多摩川架橋の歴史。
2009/12/13 DeepZoomPix サービス停止に備え該当部分を削除しました。
2009/06/28 動画コンテンツを追加しました。
2008/06/21 土木学会『土木デジタルアーカイブス』より関東大震災時の旧六郷橋被災状況写真を追加しました。
2008/06/17 全写真のサイズを統一(一部縮小)しました。
2008/04/04 総評に同区間を含む【品川~川崎】(後半)の京急車両からの前面展望動画を追記しました。
2008/03/26 公開。
京浜急行電鉄はその名の通り京浜間を連絡する鉄道である。その歴史は古く開業より既に 100 年以上が経過(2008 年現在創立 110 周年)しているが、京浜間に横たわり古くから交通の流れを分断してきたのが多摩川(六郷川)である。
神奈川県内にある現在の大師線を創業路線とし現在のような高速鉄道ではなかった当初の京浜急行電鉄(当時京浜電気鉄道)は、この多摩川に架かる東海道筋の橋梁架設人(六郷架橋組合)による通行量が徴収されていた六郷道路橋を買収した上でそこに併用軌道として線路を敷設し、東京都内への路線延長を画策したのである。
しかし、買収した六郷道路橋は鉄道用としては脆弱で併用軌道敷設が困難であることが判明したため、上流方に仮橋として単線木橋を建設することによりついに多摩川を渡ったのである。この仮橋を使用しての開業区間は六郷橋(現存せず)~大森停車場前(現存せず)間であり、1901(明治 34)年 2 月 1 日の開業であった。
単線木橋は仮の措置であり、当時多摩川を渡る部分は上述の通り現在とは異なり前述のとおり東海道筋(現国道 15 号)に沿った位置に線路があったが、横浜方面へのアクセス利便性向上のため 1906(明治 39)年 10 月 1 日の併用軌道区間であった雑色~川崎間複線専用軌道完成に伴い新たに仮の複線木橋が架けられた。
ところで、買収した道路橋は数年後京浜電気鉄道が無料化に踏み切り後に政府にも献納されたが、その数年後には流出してしまう。当時道路橋を利用していた人々にとってはせっかく無料で通行できる貴重な橋を失いさぞかし残念であっただろう。また京浜電気鉄道にとってはせっかく買収しても線路も引けず無料化までして結局流されてしまったのだから、どんな思いだったのだろうか。この道路橋としての六郷橋は他でもない天下の東海道であり当然その後再建の歴史があるが、ここでは取り扱わない。
仮の複線木橋架橋より 4 年後の 1909(明治 42)年には六郷川鉄橋と呼ばれる本格的な橋梁の建設に着手し二年後の 4 月 1 日についに開通をみている。
この鉄橋はトラス橋 6 連と上路プレートガーダー 24 連から成る全長 515.897m という堂々たるものであった。恐らくある程度の年齢以上の方にとってはこの鉄橋が京急の六郷川鉄橋として親しみを覚えているかも知れない。
そしてこの六郷川鉄橋は完成より実に 61 年後の 1972(昭和 47)年に現在も使用され続けている新橋梁への架け替えとなり現役を引退したのである。
ちなみに、もし現在も残っていたら間違いなく土木学会『歴史的鋼橋集覧』への殿堂入りを果たしていたであろう。
この架け替えの結果旧鉄橋の多摩川上流側 10.5m の位置にプレートガーダー桁なしのトラス 8 連 550.56m と装いを新たにし、またこれに伴い新橋梁の東京側にある六郷土手駅の高架化と同駅及び京急川崎駅付近の線路の付け替えが実施されている。
本報告書はこの六郷川新橋梁及びその架け替えに伴う橋梁取り付け部の線路付け替えにより発生した旧線区間について現地調査を実施したものである。
調査日:2007/04/29、2007/05/03、2007/09/16、2007/10/20
年月日 | 事象 |
---|---|
1900/07/19 | 六郷道路橋を六郷架橋組合より買収。 |
1901/02/01 | 六郷橋大森停車場前間開通。 (六郷道路橋は強度不足により軌道敷設不可であったため、別途仮橋として単線木橋を建設) |
