御坊の発展の歴史にとって、切っても切れない鉄道である。
2008/06/15 全写真のサイズを統一(一部縮小)しました。
2007/10/28 公開。
いよいよかつての終点であった旧日高川駅である。ここで、現役当時の地形図をおさらいしておきたい。
これまで、それなりのボリュームで報告してきた内容も距離にすると西御坊からここまで何気に 0.7km である。最終巻ではこの終着駅にこだわって報告したい。
出展:国土地理院 1/25,000 地形図「御坊」(S43/07/30 発行)※管理人一部加工
上の地形図で『現在地』と示した交差点より旧日高駅構内を望む。既に線路は分岐されており駅構内であることをうかがわせる。
さらに進むと不思議なポイントが現れる。どう見ても分岐不可能である。区間廃止前に既にこのポイントは廃止されていたのではないだろうか。
※一部プライバシー保護のためマスクをかけています。
廃止から 18 年が経過しているが、恐らく人為的な理由ではなく自然の力によりこれだけのずれも生じている。保線という仕事の重要性を改めて意識する。
その先には最後まで現役だったと思われるポイントも残っている。また向かって右の線路は奥の民家の手前で行き止まりの留置線のように見える。
ところが、その民家の手前には先ほどの線路の先に橋桁のみが残っていたのである。恐らく手前に二線と同様の構造であったと推測される。
しかし民家の土台なのかプラットフォーム跡なのかコンクリート構造物が存在するので、これも区間廃止より先に廃止された線路なのだろうか。
残された橋桁である。極めてシンプルな構造であり、その気になれば簡単に撤去可能だと思うがなぜか撤去されていない。また、さらに奥にはもう一線分の橋台が残っており橋桁のみが撤去されている。
同一地点を逆側から見る。やはり奥の線路が残っている二線とは別にさらにもう二線分線路があったようである。
プラットフォーム全体を望む。右側の植物が勢いよく茂っている部分に民家が建っているがこうやって見るとやはり両方ともプラットフォーム跡のようである。
ということは先ほどの線路のない二線はあの小さな水路を渡る必要があったのか疑問に思えてくる。どのような線路配置だったのだろうか。
ところで、民家の土台のようになっているプラットフォーム跡の一部には豪快な亀裂が発生しており、他人事ながら余計な心配をしてしまいそうになってしまう。
反対側のプラットフォーム跡である。ほぼ完全な姿で残されておりここを利用していた人にとっては変わり果てた姿とも言えるし、未だに過去の風景を思い出させてくれる姿でもあろう。
ここから見てちょうどホームの向こう側には駅舎もあった。
ここには『3K 365』とのペイントが残っている。しかし、距離標の類は発見できなかった。プラットフォームの後の一部は崩壊し、内部に敷き詰められた玉石が顔を出している。
西御坊方面を振り返る。かつてここから乗車するためにホームに並んだ人々が見た光景である。それにしても左側の民家は思いっきり駅構内(跡)に建っている。
駅舎跡である。現役当時はこちら側から駅舎に入りホームへと進んでいた。知らない人がこちらから見ると何か建物の跡には思えるが鉄道のそれとは気がつかないだろう。
駅舎跡は基礎部分のみが残されており建物の大きさを実感できる。画面右側にホームがある。
駅舎とホームの間には階段も残されている。一体どれくらいの人々が通ったのだろうか。
駅終端部より西御坊方面を望む。すっかり植物の侵略を許し地面の様子をうかがうことはできない。さらに左側の民家にまで侵略は及んでいる。
逆の言い方をすれば線路部分は手入れがされているのかも知れない。
ここで廃止区間は終了だが、ふと終端方向をみると地形図にもあるように日高川にぶつかっているため堤防がある。よく見ると古い形式の橋が見えたため言ってみることにした。
画面右側の民家の屋根の軒先の薄緑色のものがそれである。
そこには驚愕の光景が展開していた。
右は国道 42 号の日高川を跨ぐ天田橋である。これについては別途別の機会に報告させていただきたい。それどころではない。
