かつて停車場周辺を彩った桜の記憶。
2010/09/14 公開。
JR 東日本中央本線四ツ谷駅は古レール調査報告書でも軽く触れた通り、旧国鉄に買収される以前に存在した甲武鉄道の手により、1894 (明治 27) 年に開業している。
現在は埋め立てられてしまったものの、掘割のような地形にその名残りとどめているように四ツ谷駅周辺はかつて江戸城の外壕であった。そして現在の四ツ谷駅辺りは四谷見附跡であり江戸城の入り口のひとつである四谷門があった。つまり、そこには南北に横たわる外壕を東西に横切る築堤があった。
甲武鉄道がここに鉄道すなわち現在の中央本線を建設する際、この四谷門の築堤下に隧道を穿ち外壕に沿って線路を敷いたのである。それは四谷隧道と名付けられ甲武鉄道ゆかりの鉄道構造物であったが、1929 (昭和 4) 年の中央本線の複々線化に伴い撤去されて現存しない。往時の姿は例えば以下のサイトをご覧頂きたい。
そんな江戸城の外壕にゆかりのある四ツ谷駅だが、開業から数年後には地元の有志により駅前に桜の植樹が行われた。近代化の象徴である鉄道の、しかも人々の新たな集合離散の場所としての駅周辺を外壕の水辺に彩ろうとしたのである。
桜が植樹された時期の前後の四ツ谷駅周辺を古地図で見てみる。まずは甲武鉄道開業前の 1883 (明治 16) 年発行の地図である。南北に流れる外壕を横切る四谷門が見て取れる。よくぞこんなところに鉄道を通したものだとつくづく思う。
出展:国際日本文化研究センター「五千分一東京図測量原図」(M16 発行) ※管理人一部加工
次に開業から少し経った 1910 (明治 43) 年発行の地図を見る。この地図では右側が北で左側が南であることに注意して頂きたい。番地が細かく記された辺りと比べかなりアバウト感が漂う四ツ谷駅周辺の描写であるが、鉄道開通後も四谷門の記載は残り駅も四谷停車場と記されている。そして件の築堤も残されており、ここに四谷隧道があったのである。
桜が植えられた場所の正確な位置は把握出来ていないが、おそらくはこの外壕を横切る築堤上だったのではないだろうか。
出展:国際日本文化研究センター「携帯番地入東京區分地圖」(M43 発行) ※管理人一部加工
最後に参考までに現在の四ツ谷駅周辺の航空写真を見る。緑色の屋根が四ツ谷駅本屋であるが、その北側に斜めに架かる橋(名称未確認)がかつて四谷門があった築堤にあたる部分である。線路の複々線化等により外壕は埋められ、築堤は取り払われてしまいそれに伴いかつて植えられた桜はそこには存在していない。
調査日:2010/11/23
項目 | 内容 |
---|---|
正式名称 | 未確認 |
所在地 | 東京都新宿区四谷 1-5-25 JR 東日本四ツ谷駅前 |
設置年月日 | 1900 (明治 33) 年 5 月 |
建立者 | 子爵福羽美静 |
同駅の四ツ谷口を出たすぐの一角に少し赤みを帯びた小さな石碑がある。比較的大きな石碑などでよく見られるような題字もなく、独特の自体の仮名交じり文で表面いっぱいに碑文が刻まれている。
横から見る。石碑の厚みは一定ではなく独特の雰囲気である。そして画面奥のタクシーが停まっている所が四ツ谷駅の四谷口である。せわしない生活を送る現代人がどれだけこの石碑に足を留めているのだろうか。
背面から見る。こうやって見ると台座の石にまさに刺さっている感じがよく分かる。赤みを帯びたこの石は何という種類のものだろうか。
碑文は二部構成となっており、まず石碑いっぱいに書かれているのが建立の経緯である。そして最下段には桜の植樹に関わった有志一同の名が刻まれている。碑文の内容についてはこれまた当報告書『参考文献等』に記載の新宿法人会から読み下し文を引用させて頂く。
明治二十九年、大枝市右衛門・相沢三郎兵衛・杉山源右衛門・池田新兵衛・相沢金三郎・加藤源次郎・相沢栄助・植野兵作ら有志八名が四谷駅前から堀端にかけて景観をそえるように桜を植えた。そして四年後の三十三年、子爵福羽美静によって和歌
たれもみな このこころにて ここかしこ にしきをそへて さかえさせばや
を添えて桜の植樹記念碑を建てた。
冒頭に桜が植えられた場所は外壕を横切る築堤の上だったのではないかと述べたが、その根拠がこの碑文(読み下し文)である。『四谷駅前から堀端にかけて』という部分からの推測である。
なお以下の画像は拡大縮小が可能であるため碑文のどこに『四谷駅前から堀端にかけて』の記述があるのか、というよりそもそも何て書いてあるのかご教示頂けると幸いである。
また、正面下部には前述の読み下し文にもある有志八名の氏名及びこの石碑を刻んだ石工の名が合わせて記されている。
今回紹介した石碑は厳密に言えば鉄道碑とは言えないかも知れない。ただ、そこに四谷停車場が設置されたことにより生まれたものという時点で当サイトでは鉄道碑として取り上げるに充分な理由となる。今後もこのような広い意味での鉄道碑も取り上げていきたい。
数年前からどこかで四ツ谷か市ヶ谷かどこかに停車場前に桜を植えた記念碑があるという情報を得て、悶々としていたが偶然この石碑の前を通りかかった時に『もしかしてこれか !?』と思って立ち止まって碑文の中に『櫻』の文字を見つけた時は感激した。しかも建立が明治時代と分かって驚いた。よくぞこの変遷著しい都心の駅で残ったものである。関係者の配慮に敬意を表したい。
ところで、本文中でも軽く触れたかつて外壕を横切っていた築堤の場所(駅本屋の北側)に架けられている橋の桁は以下のようなものである。そう。あのイギリス人由来のアレである。これについても別途報告したい。