1903/08/10 | 買収した六郷道路橋を京浜電気鉄道管理の下に無料化。 |
1906/10/01 | 梅屋敷~学校裏(現平和島)間、雑色~川崎間の複線専用軌道(現在のルート)開通。 |
1906/12 | 六郷道路橋を政府に献納。 |
1909/03/24 | 六郷川鉄橋の建設工事着手。 |
1910/08 | 六郷道路橋流出。 |
1911/04/01 | 六郷川鉄橋開通。 |
1971/06/27 | 六郷川新橋梁(現橋梁)の上り線を切り替え供用開始。併せて六郷土手駅高架化。 |
1972/03/31 | 六郷川新橋梁(現橋梁)の下り線を切り替え供用開始。六郷土手駅高架化完了。 |
調査対象旧線区間の地図である。吹き出しにマウスカーソルを合わせると簡単な説明がポップアップするのと地図上でマウスホイールによる拡大や縮小、さらにドラッグによる移動や上部メニューによる航空写真への切り替えも可能なのでご利用頂きたい。
六郷川新橋梁架け替え前のおおよその旧線位置及び主要なポイントを示した。今回はまず少々しつこい位に地図を取り上げ(ちなみに持っているもの全て)、同区間の変遷を追っていくがお付き合い願いたい。
明治 37 年頃発行の京浜電鉄遊覧地案内図である。京急(当時京浜電気鉄道)の多摩川越えルートが現在の京急本線とは異なり街道である東海道筋に架けられた道路橋の六郷橋付近を経由していた頃の案内図である。
雑色駅より西側多摩川を渡った南詰には六郷橋駅があった。また、この図では品川(八ツ山)方面から川崎駅へ直通運転が可能なように見受けられるが当時は六郷橋駅構内配線上それはできず、むしろ創業路線である大師線大師駅への直通運転となっていたのである。つまり、川崎駅へは六郷橋駅での乗り換えが必要であった。
出展:京浜電鉄遊覧地案内図 大田区地域情報誌『おとなりさん』 2007 年 5 月号 ※管理人一部加工
撮影日時が不詳であるが、京急八十年史におよそこの年代と思われる貴重な写真が掲載されている。電車の右側にある橋が道路橋である六郷橋であり、その傍らに電車用の仮橋が架けられている。
神奈川県下で産声を上げた京急の前身は今日からは想像もつかないこのような様子で多摩川を渡り東京都心を目指したのである。
出展:六郷仮木橋を行く電車 京浜急行電鉄社史編集班編『京浜急行八十年史』 ※管理人一部加工
明治 41 年発行の旧版地形図では明治 44 年開通の六郷川鉄橋のさらに前の橋梁即ち複線の仮木橋と思われる橋梁が描かれている。
何故か明治 39 年 10 月 1 日開業の六郷土手(開業当時は六郷堤)駅の記載がない。交差する道路(旧堤通り)の南北どちら側に駅舎があったのか判然としないが南側すなわち多摩川寄りに設けられていたようである。
橋梁取り付け部分の線路が不自然に曲がっているのは数年後に建設する六郷川鉄橋の建設を見越したものであると思われる。このことから、ここに描かれている橋梁は仮の複線木橋であると考えた。というのは、地図記号としては『鉄橋』になっていると思われるからである。
また、この地形図では六郷土手駅付近からの折れ曲がった線形部分に築堤も描かれている。
ところで、主要街道である東海道がなぜこんな開けた場所でこんなに不思議な曲がり方をしているのだろうか。
出展:国土地理院 1/20,000 地形図「大森」(M41/12/28 発行) ※管理人一部加工
ほぼ同時期発行の京急川崎駅周辺の地形図である。六郷土手駅側と同様に橋梁部分は後に建設する六郷川鉄橋の用地を確保するためか不自然にずれている。また、現在と異なり多摩川を渡ってから京急川崎駅までのおよそ半分は築堤により橋梁への取り付けを行っていたようである。
京急川崎駅は明治 35 年開業であり、当時はなんとそのものずばり『川崎』を名乗っていた。しかしこの地形図には官尊民卑の現れなのか駅名の記載がない。その京浜電気鉄道川崎駅には大師線の終端用のループ線も描かれている。
