世の中にはいろんな物があります。なかなかどうして日本も広いです。最高(永ちゃん風に)。
2011/06/07 『小ネタ』は今後ブログにて公開します。そのため、当ページ配下は今後更新されません。ご了承ください。
2008/06/18 全写真のサイズを拡大(一部縮小)しました。
近年首都圏の JR の駅での発車標は LED 方式の以下のようなものが最も普及している見慣れたタイプである。
これは JR 東日本南武線尻手駅 1 番線ホームでの発車標である。
実は、この写真に取り上げた発車標は既にちょっと他とは異なる特徴を持っている。すなわち、テプラのようなもので当駅を含むいくつかの駅名が表わされている。
実は、この発車標は以下のような表示モードを持っているのである。
いや、そんなすごいことではないかも知れないが、首都圏でこの表示モードを持つ発車標はあまり見かけないのである。その証拠にテプラが使用されているのではないだろうか。
便利な表示モードなので是非もっと多くの路線や駅で採用して欲しい。以下動画でもご覧頂きたい(同駅 2 番線ホームにて撮影)。
去る 2007/05/27 に『京急ファミリー鉄道フェスタ 2007』に出かけた。いろいろな展示車両や実演があり非常に充実した内容であったが、その中で個人的にヒットした展示車両があったのでご紹介したい。
説明によると『軽便トロ』と名付けられているそうである。ブレーキ機構付きである。
ところで、これを制動するときはそのブレーキ機構を使用するのは分かるのだが、力行の際は人間は乗るのか乗らないのか。機材運搬用とのことなので乗らないと思うがブレーキの棒は手押しするのには向かないだろう。一体どうやって。。。
ナイアガラ駅をご存じだろうか。高鉄分な方には釈迦に説法だとは思うが簡単に。東京都内の東急東横線祐天寺駅近くにあるカレー店のことである。
しかし、ただのカレー店ではない。そのコピーからして意気込みが違う。『鉄道ムードのカレーのお店 ナイアガラ』。近年この存在を知った私はなかなか行けなかったのだが、ついに調査することが出来た。
私があれこれ言うより動画をご覧頂きたい。行くべしである。
JR 東日本大井町駅にふくろうを発見した。知っている人は比較的少ないと思われる。なにしろ微妙に目立たない場所にいるからである。
まずは後姿から。
発見できただろうか。
なんというか、下から撮影していることからも分かるように頭上に位置しているのである。ただ、比較的すっきりとした場所にあるように見えるがやはり目立たないと思う。場所は同駅ホーム東京方の駅名標付近である。
ちょっと考えてみると、乗客がホーム上に頭上を見ることはそもそも少ないと思われる。電光掲示や時計等のサインには目が行くがそれ以外はあまり見ていないと思う。
では肝心の正面である。
何か物思いにふけったような憎めない雰囲気であるが、これは気がつかんと思う。ちなみに、このふくろうは 2 匹(正しい数え方が分らない)いる。
ここが池袋なら何となくわかるが、なぜ大井町なのだろうか。そこで、改札にいた駅係員に突撃取材を敢行した。その結果以下の回答を得た。
「ホーム上屋改修工事の際に設置されたが、経緯等詳細は詳しい者がいないため不明。」
まぁ、結局のところこれじゃはっきり言って何にも分らないのだが確認して回答してくれた若い駅係員氏、ありがとう。
どなたか情報をお持ちの方ぜひ連絡を頂きたい。
あの京急がステンレス車体の新車両を導入した。2007/03/31 より営業運転を開始した。踏切から偶然目撃したことはあったが例によって通過スピードが速いためゆっくり観賞できなかった。
が !
ついに、その姿を捉えることに成功したので嬉々としてデジカメの動画撮影機能を用いてショボい動画を撮影したのでご覧頂きたい。
先頭車前面が鋼製であるのがやはり『京急』を感じさせる。なお、撮影場所から分かるとおり乗車は叶わなかった。
そして京急と言えば可及的速やかな分割・併合である。ここでも A 快特として充当された新車両に D 特急が併合する場面を捉えた。
その際、興奮して D 特急の車両形式を確認するのを忘れてしまった。。。
画質はショボいが温かい目でご覧頂きたい。
2007/04/20 に『横浜アンパンマンこどもミュージアム』のオープンしたのを記念して 2007/04/21, 28, 05/05 に東急東横線に『みなとみらい号』が運転された。三日とも一往復であったようであるが、偶然にも回送中の同列車を撮影できた。
車両は埼玉高速鉄道の 2109-2209-2509-2609-2709-2809 編成が充当されたようである。
何というか、力の抜けるヘッドマークである。なんでも、車内でアナウンスされる『合言葉』を新高島駅で待ち構えるアンパンマンに伝えると小学生以下に限りプレゼントが進呈されるとのこと。いいねぇ。
京浜急行電鉄の京浜川崎駅では列車の分割・併合が頻繁に実施されている。特に『快特』と呼ばれる優等列車で多く見られ、当然分割・併合位置が決まっているのだが線路上にその位置を示していると思われる標識を発見した。
『誘停』?! これは一体何の略語だろうか。ご存知の方ご教示願いたい。
2010/02/11 鉄道碑調査報告書に再掲しました。
歌謡曲である。そしてあの曲である。と言っても実は私は聞いたことがない。井沢八郎『あゝ上野駅』である。
かつて上野駅が東北方面からの東京への玄関口だった頃、金の卵と呼ばれた集団就職者にとって心のふるさととも言えた昭和 39 年に発表された歌である。
歌詞をご紹介する。