日高川のど真中に立ちはだかる橋脚は一体どういうことなのだろうか。そしてなぜ現役の橋の橋脚の数に比べ極端に少ない一基だけなのか。
先入観と偏見かもしれないが道路橋用に見えない。どうしても鉄道橋を想像してしまう。
逆側から見る。橋脚のほぼ上にかろうじてみえるグレーの建物に左側が旧日高川駅跡付近である。こうやって見ると紀州鉄道の路線とは角度が違うようにも見える。
が。
橋脚はこれにとどまらず水中にも潜んでいた。撮影している天田橋に斜めに合流するように二か所あるのがお分かりだろうか。これについては素直に旧天田橋のものであろう。
とすると、いよいよ孤立している橋脚は紀州鉄道のものなのだろうか。
橋脚を改めて観察する。何というかいい感じの絵である。
橋脚の上部に何か残っている。
これが持てる機材の性能いっぱいのアップ。これを見ても道路橋のものか鉄道橋のものか素人の私には全く判断ができない。
しかし、この小さな鉄骨はなんだろうと思っていろいろ調べていると地元で印刷業を営むおかだプリント『御坊の名物紹介』に以前のこの橋脚の写真を発見したのであわせてご覧頂きたい。
前述の通り、橋脚の向きから言って鉄道橋である可能性は低い気もするするが、諦めきれないので若干の検証を試みた。
出展:国土交通省 国土画像情報(カラー写真) 整理番号「CKK-75-14」(S50 撮影)※管理人一部加工
旧日高川駅から川に残る橋脚へ直線を引くと、この航空写真でも橋脚の向きに無理があるようにも見え、残念ながら紀州鉄道関連の可能性は低いようである。しかし、国道 42 号の旧天田橋だとしても水中に沈む橋脚跡からすると旧々天田橋なのか疑問である。
何故ならば、見ての通り姿をさらしている橋脚はコンクリート製であるが水中に沈む橋脚跡は石造りとおぼしき構造なのである。
ご覧頂きたい。中央の三か所程ある穴は一体。。。
こちらには同様の穴が四か所ある。まさか木橋? いや、それにしてはいくら何でも細すぎるだろう。
現在のところ姿を見せている橋脚跡の正体について確実な情報を持ち合わせていないため、継続課題としたい。
なお、道路橋としての天田橋については地元で建設業を営む『小池組』のホームページに明治時代の貴重な写真があるのでご覧頂きたい。また御坊市もホームページ内『写真で見る御坊市の風景』として大正時代の天田橋周辺の風景写真が掲載されている。
本路線の廃止区間は、全線を通して遺構が多く残されていることと実際に生活道として利用されている部分もあることから散歩がてら調査に勤しむには好都合な調査対象と言える。距離も 1km にも満たない。
また、通常このような廃線区間に足を踏み入れると、往々にして地元住民に不快な思いを持たせたり迷惑をかけてしまう可能性も無きにしも非ずであるが、ここでは逆に『臨港線を見に来たのかい?』というような声を掛けられる。私のように遠方(東京)から来たなどと答えると好意的な受け答えをして頂けることもあるようである。私の場合はうっかり見落としていた腕木式信号機跡を教示頂いた。
今になってみれば、あの橋脚のことを質問すればよかったと後悔することしきりである。
今でこそ『紀州鉄道』なる社名であるが、地元にとってはやはり『御坊臨港鉄道』であり、『臨港線』である。
ちなみに、私の地元では事業者こそ一応変わらず JR であるが路線愛称が『福北ゆたか線』などという妙なものがついてしまった。私にとってはやはり『筑豊本線』である(正式名称としては残っているが)。きっとそれと似た感覚であろう。とてもよく分かる気がしている。
このようにやはり地元の方にとっては大事な財産とも言えるこの路線については是非ご自分でその雰囲気を感じて頂きたい。昭和初期開業の鉄道の雰囲気も同時に味わって頂きたい。くれぐれも地元の方には迷惑にならないよう。
なお、現役区間に関しては本報告書では一切触れていないが、前面展望動画を撮影したのでご覧頂けると幸いである。共同撮影者の管理するページより紹介したい。
また、上記動画を以下の再生リストで連続して視聴することも可能である。