余談ではあるが、これらの時代の地形図を見るたびに現在からは想像もつかない田園風景に驚かされる。京急川崎付近には大きな池のようなものまである。しかし、やはりさすがと言うべきか天下の東海道沿いは既に一大市街地である。
ところで、上の地形図でも登場している東海道の六郷橋の中央の二本線は何であろうか。この時点では既に六郷橋の通行は無料化されているはずなので料金徴収関連施設でもないと思われるが。
出展:国土地理院 1/20,000 地形図「川崎」(M41/04/30 発行) ※管理人一部加工
大正 12 年発行の地形図では明治 44 年に完成した六郷川鉄橋が描かれている。それに従って、仮木橋の痕跡は既に失われている。六郷土手駅付近の築堤は旧国鉄東海道線と同様の長さに延長されており、その先の鉄橋が始まる地点は現在堤防が築かれている場所とほぼ等しいと思われるため、当時既に多摩川堤防の計画がある程度あったのかも知れない。
ここでは六郷土手駅はめでたく駅名が記載され、現在同様駅舎も旧堤通りの多摩川寄りにあったことが分かる。
しかし、東海道はまだまだ不思議な曲がり方のままである。この地形図から察すると途中の大きな湿地を避けているだけのようにも見える。
出展:国土地理院 1/10,000 地形図「蒲田」(T12/10/10 発行) ※管理人一部加工
同年代の川崎側である。六郷土手駅付近同様やはり橋梁への取り付け部は自然な直線となっており仮橋の痕跡は無い。しかし、その先の京急川崎駅までの築堤はほぼ以前の長さを踏襲している。
京急川崎駅付近も都市化が著しく明治末期の田園風景は既に想像しがたい状況である。大師線のループは本線と切り離されたようである。つまり現在のように大師線内区間運行が既に確立されていたのである。実は明治 43 年 9 月時点での記録として本線同様大師線も驚くべきことに 8 分間隔でのダイヤであったという。
また大きな変化として現在の国道 15 号が建設されつつあるようである。明治 18 年制定の國道二号(東京ヨリ大坂港ニ達スル路線)である。まだ多摩川をわたる道路橋としての六郷橋は現れていない。
出展:国土地理院 1/10,000 地形図「川崎」(T12/10/10 発行) ※管理人一部加工工
ほぼ同年代の大正 14 年発行の地形図では、京急(京浜電気鉄道)の路線が旧国鉄に引けをとらない(むしろ優れている)良好な線形で京浜間を結んでいるのが改めて分かる。よくこのようなあからさまにお上(旧国鉄)に真っ向勝負を挑んだ競合路線をお役所は認可したものだと思う。
未だ六郷土手駅付近の多摩川堤防及び現国道 15 号に架かる六郷橋道路橋(現在の橋の前身)もまだ完成していない。
出展:国土地理院 1/25,000 地形図「川崎」(T14/02/28 発行) ※管理人一部加工加工
昭和 5 年発行の地形図である。六郷土手駅は旧堤通りの北側に駅舎が移転している。この移転理由や時期は不詳である。六郷川鉄橋も変化はなく六郷土手駅との間の築堤も健在である。ただし、私鉄の線路記号が旧国鉄の同様のものに変化している。
そして、大きく以前と異なるのは現国道 15 号開通と大正 14 年 8 月完成の六郷橋の出現であろう。
出展:国土地理院 1/10,000 地形図「蒲田」(S05/02/28 発行) ※管理人一部加工
同年代の川崎側である。六郷川橋梁と京急川崎駅との間の築堤もやはり健在である。ちなみに明治末期に建設された六郷川鉄橋は大正年間には関東大震災で被災し橋脚が折損したものの見事に修復され無事に昭和の時代へ生きながらえている。
大師線の終端ループが廃止されており本線とは独立した頭端式ホームが新設されているようである。また、本報告書では取り上げないが大師線は大正 15 年 12 月に新宿~六郷間と昭和 3 年 12 月に六郷橋~川崎大師間が道路上の併用軌道から路線変更し専用軌道化されており、道路橋である六郷橋南詰に六郷橋駅が大正 15 年 12 月 24 日に開業している。しかし、残念ながら同駅は戦時中に営業休止し昭和 24 年 6 月 30 日付で廃止されている。