どこかに故郷の香りをのせて 入る列車のなつかしさ 上野は俺らの心の駅だ くじけちゃならない人生が あの日ここから始まった (セリフ) 『父ちゃん僕がいなくなったんで 母ちゃんの畑仕事も大変だろうなあ、 今度の休みには必ずかえるから、 そのときには父ちゃんの肩も 母ちゃんの肩も、もういやだって いうまでたたいてやるぞ、 それまで元気で待っていてくれよな』 就職列車にゆられて着いた 遠いあの夜を思い出す 上野は俺らの心の駅だ 配達帰りの自転車を とめて聞いてる国なまり ホームの時計を見つめていたら 母の笑顔になってきた 上野は俺らの心の駅だ お店の仕事は辛いけど 胸にゃでっかい夢がある
まさに、初めて東京に降り立った集団就職者とその舞台となった上野駅のためにある歌と言えるだろう。そして、時は流れ平成 15 年この歌を記念する歌碑が上野駅に完成した。
今はこの写真にあるような集団就職の風景もなくなり、2007/01/17 井沢八郎氏も鬼籍入りとなった。
日本の高度成長を支えた集団就職者の労をねぎらうと共にや彼らの心の支えとなった歌を歌った井沢八郎氏のご冥福をお祈りします。
2010/02/11 鉄道碑調査報告書に再掲しました。
JR 東日本京浜東北線大森駅の北行(東京・上野)のホームには一見鉄分の低い石碑がある。【日本考古学発祥の地】の石碑である。
何故このような鉄道とは無縁と思われる石碑が駅のホームに鎮座しているのか。確かに大森駅近傍の線路際には大森貝塚と呼ばれる史跡もあるが、わざわざここにある必要があるとは思えない。
実は答えは右の写真の説明にある。写真では読みづらいため以下に転記する。
アメリカの動物学者モール博士が 1877(明治 10 年)横浜より新橋へ向かう汽車の窓から大森貝塚を発見しこれが契機になって日本の考古学が発達しました。このブロンズ像は当貝塚出土の土器を約 2 倍に拡大したものです。 1979 年 12 月
そう、汽車の窓から大森貝塚が発見されたのである。Wikipedia の『大森駅』、『大森貝塚』や『エドワード・S・モース』も参照されたい。大森駅は 1976(明治 9)年開業なので、開業の翌年のことである。当時はこの発見に大森駅は沸いたのだろうか。それとも、それまでは貝塚なんて気にもしていなかったわけだからニュースにもならなかったのだろうか。
JR 東日本京浜東北線蒲田駅の南行(川崎・横浜方面)のホームには鉄分の高い人にしか気がつくことがないと思われる微妙な部分がある。
お分かり頂けるだろうか。ホーム上に見えている柵から先は立ち入り禁止のため、我々一般ピーポーにはこれ以上近づけないのだが、ホームが微妙な曲線でえぐられている。
言うまでも無くこれはホームの端が建築限界に抵触していると思われる。開業当初よりホームと線路の位置関係は大きく変わってないのではないだろうか。
蒲田駅は明治 37 年開業であり、当時はもっと車両とホームは離れた乗りにくいものだったであろう。時代は移り車両は大型化の一途をたどり、ホームも安全確保のため車両ぎりぎりまで拡幅され続けた。
ただ、このホームのえぐれの理由は個人的にはよく分からない。時系列的な移り変わりに伴った結果であろう。
つまり、車両の大型化が先かホームの拡幅が先かどちらかであろう。しかし、実は個人的には後年のポイントの設定の可能性も捨てきれない気がしている。
最近東急の車両がホームに一部接触していたニュースがあったように思う。例えば上の写真のようにホームを少しだけえぐるだけでよかったのなら、設計ミスなのか施工ミスなのか確認ミスなのか何とも言えないが未然に防げた事故であろう。
そんな風に考えるとこのホームのえぐれも『安全第一』の思想の賜物にも思えてくる。
と言っても、そもそもこうならないようにするべきなのだろうが。
昨年 11/25 に JR 東日本立川~奥多摩間に『青梅・奥多摩レトロ列車』が走った。これは奥多摩地域で進められているレトロをテーマとした街づくりにあわせて開催されたもので、DD51 牽引の旧国鉄客車 スハフ 32 他による運行であった。
都心で DD51 を間近に見ることはめったに無いのであろう、多くの鉄道ファンが詰め掛け写真を撮るのも一苦労だった(お互い様であるが)。
私が育った福岡県筑豊地方では昭和 50 年代くらいまで実際にこのような木造客車が運用されていた。懐かしく思うと同時にやはり DD51 のエンジン音が久しぶりに聞けたのが嬉しかった。
と、そこへ『彼』が現れたのである。
どこからどう見ても『彼』である。JR 職員に連れられてきた彼はその後ホームへの客へのアピールタイムへと入った。
なかなかこういうイベントでのみお目にかかれないシチュエーションである。時代的にはマッチするような気がする。
最後にある程度の年齢以上の方(私を含む)にとっては懐かしい木造客車の扉付近の様子である。
シブイィィィィィィィィィィィィィィ!!
2007/01/27 に東京メトロ深川車両基地において『さようなら東西線 5000 系』と銘打った車両撮影会と工場見学会イベントが開催された。
このイベントそのものはまた巷から忘れられた頃に取り上げたいが、この会場である深川車両基地の最寄り駅である東京メトロ東西線東陽町駅の出口にそれはあった。
そのままである。漢字で書かれていないところにこの独特の雰囲気が生み出されている。東日本ではうどんがあっても『そば屋』であるが、私が育った九州を含め西日本ではそばがあっても『うどん屋』なので『ちかてつうどん』となるものと思われる。
私はこれを事前に察知していなかったためにこの駅へ向かう途中 JR の駅構内の立ち食いそばで食事を済ませてしまったことを激しく後悔することになった。