当時の補機を従えた峠越えの貨物列車(と思われる)写真である。
出展:土木学会北海道支部 北海道土木遺産「新内沢大築堤」 ※管理人一部加工
感動である。そのスケールの大きさと雪化粧が相まって大変美しい。
これこそが、『日本三大車窓』と謳われた原生林の中の大カーブの一つである。
なお、新得から旧新内駅跡付近までは散策路として整備されているがそこから狩勝峠に向かう部分は整備こそされていないものの、上の写真でも分かるとおり季節を選べばトレース可能な範囲もままあるようである。
新内沢大築堤を過ぎるといよいよ峠へのラストスパート区間となる。地形図の通りこれまでの急カーブはなくなり峠越えのために高度とスピードを稼いでいたと思われる。
この区間は基本的には概ね等高線に沿ってトラバースとなるが、途中尾根がせり出している箇所に『新内隧道』があり、これを過ぎると狩勝峠の鞍部の直下を狩勝隧道でクリアしている。
航空写真でも旧新内隧道の存在がはっきりと確認できる。
出展:国土交通省 国土画像情報(カラー写真) 整理番号「CHO-77-38」(S52 撮影)※管理人一部加工
旧狩勝隧道へのアプローチも然りである。
出展:国土交通省 国土画像情報(カラー写真) 整理番号「CHO-77-38」(S52 撮影)※管理人一部加工
実はこの区間は雪のため近づくことができず全く調査ができなかった。すぐ上の航空写真の左下隅に写っているのが国道 38 号狩勝展望台であるが、ここからの旧線跡の様子を写真に収めるのが精一杯であった。
なお、展望台周辺も積雪のため肝心の展望台には上がれず道路脇からの撮影となった。しかも、強風のためまともな写真がなかなか取れず難儀した。
本報告書最後は現地では強風の中感動の雄叫びと寒さによる悲鳴を発しながら撮影した、へたくそな写真で締めくくりたい。
画面中央のほぼ真一文字に見えるのが旧線跡である。概ね展望台付近から北東を望んでいる。こんな大変な場所にかつて線路があったのである。
最後に改めてこんな事を書くのは心苦しいが、今回は雪のため満足のいく調査ができなかった。また、時間的制約により狩勝峠を越えた旧狩勝信号場のスイッチバックも見ることができなかった。
また、かつては拓鉄も分岐し大いに賑わったと思われる新得の街もゆっくり見ることができなかった。
そのため、報告書としても非常に中途半端になってしまった。ご覧の皆様には申し訳なく思う。
ただ、冒頭に挙げたような歴史を意識した上で現地を訪れるとやはり先人たちの労苦は我々の想像を遥かに超えるものだったに違いないという気持ちを改めて持つこととなる。
今回限られた時間とはいえあまり廃線の知識の無い私が偶然知った路線だが、何としても行きたいと思い、実際に現地を訪れることができたのは非常に有意義であった。
それ故に季節を選んで再訪する必要を強く感じている。九州出身としてはあり得ない美しい雄大な風景も同時に楽しめる。
なお、この旧線跡に関しては本文中でも触れたとおり特定非営利活動法人『旧狩勝線を楽しむ会』が保存やイベント等の活動を行っている。参考文献としてリンクを掲載しているので興味のある方はぜひご覧頂きたい。
私はこれを調査から戻ってから知ったため、泣きそうになった。
幸か不幸かこの旧線区間は周辺にあまり人家が無いことや北海道土木遺産に登録されたこともあり、保存状態は概ね良好と言えるだろう。大築堤上も轍があることから恐らく付近の畑への農道として利用されていると思われる。私も次回は旧線跡のトレースを試みたい。
ただし、ご覧の皆様ももし訪れる際は『鉄道廃線跡を歩くⅡ』にも書かれているが熊対策を万全にされたい。
また、併走する国道 38 号も旧道が残されておりこれも食指を動かされるのである。
コメントをどうぞ。吹き出しマークをクリックしてください。投稿には Google+ のアカウントが必要です。