余談だがその大師線六郷橋駅付近の交差点形状は都心の近代の都市計画でよく登場したと思われる四つ葉のクローバー型というものだろうか。
出展:国土地理院 1/10,000 地形図「川崎」(S06/02/28 発行) ※管理人一部加工
ほぼ同年代の昭和 7 年の地形図でも六郷川鉄橋周辺は特に変化は認められない。しかし、また本報告書の範疇外だが、京急川崎駅の南から旧国鉄川崎駅南にあった貨物取扱所まで京急の川崎貨物線が大正 14 年 1 月に開業しており、そして昭和 13 年 7 月に廃止されている。
さらに旧国鉄川崎駅には昭和 2 年 3 月 9 日開業の南武鉄道(現 JR 東日本南武線)が描かれ、その先の矢向駅より分岐した多摩川の砂利採取の貨物支線(矢向~川崎河岸)が登場している。なお、この貨物支線は昭和 47 年 5 月 25 日に廃止されている。これについては以下の調査報告書ご覧頂きたい。
出展:国土地理院 1/25,000 地形図「川崎」(S07/10/30 発行) ※管理人一部加工
時代は下って終戦直後昭和 22 年の地形図である。六郷川橋梁は以前と変わりなく明治時代より線路を支え続けている。
余談が多くて申し訳ないが、旧国鉄川崎駅前からの不自然は空白地帯は現在の神奈川県道・東京都道 9 号川崎府中線のうち同駅東口の通称『市役所通り』と呼ばれている部分及び国道 132 号である。
この戦争近辺の年代の地形図は年代考証には不向きである。例えば先に紹介した京急川崎~旧国鉄貨物取扱所間の川崎貨物線にしても、昭和 13 年には既に廃止されており既に撤去済みだと思われるが追随できていない。また、多摩川の東京側の市街地ぶりが唐突かつ手抜きな印象をぬぐえない。
出展:国土地理院 1/25,000 地形図「川崎」(S22/07/25 発行) ※管理人一部加工
最後の地形図は最新のものである。明治時代に建設された六郷川鉄橋は昭和 47 年に 61 年に及ぶ現役生活を終え、新橋梁(現橋梁)に架け替えられており、それに伴い六郷土手駅も駅舎移転及び高架化が実施されている。
一見分かりづらいが現在の六郷川橋梁はかつての六郷川鉄橋の上流(西)側 10.5m の位置にあるため、京急本線の線形は六郷土手駅の北方から京急川崎の北方にかけて以前よりも微妙に一直線ではなくなっているはずである。1/25,000 では判別が難しいかも知れないが。
出展:国土地理院 1/25,000 地形図「川崎」(H22/03/22 現在) ※管理人一部加工
鬼のように長い前振りの後ようやく調査結果である。まずは現在の六郷川橋梁への架け替えに伴い駅舎が移転高架化された京急本線六郷土手駅周辺から取り上げたい。
現在の同駅周辺の Google Earth による航空写真である。現在の京急本線雑色~六郷土手間においておよそ下の赤枠部の不自然(理由からするととても自然)な地割りが六郷川橋梁付け替え前の旧線位置である。
駅舎移転高架化から二年後の昭和 49 年航空写真である。これを見ると旧線位置の土地利用状況は当時から現在にかけてあまり大きな変化が無いことが分かる。
出展:国土交通省 国土画像情報(カラー写真) 整理番号「CKT-74-15」(S49 撮影)※管理人一部加工
ちなみに、この終戦直後の米軍撮影の航空写真が国土交通省より公開されている。残念ながら写真画像を保存してはならないというセコい仕様のためリンクの紹介にとどめたい。
『国土変遷アーカイブ』東京都大田区(昭和 22 年米軍撮影)写真番号:USA-M389-8
現在の六郷土手駅南端の多摩川の土手から旧線位置を雑色方面に見る。興味のない人から見ればまるで『大田区軟式野球連盟』の案内写真のようであるが、駐車場が旧線跡であることが歴然である。駅舎にへばりついているのはエレベータであり後年設置されたのものであろう。
旧線はちょうどその辺りから自動車の所を通ってほぼまっすぐこちらへ向かっていた。
上の写真の一番奥六郷土手駅エレベータ付近から逆に京急川崎方面を望む。かつてはこの駐車場を電車が走り、その先を明治時代に架けられた鉄橋で多摩川を渡っていたのである。
旧堤通りから旧線位置を京急川崎方面に見る。このような狭い場所で旧線から高架線への切り替えは一体どのように行われたのだろうか。上り線(画面右側)から切り替えたと言っても、この旧堤通りに架かる橋梁も半分づつ架けたわけでもないだろう。施工計画や工事記録等ぜひ見てみたい。たい。
駅舎はかつてこの旧堤通りの手前側(雑色寄り)にあった。
同地点より雑色方面を望む。旧線位置は京急パーキングとなった。なお、高架移転前の駅舎は恐らく京急パーキングの看板付近にあったと思われる。
京急パーキングの雑色寄りから駐車場を京急川崎方面を見る。左の石積みはまるで旧ホームの様相(未確認)。というより私にはそのままホーム跡にしか見えない。奥に見える現六郷土手駅舎よりこの地点までおよそ 90m 程なのでホーム長としても不自然ではなく(むしろ短い)、使用されている石もホーム下によく見られる花崗岩系のようである。る。
現地では気がつかず、帰宅後この写真で気がついたためこの石積みについて現地調査を実施していない。要再訪であるが、どなたか情報をお持ちの方はいらっしゃらないだろうか。
同地点より現在線仲六郷架道橋を望む。左下に見えるフェンスがそのホーム跡とおぼしき石積みの終端部である。かつてここに踏切があったはずである。そういう意味では駅舎のない踏切側から直接ホームに上がれるのも不自然か。
上の写真にも実は写りこんでいる仲六郷架道橋銘板である。最終的に旧線の下り線(上の写真で手前側)の高架移転は昭和 47 年 3 月であるが、その直前の 2 月竣功となっている。
ところで、上り線の切り替え完了がその前年の昭和 46 年 6 月なのだが、この橋梁は単線分ずつ架設されたのだろうか。上り線側の銘板の有無は未確認である。やはり要再訪か。むむぅ。
同地点より雑色方面を望む。この道路も旧線跡なのかどうかは未確認である。現在線の高架下は『京浜電鉄本線、空港線連続立体交差事業』に伴う資材置き場となっている。
現在写真奥に向かって地平へ向かっている現在線も同事業により連続高架となる予定である。
上の写真の奥現在線が地平に降りたあたりの踏切から現在線を六郷土手方面に望む。奥に見える六郷川橋梁へは右に大きく曲がっているのが分かる。旧線は現在線の左側を通り、現在のホームよりの裏側を経て現在の六郷川橋梁より約 10.5m 下流側(画面左側)を通っていたのである。
しかし、ここも狭い用地内でどのように高架線へ切り替えたのだろうか。
六郷土手駅下りホームより旧線位置(雑色方面)の望む。京急パーキングの奥に見える緑色のフェンスの下にまるでホーム跡のような石積みがある。
奥の雑色駅から電車が勾配を駆け上がってくるここからの眺めも連続立体交差事業により変わっていくのだろう。ちなみに、事業概要は大田区ホームページ内『京浜電鉄本線、空港線連続立体交差事業概要図』(PDF)を参照頂きたい。
現在の Google Earth による六郷川橋梁の航空写真である。トラス 8 連の美しい姿である。旧橋梁は下流側(画面右側)にあったが、ちょうどその辺りに草むらが並んでいるようにも見える。
六郷川橋梁全景を多摩川右岸(京急川崎側)より六郷土手方面を望む。恐らくちょうど撮影地点辺りに旧橋梁が架かっていたと思われる。
同地点より旧線位置を見る。旧橋梁は概ねテント辺りだったのだろうか。痕跡は見当たらない。
六郷土手駅上りホームより六郷川橋梁を望む。うがった見方をすればこの橋梁への線路付け替えのため、線形が無理に曲がってしまっているのが分かる。かつての線形はより良いものだったと思われる。
ちなみに、電車が通るとこんな感じである。下り快特三崎口行き(BLUE SKY TRAIN 編成)である。ちなみに奥に見える車両は動いていない。実はこれも下り列車であり下り線を行くこの青い快特をなんと上り線しかも橋の上で退避しているのである。さすが京急、素晴らしい。
六郷川橋梁銘板である。昭和 46 年 3 月竣功とある。なるほど私と同い年か。しかもわずかひと月違い。この三ヶ月後の同年 6 月より上り線が供用開始となったのである。
同じく今度はコンクリート橋脚銘板である。設計荷重の『60 屯車』が渋い。
竣工当時の六郷川橋梁である。『京急八十年史』より。奥は旧橋梁(六郷川鉄橋)。微妙に見えないが橋脚が明治時代の橋梁によく見られる円形の切り欠きのあるタイプである。
旧橋梁の単独写真も載せて欲しかった。> 京急八十年史
出展:六郷川橋梁と六郷川鉄橋(旧六郷川橋梁)京浜急行電鉄社史編集班編『京浜急行八十年史』 ※管理人一部加工
現状である。畏れ多くも全くの偶然(上の写真は帰宅後発見)でほぼ同地点での撮影となった。当時の担当者と同じアングルを期せずして狙ったと思うと何となく嬉しい。
そしてやはり京急と言えば『赤い電車』である。
さらに、ほぼ同アングルの旧六郷川橋梁(六郷川鉄橋)である。京急ホームページ内『百年史』より。電車も一両なのがとてもいい味わいである。
恐らく橋脚は煉瓦積みの美しいものであったろう。水中部は二基の円形ウェルと思われる。さすがに明治時代ゆえトラスのスパンも現在よりは短い。また、上部構造も現在のワーレントラスではなく、明治時代に多かったプラットトラスであったことが分かる。
多摩川の護岸もなんと言うか自然に近い状態と思われる。この当時川の水はどれくらいきれいだったのだろうか。現在は電車の手前に小さく写る人の辺りに現在線が通っているのであろう。
出展:六郷川鉄橋(旧六郷川橋梁)京浜急行電鉄『百年史』 ※管理人一部加工
土木学会『土木デジタルアーカイブス』にて、1923(大正 12)年に発生した関東大震災での旧六郷川橋梁の被災状況を確認した写真を発見したのでご紹介したい。
橋脚部において円形ウェルとアーチ部との間に巨大な亀裂が生じており、事実上切り離されてしまっているようにも見える。しかし、これを復旧し最終的には冒頭で述べた通り 1972(昭和 47)年まで風雪に耐え抜いたのである。
なお、具体的な URL は本報告巻末を参照願いたい。
出展:土木学会編『関東大地震震害調査報告掲載写真』 第二巻 鉄道・軌道の部 ※管理人一部加工
出展:土木学会編『関東大地震震害調査報告掲載写真』 第二巻 鉄道・軌道の部 ※管理人一部加工
出展:土木学会編『関東大地震震害調査報告掲載写真』 第二巻 鉄道・軌道の部 ※管理人一部加工
現在の Google Earth による京急川崎駅付近の航空写真である。
六郷土手駅付近同様赤枠部に旧線の痕跡が残されている。旧橋梁への取り付け部及びそこから延びて国道 409 号を跨ぐ稲荷横丁架道橋である。
ちなみに、先に紹介した旧版地形図で築堤となっていた旧橋梁から京急川崎駅までの区間は現在は同駅を含め高架化され痕跡は無い。
その旧橋梁取り付け部及び稲荷横丁架道橋付近の現況である。当初何も知らないでこれを偶然見かけた時は京急川崎駅構内の引き上げ線か何かの一部かと想像していた。
しかし、その後この六郷川橋梁の付け替えの事実を知り関係を疑っていたが、この写真撮影の際偶然線路内で保線作業員と思しき方に大声で突撃取材を敢行し、確かにこれが旧橋梁の名残であることを直接ご教示頂いた。ありがとうございました。> 保線作業員氏
まずは、橋梁取り付け部の築堤部分から見ていきたい。上の写真のほうが見やすいかも知れないが、旧線の面影が築堤跡として残っている。明治 44 年当時のままではないにしても、ここに線路があった痕跡が 100 年以上経た現在も確認できることは素晴らしい。
フェンスがあるため、残念ながらこれ以上は近づけない。
ちなみに、上の写真の左下は川崎市六郷ポンプ場の敷地だが何気にするどい視線を感じると思ったらこちらが偵察されていた。
この築堤跡には柵も残されているが、実は古レールにより出来ている。残念ながらフェンスにより刻印等の確認は不可能であった。
次に、この築堤跡に続くガーダー橋である稲荷横丁架道橋である。まるで現役そのものの佇まいであり、現在も国道 409 号(稲荷横丁)をひと跨ぎにしている。
このガーダー橋の出自を示すものは以下の塗装標記のみであり、銘板の類は発見できなかった。京急八十年史においても構造物に関する記述は残念ながら簡単な一覧表程度であり、しかもスパン 10m 以上のみしか橋梁名の記載がないためこの橋梁の名称もこれによって初めて把握できた。
現役のように見えるのも当然で平成 8 年に塗装がメンテナンスされていたのである。さすがに現役国道が通っているので朽ちるに任せるわけにもいかないのであろう。
しかし、もう使用しないのならば何故撤去しないのだろうか。また、塗装の施工業者がなぜ『京急観光(D)』なのだろうか。
同架道橋の Google Earth による航空写真である。単線幅の下路プレートガーダー橋であることが分かる(影から)。また内部には微妙に細かい鉄骨が残されているようである。
桁底面である(輝度補正)。もう少しこの架道橋について考察を試みてみたい。
横桁の接合はリベットではなくハイテンションボルトであることから、およそ昭和 30 年代以降に製造されたと考えられる。と言いたいところだが、主桁ウェブには小さなリベット接合も見える。このリベットは少し前の塗装標記の写真にも写っている。ということは昭和 30 年代以降ではなく昭和 30 年代頃の可能性がある。
また、コンクリート橋台も何故そもそも単線用の作りなのだろうか。
傍らに並ぶ現在線の同架道橋である。右隣の旧線用の桁と異なりコンクリート桁となっている。また、主桁の本数は五本であり右側は下り線の分岐部に架かっているため三本分の幅を持ち左側は純粋に上り線一本分の幅であることが分かる。さらに、旧線の橋台は現橋台とは連続していないし複線分あったとも考えにくい。
と言うことは、六郷川橋梁の架け替えによりまず上り線が切り替わっているので初めに左側二本(上り線)分が先に架けられ線路を切り替え、そのすぐ隣にあったかつての上り線用のガーダー橋を撤去及び橋台の改造(幅の短縮)を実施し、下り線のコンクリート桁を架けて下り線を切り替えたとは考えられないだろうか(全然浅い考察)。
でも、何故プレートガーダーは残されたのかは全く不明である。情報をお持ちの方はぜひお知らせ願いたい。
今回はわずか一駅間に関する調査報告としてはそこそこのボリュームとなったが、私のような浅学な輩ではまだまだ伝え切れない歴史がたっぷりと詰まった物件だと改めて思う。
我が国で三番目に開業し、関東では最古の歴史を誇る電気鉄道会社としての貫録をこの一駅間の歴史をきっかけにちょっと調べただけでもひしひしと感じる。と言っても『京急八十年史』はずいぶん前に購入済みだったが。。。
開業した年の明治年間には既に社名に『京浜』を掲げ、川崎大師への参拝客輸送から都心を目指した鉄道にとって最大の難関がこの多摩川越えだったに違いなく、開業より事実 110 年が経過した今日においてもこの六郷川橋梁は同社所有の最大最長の構造物である。
個人的には昭和 47 年の現橋梁への架け替えの際、明治時代からの橋梁名を『新』なんぞ付けずにそのまま引き継いだのも当然なのかも知れないがあっぱれと感じている。また、お上である旧国鉄に橋梁を真横に架け真っ向勝負を今もって挑み続けるその姿勢とたゆまぬ努力は脱帽である。
いつもの事だが今回の調査対象でも周到な事前の机上調査等無しにとりあえず現地を見てから始まっているため、調査の取りこぼしや現地では逆に不明であった点がある(単純に調べ方が分からないものもあるが)。ざっとまとめると、こんなもんだろうか。
思いつくまま書いていると本報告書は一体何を調べて報告しているのか不安になってくるのでこの辺でご容赦を。これらに限らず何か情報をお持ちの方はどんな些細なことでもご教示頂けると幸いである。
最後に、現在連続立体交差事業に伴う高架工事たけなわの同区間を京急の二枚目役者 2100 系快特や普通列車等もろもろの前面展望動画で締めくくりたい。共同撮影者の管理するページから紹介したい。